なぜ、この地に造船所が集まっているのか
手近な書き物やサイト仲間の話から愚見をまとめると二つの条件があってのことのようです。
ひとつは、地理的条件で、適度な水深と穏やかな島影があるということ。水深10mというと人間の背丈を考えれば結構深いと思うのですが、あのデッカイ船のこと、水面下には深くまで船底が届いているのでhないかと思うのです。しかし、それだけあれば、大型タンカーでも空船ならOKのようです。意外に浅くて良いようです。島影は、風や波の直撃を防いで、まだ独り立ちして外洋に船出する前の半人前の船にはありがたい条件です。温暖で降水量が少ないことも造船には好都合とされています。それらの条件が造船に格好な場を提供しているのです。
あとひとつは、歴史的条件で、戦国時代の村上水軍以来の水運の伝統が息づいています。因島には、「村上水軍城」という資料館があり、さらに、しまなみ海道の今治直近の大島には「村上水軍博物館」があります。そして、因島を歩くと、「村上」という表札をたくさんみかけます。こうした形で現れている水運の伝統が、造船業をすすめる力になることは容易に想像できます。
造船所見てある記
ところで、最初に掲げた地図中の造船所の名前に、かつてのメジャーな造船会社の名前が少ないのは、私にとって、ちょっとした驚きでした。少し調べてみましたら、それは、造船界が歴史の荒波を越えてきた離合集散の結果ということのようでした。
尾道から南方に向かって、主だったところを見ておきましょう。
尾道造船:
昭和18年に尾道に設立され、以来、一貫して尾道を拠点に造船を営んできました。尾道水道を挟んで向かい側に向島工場があります。原油/石油製品運搬船、撤積貨物船、フェリーおよびコンテナ運搬船など500隻を超える建造実績があります。
Hitz造船:
林芙美子が、恋する岡野軍一青年を訪ねて因島を訪れた頃、彼は大阪鉄工所に勤務していました。後の日立造船株式会社です。現在は、Hitzを愛称として使っているようです。
名前の変遷中心に歴史をまとめますと、明治14年創業の大阪鉄工所から始まり、因島工場は明治44年に操業開始しています。向島工場は、昭和18年に操業を開始し、同じくその年に日立造船と改名。平成14年からHitzの愛称を使うようになりました。
JFE造船:
尾道駅でJRの列車を降り、駅前の尾道水道を見ようと歩き出すと、目の前に見えてくる造船所、それがかつての日本鋼管のぞれなのですが、グーグル・マップ上では「JFE商事造船加工」とされていて、JFE商事尾道駐在所なのだそうです。JFEは、昔の日本鋼管が川崎製鉄と一緒になったわけで、かつてここには、日本鋼管の造船部門があったのでしょう。なお、JFE造船は、現在はユニバーサル造船となっているはずなのですが、その事業所がここにあるという記述はグーグルマップのどこにも見当たりません。
内海(ないかい)造船:
本社は、生口島の瀬戸田にあります。昭和19年設立の瀬戸田造船が母体となって、現在は、日立造船グループの中堅企業として、瀬戸田工場の他に、因島に田熊、因島の2工場を展開しています。
岩城造船:
昭和46年に岩城島に設立されました。その後、昭和58年に今治造船の系列下に入り現在に至っています。5万トン級の運搬船をいくつも造ってきました。なお、岩城の読み方はiwagiです。
ユニバーサル造船:
日立造船(明治14年設立)と日本鋼管(大正元年設立)とが平成14年に、それぞれの造船部門をユニバーサル造船に譲り渡すかたちで出来た造船会社です。
因島事業所は、修繕を分担しています。
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造船海道の北側の入り口、尾道水道。
因島村上水軍城 (SHIMAPのサイトより)。
尾道水道を始め因島周辺には大小の造船関連事業所がある。
この写真は、弓削島からの快速艇が尾道水道に入って間もなく。
駅前の尾道水道を隔ててJFE造船、渡し船も渡っている。
内海造船因島工場で建設中のKILAKARAI STAR号。
HPによると、80500トン、2009年8月引渡し予定。
因島南端にあるユニバーサル造船因島事業所。
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日本の造船業と「しまなみ海道」
「われは海の子」の唱歌は、明治43年に作られたものですが、「・・・白波のさわぐいそべの松原に・・・我がなつかしき住家」があって、七番に至ると
いで大船を乗出して
我は拾わん海の冨
いで軍艦に乗組みて
我は護らん海の国
と歌われ、明治時代以来、国を挙げて海運国をめざしたありさまが偲ばれます。
船といってもタンカーのような大型船から磯船のような小型船までいろいろな船がありますが、しまなみ海道を瞥見しただけですと、どうしても大型船が目につくことが多いのです。そこで、以下には、大型船を念頭において、日本の造船業の歴史をざっと眺めて、最近の造船界の一面をちょっとだけですが見た上で、しまなみ海道の造船のことも考えてみようと思います。
上述の唱歌で歌われたように、明治以来、官民の強力な推進策によって造船業は欧米に倍するスピードで発展を続け、戦前にすでにわが国は世界有数の造船国になっていました。第2次大戦の谷間を経て、戦後は、1956年のスエズ戦争による運河閉鎖を機に大型タンカーの需要が伸び、その波に乗ったわが国の造船業は飛躍的な伸びを示し、以後、世界各国が低迷するなかでわが国造船界のみが爆発的高成長を遂げ、65年以降、全世界造船高のほぼなかばを独占する地位についたのでした。
この間、技術的にも大きな進歩がありました。たとえば、鋲で鋼板をつなぐリベット方式から高度な溶接方式に切り替えました。また、船体をいくつかのブロックに分けて組み立て、これをドックでつなぎ合わせるブロック建造方式
