イベリアの道・・・イスラムとハプスブルクと大航海

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目 次 (それぞれの章、節をクリックするとその部分へ飛びます)

          1.二つの疑問
            @イスラムの影響は?
            A大航海で得た富はいずこに?          

          2.イベリアにおける異国文化
          2−1 文化の混在
          2−2 文化の混合
          2−3 イスラム科学の上に

          3.大航海の富はいずこに
          3−1 ポルトガルの大航海時代
          3−2 スペインの大航海時代
          3−3 ハプスブルク家

          4 二つの答え

          5.イベリア半島の進む道

1.二つの疑問

目的:この紀行文で私は、イベリアを訪ね、イベリアの歩んできた道、進むであろう道を考え、大航海時代にあんなに栄えたポルトガルやスペインが、今なぜ、パッとしないように見えるのか、を自分なりに理解してみたいと思う。

なぜイベリアか:学校で習う歴史が、年号の暗記から興味の対象に変わったのは、何かきっかけがあったはずである。思い起こしてみると、ポルトガルの歴史に関していえば、安土桃山のエキゾチックな屏風絵、ヒョッとするとカステラの包み紙だったかも知れない。ポルトガルの宣教師や商人が九州や大阪、京都に来て西洋の文化を日本に伝えた時のこと、西洋と日本の本格的な交流とその後の断絶の時代の激動、それらを知ったときだったように思う。スペインは、歴史というよりは、ドン・キホーテの奇抜な物語が、挿絵の風車の独特なシルエットを伴って記憶にとどまり、我が身を誘ってきたのである。

疑問@:それらの国があるイベリア半島といえば、バルカン半島と並んで海峡を挟みアラブ世界にもっとも近いヨーロッパである。それゆえに、昔からイスラム世界、アラブ世界と交流または交戦を繰り返してきた。その歴史が、現代のポルトガル、スペインにどのように残っているのだろうか。日本において、ギリシャ、中国や仏教の、あるいは朝鮮半島の文化の影響が現在の日本でうかがえるところと比べ、どうちがうのだろうか。

 
コロンブスが「新大陸を発見した」1492年にマルチン・ベハイムが作成した世界で現存最古の地球儀。直径52.1cm。ニュルンベルクの博物館にある。(「図説地図事典」(武揚堂)より)

疑問A:
 ポルトガル、スペインは、かつて大航海時代に、世界に先駆けて大西洋に船出し、それぞれ南米大陸とアジアのかなりに拠点を置き、そこから莫大な富を掻き集めた。それにしては、今、少なくともヨーロッパの中では豊かさにおいて劣るように見える。本当に豊かでないのだろうか、掻き集めた富がどれほど大きかったのか大きくなかったのか、大きかったとしたらそれは今どこにあるのだろうか。

出発時の思い:私は、ポルトガル、スペインへの興味を育みつつ何時の頃からか、そんな疑問を抱くようになっていた。今回、ポルトガル、スペインの主要部分を観光する機会に恵まれたので、その疑問の一端でも見てこれたなら幸いと思って旅立った。

2.イベリアにおける異国文化                           目次へ戻る

イスラム侵入史:この半島にイスラムの民が本格的に移ってきたのは、8世紀のことである。歴史年表を見ると、711年にサラセンの将であるタリクの率いる軍がこの地へ進入し、712年にトレドを落し、セビージャ(713)、サラゴサ(714)と次々陥落させ、キリスト教の西ゴート王国を滅ぼし、アスツリアス王国をたてた、と書かれている。ポルトガルでは、南部のアレンテージョ地方に711年に進入した。732年にはピレネー山脈を越えヨーロッパ本土に進入を試みている。アラブの馬にまたがりターバンを巻いた兵士が群れをなして高原を駆けり山岳を越えてゴートの軍隊を蹴散らしていったのであろう。その後、コルドバの大モスク(メスキータ)の建設が始まったのが785年である。8世紀初期以降、後ウマイヤ朝の支配期(756〜1031年)を盛時として1492年まで8世紀にわたってイスラムの国家がこの地に存在したのである。

とてつもなく長い時間:8世紀間という長さは、わが国でいえば鎌倉時代以降、現在までに相当する。元寇が成功して現代までその支配がわが国を覆っていた、と考えると、その影響がどんなものであるか、想像するに身の毛がよだつほどである。

8世紀頃の日本では、仏教の伝来が6世紀中葉とされ、7世紀になると遣隋使、遣唐使が派遣され、8世紀には古事記、日本書紀、万葉集が作られ、奈良時代の文化が花開いていた。同時に、行基、鑑真などが活躍する奈良仏教の盛期である。仏教は、鑑真などの場合のように中国人によることはあるもののそのほとんどを日本人が自分自身で日本に導入したのに対し、イスラム教は、イベリアの民によってではなくイスラムの民の手でイベリア半島に持ち込まれた、という違いがうかがえる。

2−1 文化の混在                                 目次へ戻る

 
アルハンブラ、ライオンのパティオ(中庭)

