東満、旅日誌 

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この旅では、牡丹江から虎林線沿線、芬河にかけて、6泊7日で回りました。参加した7名のうちの大半は、この地に幼時を過ごし日本に引き揚げた経験を持ちます。満洲の他の地域に住んでいたけれど、この地に強い関心を持っている人も含まれます。また、その家族一名が満洲未経験の目で記録係を買って出て、この日誌をつけました。
 この旅では、そうした参加者それぞれが、この地を改めて踏みしめ眺めながら、今の時点で何かを確認してみたいという共通の目的があったように思われます。そして、ある人は身内の、他の人は同胞のこの地で潰えた命に慰霊をしたいという思いもありました。

 帰国後に知ったことですが、この夏、ある旅行社(2005年に満州訪問をした時に、筆者らがお世話になった会社)が、同様なコースでツアーを企画していることを知りました。同じ思いで、これらの地を訪れたい人が増えているのかも知れません。
 費用は、中国国内での全費用が12万円/人(日本語ガイド、車、ホテル、入場券、ウスリー河の遊覧船、国内線)、国際線航空券が71,400円/人、グループの諸経費1万円/人で、合計20,1400円。その他、お小遣い。
 お世話になった中国内受け入れ旅行社は、北京が北京金台国際旅行社有限公司、東満地区が牡丹江中国国際旅行社有限公司でした。

 まず、旅を一瞥できるよう7日間の旅程の概要を示します(下図参照)。

   2011年6月21日(火)
 名古屋または成田より北京。北京にて、胡同巡り、「鳥の巣」見物。その後、空路、牡丹江へ。
   6月22日(水)
 牡丹江市内でかつての居住地訪問。横道河子、海林市郊外、ロマノフカ村跡。夜、牡丹江師範学院学生等との交流会。牡丹江泊。
    6月23日(木)
 牡丹江愛河鉄路橋袂のトーチカ、磨刀石、麻山。鶏西にて残留孤児家庭を訪問、夜、鶏東にてその娘さんの経営するレストランで家族と交流。鶏西泊。
     6月24日(金)
 密山にて、旧国民学校、老航校、密山駅、密山小学校、居住地など訪問。興凱湖、新開流遺跡、小興凱湖。北大荒開発記念碑、密山口岸(国境)。夕日を見て、虎林泊。
     6月25日 ()
 大砲列車格納庫跡、虎林要塞跡、砲台跡、ウスリー川クルーズ、東安飛行場跡、永安郷駅トーチカ。鶏西泊。
    
6月26日(日)

 鶏西市内にて居住地、通学学校跡など。鶏西市博物館。綏芬河にて、ロシア・レストランで昼食、綏芬河駅、旧日本領事館、中ロ市場、口岸。鶏西泊
     6月27日(月)
 鶏西より空路、北京経由帰国。


     旅程概要


 さて、いよいよ出発です。

北京経由、牡丹江へ 6月21日(火)晴

集合地の北京空港に向け中部国際空港から5名、成田空港から2名が出発。北京空港には、中部組が先に着き、成田組を待つ。まもなく成田からの便も着き、携帯電話で簡単に落ち合い、ゲートで待ちかまえた北京ガイドの蘇揚さんに迎えられる。Yoshiyukiさんの知人=マネージャー、陳女史が合流。
 マイクロバスで、北海公園、恭王府近くの胡同見物に出発。2人乗り輪タクに分乗、2、3カ所で胡同ガイドから日本語で説明を受ける。



  胡同の中庭にて、北京


 民家=切り絵細工師の何とかさんの家の中も見学。そのうちに緑の多い中庭に出て涼しく説明を聞く。このあたりの胡同は、オリンピックのための再開発で取り壊されずに残され観光資源になっている。
 オリンピックの主会場となった「鳥の巣」へ。周りが公園になっていて、人々が大勢集まり凧揚げなどしている。土産物売りが、公安に追い払われたり、も。
 夕刻(19時20分)発の海南航空HU7103便で牡丹江へ(21時20分着)。牡丹江空港では、スルーガイドの権香玉さんの上手な日本語に迎えられる。バスにて金鼎国際ホテルへ。


