あなたの前には誰かいますか?
硬派でならしていた渉部が、このいかにも軟派なゲームにハマることなど誰も予想し得ない事だった。ジーザスも、ゴータマ・シッダールタ(お釈迦様の事ダヨ!)も、お天気予報士森田さんも、そして誰より渉部自身が……。
「かっ、かわいい! かわいすぎる!!」
ブラウン管の向こうの青い髪の根性の申し子的女の子の、眩しいばかりの笑顔と魅惑的なその声に操られた渉部は、次の日のくだらねえ部活の事などすっかり忘れ、プレイステーションのパッドを握り締め、ボタンを連打しまくった。
鳥のさえずりとともに渉部の部屋に差し込む朝の光に照らされたブラウン管には、伝説の樹の下で渉部に勇気を振り絞って話し掛ける虹野さんの姿が映し出されていた。
どういうワケか、ガキの頃から金に困っていた貧乏少年渉部は、その少ない金をどうにかやりくりし、数々の愉快なゲームをプレイしてきた。しかし、それらがかすんでしまうほど、『ときめきメモリアル』は愉快で奥深くて渉部の心を掴んで放さない内容であり、
その凄まじいまでの洗脳パワーは渉部の人生をも狂わせるものだった。
ゲームの楽しさを再認識した渉部はとりあえずくだらねえ部活を辞めた。いまだ偏見の目で見られるゲームというものの地位を向上させるために布教活動をするべきだと考えたからだ。というのは嘘で、ただ単に『ときメモ』がやりたかったから辞めたのだった。その結果、『ときメモ』をやりまくった渉部は、他人との接触が極端に減り、気味悪がれ、見事に、友達が、減った。
『ときメモ』がヒットした理由についてはあらゆる人、雑誌で語り尽してしまったので、いまさら語るのもナニなんですが、渉部がすごいなと思うのが、女の子がすごくリアルに感じられるところなんです。
こう言うと「何言ってんだコイツぜってーモグリだぜほんとに『ときメモ』やったことあんのかよテキトーこいてんじゃねえよふざけんなよお前アンパンとジュース2秒で買ってこい先生にチクんなよ」てなこと言われそうですが、まあ最後まで聞いてください。
リアルと言えば最近ですとCGで3Dでポリゴンでテクスチャーで、えっとえっと、まあ、後は良く知らないんで自分で調べてもらって、ようするにグラフィック的な事を言いがちです。『FFZ』がいい例です。非現実的な世界でありながら、その美麗なグラフィックに人はリアルだと感じます。
あとは設定的な事です。現実的に設定された世界観はリアルという言葉で表現されます。ゲームに現実的なシビアさを求める人は多いと思います。
渉部は『ときメモ』にその両方ともに当てはまらない"リアルさ"を感じるんです。
"女の子が本当にそこにいるような感覚"、それです。
『ときメモ』を初めてプレイする人が照れずにプレイする事はまず、ありません。
気に入った女の子に「一緒に帰ろう」と言われれば笑みを浮かべ、デートに誘われればやっぱり笑みを浮かべ、女の子が一番喜びそうなセリフを選び、照れる彼女を見て喜び、デートをすっぽかせば、プレーヤーは後悔し懺悔し悔い改めそれでもなお罪悪感に苦しむのです。
これが嫌いな女の子でも、デートに誘われれば、「来んなよ」と文句を言いながら絶対断りませんし、やっぱり女の子が一番喜びそうなセリフを選ぶのです。ようするに女の子に嫌われたくないわけです。
つまりプレイする人は画面上に映し出されたドット絵を本物の女の子と同じように感じ、その娘に好かれたい、嫌われたくない、と思いながらプレイすることになります。『ときメモ』の場合、これが非常に強烈なんです。
基本的にコンピューターゲームというものは単なる数値のやり取りに状況説明が付随したものだと言えます。それはグラフィックであったり、文章であったり、音声だったり様々ですが、それらがプレーヤーの想像を喚起させ、その状況を理解させる必要があるワケです。そしてそれが上手であることが"良いゲーム"の条件の1つだったりするワケです。まあ、"プレイする事が気持ちいいゲーム"というのもありますが、それでもやはりなにかしらの状況説明がある場合がほとんどです。
『大戦略』を例に出して説明すると、設定された能力値をプレーヤーが戦車と感じるグラフィックで表す事により初めて、それが単なる数値ではなく戦車になるわけです。これは単に"戦車"という名前を与えるだけでもかまいませんし、キャタピラの音でもかまわないわけです。極端な話、説明書に「これは戦車だよ。そう思ってね」と書いとけばいいんです。ようするにそれらの状況説明が、プレーヤーに"戦車"だと思い込ませれば良いワケですから。これに"戦闘機"という名前をあたえるとそれは戦闘機になるし、"戦車"の名前を与えられながらグラフィックが"虹野沙希"だとプレーヤーは混乱しちまうわけです。
話がそれたので『ときメモ』に戻します。
『ときメモ』の場合はというと、ときめき度や友好度、傷心度などの数値の集合をプレーヤーに女の子だと認識させれば良いわけですが、とりあえず女の子の絵を充てればそれで十分女の子と認識させることができるはずです。
『ときメモ』をプレイしながら本気で「なんであさりばっか出てくんの?」とか「これって超高層ビルと仲良くなるゲームなのかい?」って言う人はいないはずです。
やや(?)大袈裟な例えになりましたが、女の子のグラフィックがあれば簡単に女の子だと認識できるようになります。でもこんなことは他のゲームでも十分できていて別に『ときメモ』だけ特別なワケではない。
コナミ曰く、『ときメモ』は恋愛シミュレーションというジャンルだそうです。つまり『ときメモ』に出てくる女の子は絶対に恋愛対象にならなければならない存在なワケです。これはプレーヤーがドット絵に恋愛感情を持つくらい女の子に存在感が無ければゲームが成り立たなくなるということを意味します。これはとても難しい事ではないでしょうか。『大戦略』でプレーヤーに戦車だと感じさせるのとはワケが違います。
『ときメモ』は発売当初、グラフィックは不評だったと聞きます。にもかかわらず『ときメモ』があれだけヒットし、女の子それぞれにファンがつき、渉部のように贔屓の女の子にハマって本気で恋するような人が出たと言う事は、登場する女の子にはグラフィック以外でプレーヤーに"そこに女の子がいる"と感じさせる何かがあったんです。
それがなんなのかは、今まで散々語り尽くされた事なんです。プレーヤーの行動に何かしらの反応を示し、しかもこっちの行動次第で違った反応を帰ってくる。"三択"という単純な仕組みが会話をしているように感じさせる。しかも音声付きときてる。声が有ると無いとでは、天と地の差がある。一度音声オフでやってみるとわかるが、入院するほどつまらないといえます。
ゲーム自体が作り込まれ、プレイするたびに女の子は違った一面を見せてくれる。そして根本的に女の子の設定が魅力的であること。
大事なのがその設定が必要最低限提示され、プレーヤーに想像する余地が有る事。その結果、意識、無意識にかかわらず、プレーヤーは現実同様女の子の気持ちを考えながらプレイするのです。
これらが上手く融合し『ときメモ』の女の子は"女の子の絵"ではなく、人格を持った存在としてプレーヤーに認識される事ができたのではないだろうか。
もし、コンピューターゲームというものが、プレーヤーの想像を喚起させ本物だと"思い込ませる"ことが全てだとしたら、『ときメモ』は究極のゲームだと言える、ってのはやっぱ言い過ぎなんだろうか?
でも、少なくとも渉部の前には渉部だけに見える虹野さんがいる。
あなたの前には、誰かいますか?
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