アルハンブラ:
バスの窓から、シエラネバダ山脈に違いないと思う山なみが見え、グラナダが近づいたとしばらく眺めているうちに、そうだ、ここには、あのアルハンブラがあるのだ、ということを思い出した。アルハンブラ宮殿は、ギターの曲「アルハンブラの思い出」(タルレガ作曲)がトレモロで叙情的に描いてくれる印象や「アルハンブラ物語」(アーヴィング著)が千夜一夜物語を思わす挿話などを交えてエキゾチックに紹介していることなどによると想像するのであるが、私の頭には、情緒的な側面が強く印象付けられて来た。

津田正夫さん:全くの余談になるが、津田正夫さんという外交官がいらした。津田さんは、アルゼンチン在勤中にW.H.ハドソンの書いた「ラプラタの博物学者」他を読んで、その地を歩き回り、その後、J.H.ファーブル「昆虫記」を読んで、「ファーブル巡礼」という書をものするほどにゆかりの地を訪ねつくし調べ上げた。その津田さんが、アーヴィングを読んで、生きているうちに一度はアルハンブラに行ってみたいと憧れた、という。津田さんは、旅する外交官というか、並外れた旅人とお見受けする。津田さんが、アルハンブラをどうご覧になったか無性に知りたくなった。が、私はまだ、それを知るに至っていない。閑話休題。

アルハンブラのセンス:この宮殿は、13世紀、イスラム教のナスル朝、ムハンマド1世の時代に造営が開始され、14世紀に完成したというから、イスラム支配のすでに後期の建造物である。実際、宮殿を歩き回ってみると優美な建築である。大理石・タイル・彩色漆喰を用い、そして水や植物などを生かして、いろいろな特徴を持つパティオ(中庭)を配し、どちらかというと地味に美しく空間を構成している。時々写真で見ていた色彩豊かなモスクの派手さとは違った流れであって、華美ではなく優美である。イスラム建築はパティオの機能美やアフリカで見た土のモスクの壮大と美などを思い起こすと多様で、かつその技術と美術、つまりアートとしての水準はかなり高いことが知られる。アルハンブラ宮殿は、そのセンスの良さにおいてヨーロッパでは第一を争うのかも知れない。

ローマ水道橋:イベリア半島には、イスラムの前にローマによる支配を受けた時代がある。3世紀B.C.から5世紀A.D.にいたる時代である。当然のことにその時代の遺構があちらこちらに残されている。今回、私たちは観光の二日目にマドリッドの北に位置するセゴビアで水道橋を見物した。徒歩で近づくにつれ、明るい空に次第に大きく拡がる水道橋の幾何模様は、好奇心に満ちた元気な私の目を強く惹き付けた。まず、大きさ。そして、シンプルな力強さとでもいうか。近づいてみるとそれは石造りの巨大な構造物であった。高さは、最高29mで八階建てのビルに相当するという。セゴビアの北15kmの山岳から流れ出るアセベタ川の水を街の中に引き入れる水道であり、現在でも使われているという。美しいアーチの数は167。トラヤヌス帝の時代(1世紀末から2世紀初めにかけて。また、トラヤヌスはスペイン出身の皇帝である)に作られたのだそうである。塩野七生さんも、古代ローマのインフラのすごさをローマ史の中で書いておられるが、そのうちの優れた一例であろう。そういえば、東京にも「水道橋」という地名があるが、水道橋そのものを見た記憶がない。

 
セゴビアの石造りの水道橋

その他のローマ遺構:
私たちは、今回の旅行でこのスペインのセゴビアの水道橋のほかに、ポルトガルのエボラのディアナ神殿、メリダの円形劇場や闘技場など、同時代の遺構をも見ることができた。これらは、ヨーロッパの多くのローマ遺跡がそうであるように、まさに遺構として、ほとんど当時の姿を伝えて残されている。

2−2 文化の混合                                 目次へ戻る

セビリアの理髪師とカルメン:私は、セービージャに行ったら、床屋を見つけて、できればそこの理髪師と並んだ写真を撮ってこようと密かに思っていた。が、若干の自由時間には見つけることができなかった。カルメンにも会えなかった。セビージャには見たいもの、行きたいところがとても多いのである。

アルカサル:まず、セビージャのアルカサル、王宮である。8世紀に建てられたイスラムの要塞を14世紀後半、ペドロ1世の治世に改修し、歴代の王の時代に改修を繰り返し今見るような姿を作り上げた。したがって、アルハンブラより古く、かつ長きにわたって手が加え続けられたことになる。ここには、イスラム世界で一般的に見られる様式のパティオが美しく作り上げられており、「乙女のパティオ」は有名で、これは大航海時代のカルロス五世の時代の造営である。その他、アルハンブラにも見られるような美しいタイル装飾の壁が見られる。イスラムの影響の極めて強い王宮である。

 