 牡丹江、横道河子、そしてロマノフカ村  6月22日(水)小雨後曇

9時35分発、牡丹江市内へ(昨夜のうちに思い出の地を訪問した方もおられた由)。牡丹江市街は人口80万、全体では280万人とのこと。近年、車が増え始めたらしく渋滞気味。牡丹江駅を経て、特務機関があったという赤い屋根の二階建てを見たりしながら北山公園方面へ。不動産業が盛んになってきたとのことで、マンション、オフィスビルなど建築中が多い。
 聖林小学校跡。クリークは当時のまま残っている。義兄さんは、「66年ぶり」にこの地に立った。自宅建物は影も形もなく、おおよその位置を確認。
 牡丹江師範学院前を西に向かう。マンションを買いたい、と言い始めたお方も。
 当初の計画では、「あの戦争から遠く離れて」の城戸幹さんが育った頭道河子を訪れることになっていたが、昨夜までの雨で道路がぬかるんで難行が予想され中止に。ガイドの権さんによれば、近年、そこを訪れたいという日本人が時々いるとのこと。
 横道河子に向かい高速道路に入る。まもなく農村地帯になり「昔は、こんな感じだった」と義兄さんが農村集落を指す。そんな風景がこれから至る所に広がることに。
 畑には、主にトウモロコシ、大豆。低みには水田も。時々、小麦、畜産。・・・というのが東満農業の中心。
 なだらかに連なる丘が、今回訪問した地方の主な地形。山は峨々たる山地ではなく完達、老爺嶺の両山脈といえども遙か彼方に丘と見える感じ。それも広いから。
 山の植物では、赤松とエゾマツのような針葉樹が目立ち、もちろん広葉樹も多い。農村や市街地の並木は、ポプラが多く、柳、白樺も見かける。
 横道河子の街に入る。歓迎式のようなことをしていたが、我々が迎えられたのではなかった。「林海雪原」(?)という映画にもなった小説にちなんだ建物があり、そこではロケでもやったらしい。
 バスのエンジンの調子がどうもおかしい。
 ロシア風建築が残っており観光資源として整備されている。なかでも、ロシア正教の教会は状態良く保存されているが、外回りだけで中は見せてもらえなかった。
 町の中を散策。駅を覗く。ここは、木材、石材の町で、何よりも鉄道の拠点。少し離れて、昔の機関区の跡のうち、機関車の回転台の跡、それを中心に扇状に広がる機関車車庫の跡などが残っていて壮観。
 郊外のレストラン「佛手居筋餅店」で昼食。ここの料理はおいしくて哈爾浜から食べに来る人もいるという。ヨモギ風の漢方薬草の唐揚げ、ノロ肉料理、刺五加というお茶など。



     
横道河子は鉄道交通の要衝、駅にて


 昼食の間に、バスが交代。
 出発。途中、養蜂業のおじさんや牛飼いのおじさんに道を聞きながら鉄道がグルグル回って山に登った地を探す。頃合いを見て、鉄道沿いの電波塔の近くで、森Qさんがお花(遠路なため造花)を捧げて慰霊をする。森Qさんのお父上が収容所で病気に罹りお亡くなりになったのだが、そのご遺体がこの辺りに埋葬されたがため。仲間も和す。森の中を濱綏線の機関車がボーと汽笛を鳴らして哈爾浜方向へ走り去る。
 ロマノフカ村へ。横道河子へ一旦戻り、「漂流(ゴムボート下り)」と看板に書かれた川に沿って走る。ここの川水は、清流。ここ以外に透明な川水にはお目に掛からなかったように思う。流れとともに下って行く。濱綏線も平行する。沿道にキクラゲの畑が見える。
 土の道をややしばらく行き柳樹村という大きな石作りの看板が立っていて、その先にちょっとした集落。ここが、かつてのロマノフカ村の跡。2時半頃到着。そこに、二軒の木造住宅が残っており、それがロシア人の住んでいた建物とのこと。終戦直前の最盛期、1945年夏には40家族、200人ほどのロシア人が住んでいたという。あたりの住民が集まってきていろいろ話をしてくれた。写真を一緒に撮ったりしてちょっとした交歓。ローラが、住所を預かる。
 時間が足りなく東北虎園と映画村は省略。
 
牡丹江に戻り、駅前太平路が牡丹江(川)にぶつかるところ、江濱公園を散策。八女投江記念碑を見て記念写真を撮る。
 夜は師範学院日本語科女学生教師と交流。日本人と女学生が交互に並んで男どもはご満悦。一人一人の自己紹介も。
 金鼎国際ホテルは四つ星でまずまずの泊り心地。
                                    (8,076歩)


