「大地の芸術祭」越後妻有アートトリエンナーレ2009
 瞥見記

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この催し、「『大地の芸術祭』越後妻有(つまり)アートトリエンナーレ」は、アートの力で地域おこしをしようということで、2000年を皮切りにして始まり、今年は第4回の開催となりました。第1回から催しの一部をお手伝いしてきたのですが、今回は、ほとんど携わるところなく、夏の会期の終り近くなって9月11日の一日のみ、何とか瞥見することができました。ここには、その概要を瞥見記として掲げることとしました。雰囲気の一端なりと感じていただければ嬉しいです。

十日町の駅前でレンタカー、いつものとおりヴィッツを借りて出発。

巡回ルートと各作品の位置についての地図は、こちらをクリックしてご覧下さい。

まず、十日町駅から少し南下した川治上町から魚沼丘陵方向にしばらく入った二ツ屋に向かいました。

@ アントニ・ゴームリー作「もうひとつの特異点」

 

駐車場から少し歩いて黄色の看板(これが大地の芸術祭参加作品の目印です)のある民家に入ると、夏の外光に慣れた目は、一瞬、暗闇に入ったと錯覚します。しばらくするとその空間に白いワイヤーが張り巡らされているのが見えてきました。

おびただしい数の白い線がランダムな方向に走っていて、それらは、宇宙を貫き走っているというニュートリノを可視化したかのように思えます。解説によると、「特異点とは宇宙の起源を意味する」といいますから、作者のイメージが私の目にも伝わったということかも知れません。

さらに解説によると「見つめる先に、浮かび上がる人体の輪郭」とあるのですが、人体の輪郭なるものは、ついに私の目には伝わりませんでした。しかし、ニュートリノは私たちの身体をも同じく無数に貫き走っているということですから、この作品の中心に何やら粒子状に並んで見えるように思ったのは人体の細胞だったのかも知れません。

掲げた写真でも見て取れるように、闇を走る白い直線が印象に強く残る作品でした。


A ジャネット・カーディフ & ジョージ・ビュデス・ミラー 作 「ストーム・ルーム」

国道に戻り、さらに南下、土市(どいち)駅のそば、公民館近くの民家に看板を見つけて入ります。

夏の午後、古い町を歩いていると、突然の雷雨が襲ってきて、目の前の空き家の軒先に飛び込みます。なかなかやみそうもありません。ふと振り返ると、ドアが開いています。中をのぞき込むと、部屋の中が、実はこのアート作品なのです。

  
窓ガラスに雨が流れバケツには   雨が流れる窓の内側には歯科の
雨漏りの音が
           道具が

かつては、ここは歯医者さん。歯科診療に使った道具がそのまま残されています。それらを見ていると、ピカリと光り、窓の外からなのか、落雷の音が聞こえてきます。天井からは雨漏りがしており、床に置いたバケツにリズムを刻んでいます。窓ガラスには、篠突く雨が伝い流れていて、今や雷雨はピークを迎えています。石膏で型どりした歯形がデスクの上でなぜか痛みを伝えてくるのです。

いったい、音までがアートなのでしょうか。


B 田島征三 作 「鉢 & 田島征三・絵本と木の実の美術館」

土市では、信濃川を渡る橋が架かっています。それを渡って、鉢の集落にある旧真田小学校に向かいます。出入りの多い複雑だが小さな谷間があって、その中腹に小さな校舎が建っているのがみえます。クネクネ曲がった道をたどって桜の木のそばに車を止めました。

真田小学校は、3年前に廃校になったのです。その時の在校生は3人。その3人は、今、絵本の主人公になって校舎に住み着きました。彼らの身体は、川原に流れ着いていた流木が集まってできているのです。3人のほかに、かつての先輩達や山の動物や昆虫たち、幽霊や妖怪などまで集まってきて体育館から教室、廊下を跳び回っています。

 

 

そうした人びと(もの達?も)が、いつでもこの廃校に戻って来て、木の実のモールが飾られた廊下を通って図書室に行くことができて、そこでは絵本も辞書も見ることができます。校長室には、校長先生はいないけれど、そこはこじゃれたカフェになっていて、お茶することができるし地元産のレシピでランチもとることもできるのです。いつでも皆さん、お帰りなさい、と呼びかけているのです。

 


