「もう、告白なんてできないよ……」

 振り返ってみると、渉部が『ときメモ』本編にドハマリしていた頃、館林さんはお気に入りランキングベスト3だった。今でこそ虹野さんへの想いが強大すぎて他のキャラのことなどどうでもいい感じだが、当時は、まあ虹野さんほどではないにせよ、館林さんのことがかなり好きだったと記憶している。
 世の館林属性は、俗にいう"222イベント"で壊れた人が多いようだが、渉部はあのイベントを好きにはなれなかった。渉部が好きだったのは"伝説の樹で待っている館林さん"だったのだ。
 そして、残念ながら『旅立ちの詩』(以下『旅立ち』)には渉部の好きな館林さんはいなかった。
「館林編」は、「詩織編」(詩織編はこちらを参照)と違って館林さんの魅力が上手く表現できていたと思う(というか詩織と違って館林さんにはもともと"濃い色"がついてるんだから当然だ)。"222"が好きな人にはたまらないストーリーだったのではないだろうか。でも、渉部にとって、その魅力はマイナス要素でしかなかった。だから、「館林編」で感動することも、館林さんを健気だと思うこともなかった。
『旅立ち』の「館林編」と"222"が共通する点。それは"好きだけど勇気が出なくて告白できない"館林さんの姿であり、プレイヤーはその館林さんの姿にいじらしさを感じるのではないだろうか。ただし、これはあくまで渉部の推測に過ぎない。なぜなら渉部は、そうは感じないからだ。
 確かに、告白するのは勇気がいることだ。振られて何もかもダメになってしまうのを恐れる気持ちもわかる。あの人の迷惑になるならこのまま見ているだけでいいというのも、その人を想っているからこそ、かもしれない。
 でも、勇気が必要だからこそ、その告白に価値があるのではないだろうか。がんばって告白しようとするからこそ、その姿に愛やいじらしさを感じるのではないだろうか。「ああ、彼女は大変で勇気がいる告白をしてくれるほど自分のことを好きなんだないじらしいな」というふうに。
 これは渉部の個人的な考えだが、告白する勇気がない=相手のことを本当に好きではない、ということになると思うのだ。あきらめるということは、あきらめられる程度の想いでしかないのだ。逆に、本当に好きなら、振られるのがわかっていたって、その想いを伝えたくなるはずなのだ。だから、渉部は"伝説の樹で待っている"、"勇気を出して告白してくれる"館林さんが好きだったのだ。
 ちょっと待て。
 "222"の館林さんと違って、『旅立ち』の館林さんは告白してくれる。では、その告白はいじらしさを感じるものだっただろうか?
 結局、館林さんにできたのは、間違い電話のフリをして主人公と知り合い、デートに誘い、一緒に帰れるような仲になれた、までだ。川沿いの公園での告白は、"練習"という名目で主人公に促されてはじめてできたものだ。そしてそれは主人公にとって、練習なのか本気なのかはっきりしないものだったし、館林さんの気持ちを推測しなければいけないものだった。それをちゃんとした告白だと言えるだろうか?
 主人公に宛てた手紙の中でも、やはり彼女は完全に想いを打ち明けてはいない。もちろん、誰にだって手紙の真意はわかるが、あの手紙にはある種、あきらめのようなものを感じた。そんな手紙にいじらしさを感じることは、渉部にはできない。
 そしてゲームの終わり。マラソン大会当日に、館林さんはスタンドから告白した。これはどうか? もし、主人公が前日に電話をしていなかったら、彼女は本当に告白できただろうか。あの主人公の電話には、「オレも君のことが好きなんだ」というニュアンスが十分含まれていた。上手くいくのがわかっているなら誰だって告白する。そんな楽な告白にいじらしさを感じられるわけがない。
 確かに他のキャラとは境遇が違う。『虹色』だったら主人公は虹野さんのことが好きだし、『ときメモ』本編でなら、女の子は相手の気持ちをある程度想像できるだけの時間がある。『旅立ち』に限って言えば、主人公は詩織のことが好きだ。あきらかに告白しにくい状況ではある。
 でも、だからこそ勇気を出して告白して欲しかったのだ。そう、ひとめぼれを信じて……。
 結局、館林さんは自分の力で"旅立つ"ことはできなかった。そしてそれは、館林さんが"222"路線で進んだ結果。渉部にとって、『旅立ち』の館林さんは表向きだけのヒロインであり、最後まで隠れキャラの域を出ることができなかったのである。
 ついでに言えば、主人公も、マラソンの本来の目的などどこへやらで、スタートラインに立つ主人公には当初の意気込みなどどこにも見られなくなっていた。詩織のことはふっきれ、今の"なにもない"自分を肯定してくれる館林さんがいるから、自分の持っていたコンプレックスはどうでもよくなったのだろうか。なにより、自分が1番輝いた時を見つけることができたのだろうか。
 悲しいかな、「館林編」において、旅立ちの詩が聞こえることはなかったように思えてならない。

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