 
牡丹江、磨刀石、麻山、鶏東、鶏西  6月23日(木)朝の内小雨後晴

8時30分、ホテル発。途中タクシーに乗り換え(行くのを拒否したタクシーも)雨上がりのどろんこ道を行き愛河鉄路橋の市街地側袂でトーチカを見学。コンクリートの分厚い壁に銃眼が並ぶ。弾痕も大小数多。

  

       磨刀石の語り部、徐さんは当時17歳


 磨刀石へ。人口3,000人ほどの街。小高い丘の上が関東軍の監視所。10時頃から、徐さん(83歳、当時17歳)の説明を受ける。「8月8日に飛行機が来て、東の山に学生が立て籠もり、11日頃に戦車がやってきた。守備隊は、深さ1メートル70~80センチの蛸壺に入って、爆弾を抱え爆発させた・・・。守備隊のものは、今は何も残っていない。避難していた住民は、8・15が過ぎ帰ってきて、山上いっぱいに広がった遺体を埋めた。腐っていた。ソ連軍が来てソ連兵の遺体を掘り出して持ち帰った」と。小学校のそばで慰霊。 磨刀石駅にて写真を撮りながら、周辺を散策、駅前の市場をのぞいたりした後、牡丹江に戻るべく出発。
 牡丹江郊外にてバスのラジエター故障を応急処置してレストランへ。金庄園蛯(?)鴨店で「牡丹江ダック」などを食す。その間にバスを整備。
 麻山へ。麻山郷から麻山駅付近を通り丘の中腹の道を、当時、開拓民が逃避行をした街道筋を逆に辿り、青竜駅付近まで。その後、戻って麻山事件のあったと思われるあたりで下車、慰霊。西に傾きかけた陽を受けて、あたりの風景は美しい。
 鶏西で、残留孤児の陳さんのアパートを訪問。一階が店舗で二階以上がアパートになっていて、その二階に家がある。陳さんを始め、愛知県西尾市の鋳物屋で6月まで研修を受けて帰国した息子の陳君とその奥さん、息子・娘の一族が歓待してくれた。
 その後、
鶏東で陳さんの四女が経営するレストランにて夕食。一族郎党が集まってくれ二つの大テーブルの宴会に。三女の挨拶など宴が進むにつれ沢山の皿が。皆さん、満足で、食べ過ぎた人もいたらしい。三女の娘さん(夫君の医師も参加)の占いなども。
 小半時バスで走り鶏西に戻り、ホテル国土資源大厦へ。三つ星ホテル。

                                  (5,804歩)


  

     陳さんは子沢山


 密山、興凱湖、虎林  6月24日(金)晴一時狐の嫁入

 8時40分頃、出発。鶏西もなかなかの都会。密山に向かう。Yoshiyukiさんが、「あれが私の勤めた学校」と窓外を指す。今日は、さわやかな「日本晴」。ムーリン河を渡るのに、古い橋は大型車両通行止めのため新橋=ムーリン河大橋を行く。

 郊外から見ると一階建ての農家の家々の向うに市街地近くアパート群が並んで見える。
 緩い波状地が続く。そのなかに時々ポツン、ポツンと小山(丘)が。たまさか杣屋から煙が上る。哈達河、永安などの開拓地のあったあたりをすり抜けて走る。永安屯開拓団は、りきのパパさんが研究中とのこと。柳絮が飛ぶ。茶色の牛が多いが、たまに白黒まだらのホルスタイン牛も。連珠山鎮あたり、青島ビールの系列工場あり。
 10時頃、
密山につく。新世紀旅行社に。ここの社長の姜さんが、かつて、Yoshiyukiさんの幼友達の少女(汪翠栄さん)を探し出してくれた。会社の皆さんとインターネットを見たりして交歓、記念写真。この後、夕方まで姜さんが同行。
 在満東安国民学校、現在の「黒龍江省密山実験小学」を訪ねる。おしゃれの副校長女史が校庭でにこやかに対応してくれる。
 密山駅を訪れ見物したり写真を撮ったり。爆破事件など偲ぶ。その後、実験小学近くのレストラン=嘉興酒店にて昼食。
 郊外の弘法寺の奥に、土のデコボコ道を越えて、「東北老航校記念館」を訪問。建物横にプロペラやジェットの戦闘機など展示。
 中では美人ガイドから、林弥一郎さんをはじめ日本人が解放軍空軍を育てた事績を含め説明がある。デコボコ道を何とかしないと美人ガイドに釣り合わない。国防教育にも使われていると思わせる横断幕などあり。表からは見晴らしが利き、北側の裏山に電波塔が、南正面遠くには風車群が。