C ベルラ・クラウセ 作 「石と花」

旧真田小学校の少し北側には北越急行ほくほく線が通っています。といっても、その辺りはトンネルの中を走り抜けるので外界からは見えないのです。その見えないほくほく線に沿って国道が、やはり時々長短のトンネルを潜り抜けながら松代(まつだい)地区に連れて行ってくれます。松代高校の角を曲がって山の中に入りかけたところにつぎつぎに作品が並んでいます。そのうちのひとつ、一番奥まったところの作品を選び車を止めました。

空き家にはいると、薄暗い部屋に浮き出す浮遊物、と思いきや、たくさんつるされた石。その石たちは囲炉裏のある居間に光が照らされ浮かび上がっているのです。一部の壁には花叢らしい背景が映し出されその前に石が浮かんでいます。外に面した部屋の花たちは外に向いてエールを呼びかけています。その声が届く道向こうのマリーゴールドは作品の一部を構成し、ずっと先の田圃の畦にまでつながっているのです。

質量が、したがってエネルギーがこの家の部屋から村に向かって発射されてその力が花の列となって眼に見えているかのようです。




D 関根哲男 作「帰ってきた赤ふん少年」

そこから、まつだい駅裏の「農舞台」(ここに、この芸術祭の主な事務局があります)に行く途中、小川と農道に挟まれた土手に何本もの木像が赤ふんと手ぬぐいの帽子などをつけて並んでいます。

前回、つまり3年前の作品に地元から「帰ってこいよ」と声がかかって、赤ふん少年が帰ってきたのです。一段と日焼けしたくましくなって。お百姓とこの少年達が呼び合っているようです。

  
「帰ってきた赤ふん少年」      
「ファンシー・ガーデン」


E キジマ真紀 作「ファンシー・ガーデン」

少し戻った農家の間に
どこにでもあるようなビニールハウスが建っています。黄色の看板がないとアート作品があるとは気がつかないほどです。ハウスの中に入ると、明るい色の花が溢れています。地元の方々の作品もいくつも署名入りで並んでいます。身のまわりの品々を使って花をこしらえたのだそうです。アーティストと住民のコラボレーションです。


F アンティエ・グメルス 作「内なる旅」

「農舞台」で事務局に挨拶をして、まつだい駅前の街並みを抜け北上し芝峠温泉の脇をすり抜けて会澤集落に車を止めました。

表通りから案内板に導かれ急な坂道を登って行くと、雑木林の中からたくさんの目が出迎えてくれます。長方形の鏡にも目が写っています。その先の木々の幹に無数とも思われる青い目。少し開けた場所には、凸鏡をいくつもの丸石が取り囲んだ、これも、目の形をしている。この鏡には木々が小さく写り、よく見るとその木々にも青い目がおびただしく写っています。



森に入って行くと、実はたくさんの目が私の一挙手一投足を見つめていたのです。そんな話は、ひょっとすると宮沢賢治の作品にも出てきたような気がします。ある人は、森の精と呼ぶかも知れません。あるいは、これらの目の持ち主、人間は、森の木々のように互いに依存し合いながら生きていて、その場合、作者は、真ん中の巨大な目をあるいは神の眼と見立てたのかも知れない。

この日は、10作品ほどを候補に挙げていたのですが、次の予定地に向け走ってみると、どうやらこれ以上観ているとレンタカーの返却時間、したがって予定の列車に間に合わなくなりそうです。ここで予定を中断して十日町駅に向けハンドルを向けたのでした。

370点の参加作品に対し、今回見た作品はほんの7点ですから大きなことはいえませんが、作品と会場、地域にただよう雰囲気は、前回までと違うところがありました。第1に、地元の人びと、資源というかいわばお宝の力とアーティストの力が、前回よりいっそう融合したようにみえるのです。アートの制作に地元の人たちが参加する姿は、早いうちからテレビでも紹介されていましたし、実行委員会もその方向を追求してきました。地元とアーティストが共同して妻有らしいアートが生み出されている、といった印象が強いのです。これは、この催し本来の目的が地に着いてきたことであり喜ばしいことだと思いました。

そして、現在、100点以上の恒久作品が現地に展示されていますが、今回の中からもいくつもの作品が残ると聞いています。常設展示がこのように増えると、この地がアートの地となるわけで、そのこと自体、すばらしいことです。それらが増えると、維持管理の資金や手間が大変にもなりますが、実績がそれらを確保する力になるに違いありません。この地の農の営みが元気になれば、農とアートの村として新たな文化がこの地から起こるわけで、その意味でも、この地にひとつの希望をみた思いがするのです。


巡回ルートと作品の位置
ルート:青線、@〜Fは上記記事と対応
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