を導入し、さらにパイプなど各種構造物をもブロックに組み込んでおいて溶接する方式の開発、高速ズングリ型タンカーの考案等々、多くの高度で効率的な方式をつぎつぎに導入し、造船技術の大改革を成し遂げたのでした。
西欧諸国の旧態依然たる造船所とはまったくことなり、工期も半分ないし3分の1に短縮し、世界のトップに躍り出たのでした。1973年の世界の造船所別進水実績のベストテンをみると日本が圧倒的です。
ところが、1973年の石油ショックは、世界的な経済不況の下で世界のタンカー船腹の過剰をもたらし、深刻な造船不況に陥りました。日本の新造船受注量はピーク時(1973)の3379万総トンから1978年のボトム時には322万総トンと10分の1に激減し、造船業からの撤退が相次ぎました。
その後、1980年代末まで造船不況が続きましたが、その間にも高度自動運航システム、高信頼度ディーゼル機関、省エネルギー技術の開発など技術的諸対策、造船設備処理やリストラと離職船員技能訓練などの不況対策を進め、次の飛躍に向け努力が続けられたのでした。
90年代にはいると世界経済の好転が見られ、造船界も景気回復を見るようになり、世界金融危機の影響はあるものの、現在も概ね右肩上がりの伸びを見せています。しかし、この期には、まず韓国造船界が急激な進展を勝ち取り、少し遅れて中国も大きな伸びを示すようになっております。
1926年から2008年までの建造量の推移を、ここ( Ship_Stat.pdf へのリンク )をクリックしてご覧下さい。
かくして、2008年の国別受注量の世界ベスト3は次のようになっているのです(社団法人日本造船工業会「造船関係資料」):
1.韓国 34,941千総トン
2.中国 28,859 (2006年に日本を追い抜いた)
3.日本 14,499
参考までに、造船会社の世界ベスト20を表示しておきます(国土交通省「東アジア諸国・地域及び日本の運輸関連産業」)。
世界 順位 |
造船会社名 |
国・地域名 |
建造量 (総トン数) |
1 |
現代重工業 |
韓国 |
3,813,073 |
2 |
大宇造船海洋 |
韓国 |
2,681,992 |
3 |
三星重工業 |
韓国 |
2,525,958 |
4 |
ユニバーサル造船 |
日本 |
1,928,491 |
5 |
現代三湖重工業 |
韓国 |
1,710,745 |
6 |
今治造船 |
日本 |
1,368,336 |
7 |
現代尾浦造船 |
韓国 |
959,635 |
8 |
アイ・エイチ・アイ マリンユナイテッド |
日本 |
781,988 |
9 |
大島造船所 |
日本 |
768,748 |
10 |
常石造船 |
日本 |
722,517 |
11 |
三井造船 |
日本 |
694,505 |
12 |
三菱重工業 |
日本 |
666,715 |
13 |
名村造船所 |
日本 |
659,306 |
14 |
CSBC |
台湾 |
640,217 |
15 |
幸陽船渠 |
日本 |
561,743 |
16 |
川崎造船 |
日本 |
557,796 |
17 |
佐世保重工業 |
日本 |
526,331 |
18 |
大連新船重工 |
中国 |
511,773 |
19 |
滬東中華造船 |
中国 |
475,214 |
20 |
住友重機械マリンエンジニアリング |
日本 |
450,107 |
(注) 1 2003年に建造した100総トン以上の船舶が対象である。
2 現代重工業・現代三湖重工業・現代尾浦造船は現代重工グループである。
このベスト20には、しまなみ造船海道で見た造船所は、ユニバーサル造船が4位に顔を出し、岩城造船が系列下にいる今治造船も6位に位置づけています。これをみると、しまなみ造船海道の重要度も想像がつくのではないでしょうか。
上表で、韓国は「現代」「大宇」「三星」といった財閥系がになっていることが見て取れる反面、日本は、かなり多数の企業が並んでいます。寡占化と多様化と、どちらが良いことか分かりませんが、価値の多様化の時代を考えると、多くの企業の競争により多様な造船が展開されるのも良いのかも知れません。しまなみ海道には、大手造船会社の他にも、小型船・内航船の造船風土もあるのではないかと見受けました。それらを含め、競争裏に、この地に蓄積されているであろう造船技術・文化を多様に発展させてゆくことが出来ると、地球環境時代の船運の発展ということになるかも知れません。
こんなことを考えながら「しまなみ造船海道」の思い出を暖めているところです。 |
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参考資料
”造船業”, 日本大百科全書(ニッポニカ), ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://www.japanknowledge.com>,
(参照 2009-08-08)
金田一春彦・安西愛子編「日本の唱歌(上)明治編、講談社文庫
社団法人日本造船工業会「造船関係資料」2009.3 入手先<http://www.sajn.or.jp/data/index.htm>, (参照
2009-0808)
国土交通省「東アジア諸国・地域及び日本の運輸関連産業」 入手先<http://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h16/hakusho/h17/html/g1022002.html>,(参照
2009-0808) |