  

 
      学校は休み時間でした


 一旦、鶏西方面に戻り新治村を過ぎ、連珠山鎮手前から南下、虎林線を渡り
興凱湖方面に
 水田が多く、養魚池も見える。農家は、朱のレンガ壁がきわめて多く、時にカラフルなモルタルらしきものも見え、希に土壁も見受ける。ムーリン河を渡る。かつては湿地帯だったかと思われる。
 遠くから見えていた風車の山を越したあたりから、空模様が怪しくなり、まもなく狐の嫁入りから本降りの所も。
 当壁鎮の検問所で、人数をチェックされた後、公園で鯉に餌(陳さんが買った)をやったりしながら
興凱湖畔へ。「将軍石」のところで記念撮影。湖畔からは、右手に国境が見える。料金を払うと立てかけてあった旗を取りのけてくれる石碑(達筆で興凱湖と書かれている)をバックに記念撮影。こうした時の撮影は、権さんの役割。
 3時近く、
小興凱湖に向け移動。途中、蓮花村という所ではトンネルのようなポプラ並木を、鶏を避けたりしながらバスは行く。小興凱湖の船乗り場を一旦通過して、まず「新開流遺跡」で6,000年余り前の新石器時代の遺跡とその説明書きなどを眺める。あたりにはカシワなどの落葉広葉樹が多い。
 戻って興凱湖と小興凱湖をつなぐ水門のある観光船乗場につく。ここは、興凱湖側の水深が浅く、小興凱湖側の水深が深いので、小興凱湖側に遊覧船があるとのこと。
 我々は船には乗らずあたりを散策。興凱湖畔で瑪瑙(メノウ)を拾う仲間も。水門の川下で網やタモを使って魚やエビをとる若者たちが。やがて裸になって深みに入り網を使い始めた。鱗が輝く小魚などがたくさん捕れていた。
 北大荒開発記念館と記念碑(北大荒とは、この地の呼称)を眺めた後、国境の関門=密山口岸へ。ここには、白稜河橋という世界一短いという国境橋の遺物が。実際の橋は、その左側にしっかりと作られている。
 



      興凱湖は海の如く、対岸は見えない


 傾いた日を受けて白樺並木を行く。所によっては一抱えもありそうな白樺も。苗木を作っている畑や次世代用幼木をズラッと植えたところも。途中の山には針葉樹も多い。
 知一鎮(知一村=旧密山)は、Yoshiyukiさんの故郷。そこで給油とトイレ休憩をした後、近道をして密山方面へムーリン河を渡ろうとするも、5時を過ぎ、渡し守が帰ってしまい、高さ制限を解けず、バスが渡れない。やむなく迂回して、往路、通った道に。途中の水田では人力で薬剤散布する姿も。カササギのように尾が長く、腹が白い鳥を散見。ムーリン河を渡り、新治村(西密山駅)付近で姜さんが下車。
 丘を越え密山市街を横目に虎林に向かう。裴徳鎮あたりから虎林線沿いにバスは疾駆する。羊飼いが見え、またホルスタインの姿も。八五〇農場などと数字を冠した村がある。解放軍八五〇大隊などが開墾を進めた名残だとのこと。6時55分頃、並木道で満洲の夕日を撮影。虎林線を渡る。




    虎林近く


 虎林の街に入り夕食後、好時光商務酒店に泊。四つ星ホテル。
 三つ星の鶏西のホテルでは洗面所が臭かったり、スリッパの底が黒くなったが、ここでは黒くならないものの床に糸くずなどがへばり付くなど小ゴミが目立つ。
                                   (9,816歩)

 
虎頭、永安、鶏西  6月25日(土)晴

 8時半頃に出発。虎林は人口31万とのこと。現地ガイドの李さんが乗車。25歳の青年、大連で日本語を習ったが忘れた、といいつつ時々日本語を単発する。
 虎林駅を右に見て
虎頭に向けGO! ここから先は、虎林線の鉄路をソ連が賠償とかで持って帰ってしまい廃線。その廃線跡に道路が作られた、その上をバスが行く。並木がしばしば写真の被写体を隠すが、広い。
右側に瘤のような丘が二つ三つ。十八連という集落を過ぎた頃、左手遠くに山が。七連あたり、全く広い。やがて左手に小高い山も。




    バスの窓から見える地平線



 十一連集落を過ぎて、虎林~虎頭の道半ば、
関東軍の汽車庫=列車に大砲を据え付けたものを格納する地下トンネルの跡が残っている。ここは、道路に近くポツンと小山があって、その地形を利用して道路=線路から汽車庫を見えにくくしていたかのごとし。
 道路から少し歩いたところに数十メートルのトンネルがあり、その入り口が今でもコンクリートの枠でしっかり固められ、道路から見えない向きで残っている。立派な戦跡。整備して保存したら良いのではないか。




    汽車庫の奥は深く、大砲を積んだ列車が十分入る


 小山のあたりでカッコウが鳴いている。いろんな花も咲いている。土の崖には、火山灰土壌特有の断面が見える。
 東満には火山があり、有名なものでは白頭山が、1068年(日本では平安時代)に大噴火して東側一帯に大量な降灰をもたらし北日本でも堆積層が認められる。たとえば、鏡泊湖などは溶岩が川をせき止めて出来たという。
 水田地帯が続く。9時15分過ぎ、正面に山が見え、多分、ロシアの山。路傍の標識に月牙泡村とあるあたり、樹木が増え、両側に針葉樹の森林も。そして、間もなく前方に鉄塔が何本か見え、虎頭。
 9時35分過ぎ、
虎頭要塞の地に着く。博物館に入るところで「こんなゲートはなかったぞ~」と、何度もここを訪れているYoshiyukiさん。前庭に「侵華日軍虎頭要塞遺跡」と達筆で大書されている。博物館の展示を見て、地下要塞に入る。弾薬庫、台所、将校室、蓄水池など、多くの部屋がある。
 外には塹壕なども。ソ連兵の立派な慰霊塔が建設中だが、日本兵のはない。前庭脇には神社跡も。気がつくと、前庭には抗日英雄の像や飛行機の展示がある。




     41サンチ砲台跡は規模がでかい


 林の中を進むと「大日本関東軍満洲第四国境守備隊」と看板があってその奥に守備隊の建物がある。映画のロケ地のごとし。さらに進むと虎頭の街のロケ・セットが。これらは、残されて観光用になっている、ということか。
 林の中を戻り
猛虎山の砲台跡を見る。砲台に到達する前段に、左右に近代の戦争関連モニュメント群が列をなし、歴史教育を展開している。一番奥に「第二次世界大戦終結地記念碑」という巨大な碑が建っている。砲台は、「巨砲陣地遺跡」というささやかな看板の奥、ややしばらく林の中を歩いたところに鎮座している。崩れかけたコンクリートの覆いは、厚さが2、3メートルもありそう。裏に抜けるトンネルもある。そこの中央、41サンチ砲の砲座跡は池になっていてオタマジャクシが泳いでいた。
 虎頭駅跡は
ウスリー川に近い。その近くの公園で、大虎の像がこちらをにらむ。向こうに向けたらロシアから抗議を受けこちらを向いたとか。高さ25メートル。手前に十二支の像も。記念写真。
 展望台から周りを眺める。虎頭の街並もよく見える。北海道の湿原地帯のごとし。ロシア側には、ウスリー川を越えてシベリア鉄道の鉄橋がみえる。これが虎頭要塞からの目標の一つ。
 遅め(1時過ぎ)の昼食は村のレストラン。白樺材建ての別棟、なかばセルフサービスでテーブルを設えたりして、権さんの曰く田舎料理。
 ウスリー川クルーズはしばらくの待ちぼうけの後、3時15分頃スタート。上流に向かいロシアの教会がある箇所を折り返し島を迂回する半時余りのコース。貸し切りの高速船「珍宝島游2号」。
 四時過ぎに虎林に戻り、ガイドの李さんが下車。ふと気がつくとロシア語の看板があったりする。ミネラル・ウォーターを補給。市外に出て、虎林線をまたぐところ、東興村の踏切脇に停車、真っ直ぐな線路の写真を撮る。一路、鶏西へ




     ウスリー川は青空を映して


 途中、ビニールハウスなど現代農業的な様子の漂う一角に「・・・環境村」といった看板が見える。「大規模化実験農業」とかの看板も見え大型水田が広がる。一方では、お百姓が、人力で背負い式噴霧器で薬剤散布する姿やスコップで水路の泥を掘り上げる姿も。用水をくみ上げて池に貯めおき水温を上昇させているらしき施設がみえるが、ここは、北国である。
 涼水泉という集落近く道路際に、453と数字を刻んだ小さな標柱がある。しばらく行くと447に減っている。哈爾浜からの道路距離か。しかし、調べてみると、450キロメートルは、牡丹江経由の高速道では、哈爾浜まで届かない。尚志市の50キロほど手前で停まってしまう、さて?
 6時近く、
東安飛行場跡。饅頭が埋まった姿を思わせるコンクリートの建物らしきものが畑の中にいくつも見える。待避壕らしい。南側に入り口があり、屋根には1尺四方くらいの四角な穴が開いている。この飛行場で、中国空軍が日本人により訓練されたという。「ここに記念館があっても良い」とYoshiyukiさん。何人かは、アヤメの花を撮ったり採ったり。




    東安飛行場跡の待避壕はお椀を伏せたみたい


 連珠山鎮を過ぎてしばらく、東方紅村という標識が目に入る。虎林で鉄道がなくなった代わりに虎林駅から北方50キロメートル余まで鉄道が敷設された、その終点と同じ名前。名前からして、全国に多数、同名の地がありそう。
 5時半過ぎ日没近く
永安郷駅に到着。駅前で、集団行進体操をしている。駅に昔のトーチカがある。ゲートを開けてもらい中に。手前の一画は、ボイラー室。体操を終えた小母さん、子どもたち、小父さん達が寄ってくる。「このトーチカは良く出来ておりしっかりしていて雨漏りもないので、今も使われている」と地元の方の弁。
 鶏西に戻り、Yoshiyukiさんの知り合いの張おばさんのレストランで夕食。続々と皿が出てきてアッという間に五重塔の如し。さらにプレゼントをたくさん頂き恐縮。9時40分お開き。国土資源大厦に戻り泊。

                                 (10,394歩)

 鶏西、綏芬河  6月26日(日)晴

 8時過ぎに出発。日曜日で、鶏西の街には子どもたちの姿も多い。ホテルに近い祥光路の街角では、日曜市が歩道まで広がっている。涸れ川の橋の上で本を売っている人も。
 鶏西小学校に行き周辺を歩き回る。少し移動して、かつて日本人が居住した住宅と思われる2棟を眺める。その場所は、鶏西小学校から南方に延びる東山街が紅旗路と交わる少し手前の東側。




     かつて日本人が居住したか



 つぎに、義兄さんが通った学校の探索。張おばさんのほか、Yoshiyukiさんの幼なじみのご主人劉さん、権さんが昔からの情報を出し合って、紅旗路の和平北大街と交わった北東角一帯を探査。結局、その角地に建設中の高層ビルの場所あたりか、と想定。しかし別の説も。駅に近い自宅から南方面に向かう道のやや東に振れた方向に坂を登って通った、という話が頼りだが。


  

     かつての国民学校の跡らしき場所に建つ


 駅から見て西方、文化路にある鶏西市博物館へ。古代史、近代史、現代史などの展示を眺める。表に出ると車椅子の小父さんが日本語で話しかけてくる。元校長で、53年前にジャムスから鶏西に来て、退職して市長の書記をつとめた、とのこと。

 9時40分頃、
綏芬河に向け出発。
 郊外でも市が立つ。なだらかな山地を行く。梨樹郷という標識が。そういえば、このルート前半は老爺嶺山脈の東側を南下する。とはいえ、その山並みは右手を見てもほとんど見えない。
 左手に小ぶりのダムが見え、平地にポッコリとした小山がある。そのあたり、トラックに1頭の牛が載せられて行く。右手やや奥に盆地の街が見える。ムーリン市。ムーリン河の源流はまだまだ上流。新成村の標識あり。このあたり緩傾斜地農業。楊木村入り口を過ぎて右手にアンテナが並ぶ。左の斜面に黄色の花が咲き乱れている。
 鳥橋河鎮(これまた盆地の街)を過ぎ線路をまたぐと、間もなく左折して右から来た大きな道に合流し東行。逆に右折して西行すると、下城子を経て磨刀石から牡丹江に至る。牡丹江から綏芬河へ至る鉄道もほぼ同じ経路にあり、その線路を先ほど跨いだ。
 やや山がちになり、右手に大きな橋の工事、左手遠くに風車群が見える。緩やかな高原状の地形から徐々に起伏に富む地形へと移り変わる。
 このあたりでムーリン河水系から綏芬河水系へと分水嶺を越すのだが、ほとんど気がつかない。ちなみに、川としての綏芬河は東寧からロシア領へ入り、ウスリースクを経て日本海に流下する。ムーリン河は、ウスリー川に合流しやがて黒竜江を経て樺太の北端近くでオホーツク海に注いでいる。ついでに、牡丹江は北流して松花江を経て黒竜江に合する。川は、堤防の築かれているところはわずかで、田舎部はほとんど自然河川。
 この地方の作物は、トウモロコシ、大豆の他に、葉がやや大きめなインゲン様のマメが混じる。ハウス、キクラゲ畑も目立つようになる。作目の特産化。中国の農業は、国策の輸出用商業生産が目立つ。




    ハウスの間にキクラゲの畑。綏芬河近


 川と鉄道と道路が集まる谷間を抜け、しばらくすると都会風な様子が増え、やがて
綏芬河。ほぼ12時。坂の街の風情。市内に入り駅横の跨線橋を越え、繁華でロシア語が圧倒的に目に入る街の中をタクシーに先導されて昼食のレストランへ。MAKCIMIは、本当はNをひっくり返した字)というロシア料理のレストラン。




   旧日本領事館ビルの軒には女神の顔が


 階上の部屋に落ち着いた頃、お父さんに手を引かれた中国人の男の子が入ってきた。権さんの通訳によると、「日本人は初めてなので見てみたい」のだそうである。
 権さんの奮闘で注文されたロシア料理が次々に。ボルシチから、ロシア風サラダ、ビーフのサイコロステーキ、ロシア風(?)フォアグラ等々、もちろんヴォトゥカも所望したのだが大きなボトルだけ、とのことでビールで我慢。飲ん兵衛諸氏はやや不満げ。
 
綏芬河駅を見学。発着時間帯でないため閑散としている。国内駅と国際駅と分かれている。国内駅舎は百年以上の歴史があるとのこと。国際駅の入り口はギリシャ建築風の柱が四本立つ。
 
旧日本領事館。駅から東方500メートルほど。3階一部4階建の石造のビルは、3階庇部分にギリシャ神話か何かに登場する風か太陽の女神の顔を配している。それで、現地では人頭ビルと呼ばれるという。今は予備校として使われている。
 広場の脇の
マーケット街(中ロ市場)でお土産を購入。チョコレートや置物など。ソーラー発電のライトを買った方も。
 
国境へ。入り口に「国門旅游区」とある。隣には大きなホリデー・インがある。大きなゲートには「綏芬河口岸」。両国のバスが1台ずつ出入りした。
 刷毛でなでたような白い雲を仰ぎつつ綏芬河を辞す。3時45分。
 6時近く、
鶏西郊外で石炭の地層を見せる切り通しに停車、見物。鶏西は石炭の上にある街とも言われる。そういえば、市街地に発電所が二つも坐り、大小のボタ山もあちこちに。
 鶏西市の官庁街の前庭で、大勢集まって体操のような踊りを華やかに踊り、また大勢が見物している。


 

     夕刻の鶏西官庁街に踊りか体操か


 6時15分過ぎホテル前に帰着。夕食へ。おなじみになった国土資源大厦に泊。
 なお、この日予定されていた東寧は、事前に、強行軍過ぎると判断され略。

                                (9,601歩)

 鶏西より、北京経由帰国  6月27日雨のち曇

 こぬか雨の中、8時半頃バスで出発。途中、交通事故の箇所で少しだけ渋滞。権さん曰く「次は、新しいバスを探しておきます」。権さんにはお世話になりました、謝謝。

鶏西空港。張おばさん達の見送りを受ける。「張さんって、情の厚い人ね」と、ローラ。
 首都航空JD5202便、9時45分発、北京行き。雲海の上を行く。北京首都空港に降下中、視野にアオコの流れる川を見る、中国の水質汚濁はまだ改善されていないらしい。
 北京ではガイドの蘇揚さんが案内してくれて、名古屋組、成田組それぞれのゲートに入り、両者とも無事帰国を果たす。それぞれ自宅には日の変わる時刻に近く到着。


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