 セビージャ、アルカサルのタイル装飾はイスラムの伝統


ヒラルダの塔:セビージャのカテドラルは規模が大きく、急いでみただけでは全体像を頭に入れることが難しい。世界で三番目に大きいのだそうである。ついでに触れておくと、ここには、コロンブスの墓がある。それはさておき、このカテドラルのなかでヒラルダの塔はおもしろい。この塔は、まず12世紀末にイスラム教のミナレットとして建てられた。それが、16世紀には、その上に鐘を取り付け鐘楼として使われるようになったのである。上に載せられた鐘楼は、塔本体に比べると細身で規模は小さい。しかし、バランス良く載せられている印象である。この塔には、イスラム教で使われた螺旋スロープがそのまま残されている。ロバが上がるために造られたスロープなのだそうである。上まで登るには、34回もぐるぐる回ったらしいのだが、実際に登ってみると、階段を上るより楽な感じがした。それにしても、イスラム教の上にキリスト教が乗っかっているというのは興味深い。



 向かって右側のヒラルダの塔。ミナレットの上にキリスト教会用の鐘楼を載せた

コルドバへ:私たちは、セビージャからグアダルキビル川に沿って上流のコルドバに向かった。コルドバに入って間もなく、グアダルキビル川の向こう側に、ひときわ大きな建物が見えた。メスキータである。



      コルドバ、グアダルキビル川を挟んでメスキータの概観

メスキータは、世界で一番長く活用され続けた建造物なのだそうである。中に入ると林立する円柱が目に入る。これらは、ローマ神殿から受け継いだものだという。キリスト教が入ってきてからサン・ビンセンテ教会となり、その後、イスラムのモスクとして増築が続き、メッカのカーバ・モスクに次いで大きな規模となった。後ウマイヤ朝(756〜1031年)の繁栄の時代である。ミフラブと呼ばれる祈りの場は、東方、メッカの地を向いている。キリスト教が回復されて後、16世紀にメスキータの中央部分を壊し、それらを覆うような形でカテドラルが作られた。それら変遷の様子が、今でも見てとれるのである。ここでは、堀田善衛さんが書いておられるとおり、イスラムのモスクをキリスト教のカテドラルが覆っている。全体の調和はまったく良くない。その点でメスキータは、センスの悪さにおいてヨーロッパでは第一を争うのかも知れない。

 
メスキータには、各時代の混合が見られる。柱はローマ時代の、煉瓦と石灰岩で作られたアーチはイスラムの、そして十字架はキリスト教の要素である。

桂離宮・伊勢神宮:
再び日本との比較をしよう。ブルーノ・タウトは、桂離宮や伊勢神宮などの日本建築の日本独自の美を賞賛(「日本美の再発見」)し、日本人に対しても「ああ、そうなんだ」とそれを再認識させてくれた。アルハンブラがイスラム独自の美を我々に見せてくれるが、スペイン人は、これをスペインの文化と考えているのであろうか。やはりイスラムの文化と言うのではなかろうか。

エンタシス:他方、日本の古くからの建造物のなかに、コルドバのメスキータのようにそれぞれの文化を積み木細工のようにして見せてくれるものはあるであろうか。強いて挙げれば、ギリシャで起ったとされるエンタシスの柱が法隆寺南大門や唐招提寺金堂の木柱にみられるのがそれにあたろうか。

日本的融合:しかし、それらは、あくまでもギリシャ文化の影響が、インド、西域、中国、朝鮮を経て、それぞれの文化を融合させながら日本文化としてできあがったものの一部であり、メスキータの積み木のような混合物とはおおいに趣を異にしている。日本の仏像、美術品、工芸品などには、西洋と東洋が日本的に融合された文化を見て取ることが出来る。

化合物か混合物か:影響を受けた外国文化との関係で言えば、日本の場合が化合物とすれば、スペインの場合は混合物のように見えるのである。

言語のことを少しだけ。スペイン語、ポルトガル語は、フランス語、イタリア語などとともに、俗ラテン語と呼ばれる口語ラテン語を起源とし、イスラムからの借用語も多いという。数割がイスラム起源という話しを旅行中に聞いた。しかし、「音声面についてはアラビア語の音声の影響などいささかも受けていないのである」(日本大百科全書JapanKnowledge版)という。イスラムとの関係で言えば、やはり混合物という印象である。

2−3 イスラム科学の上に                            目次へ戻る

テージョ川畔にて:リスボンのテージョ川畔には、司馬遼太郎さんが「テージョ川の公女」と呼び讃えたベレンの塔や、エンリケ航海王子の500回忌を記念して建てられたという発見のモニュメントがあって、観光客はそれらを背景に記念写真を撮る。その発見のモニュメントの隣に天球儀と思われる大きな模型が立っている。私は、それを眺めながら大航海時代を支えたのは、ヒョッとしてイスラムの天文や地理に関する知識や技術だったのではないかと考えた。帰国してから少し調べたらまさにその通りだった。



 リスボン、テージョ川畔に立つ「発見のモニュメント」と天球儀

イスラム科学の役割:
まず、イスラム科学の役割を見ておこう。ヨーロッパ中世は、ルネッサンスによる覚醒を待つまで眠っていたように思われている。実際には、その間も、いろいろな進歩があったことが分かっているのである。しかし、イスラム世界の科学史を見ると、その間のイスラム科学の発展は目を見張るものがある。古代ギリシャ、ローマの科学は、ヨーロッパ自身に相続されたのではなく、アラビア語への翻訳を通してイスラム社会に相続されヨーロッパの近世、特に近代に受け継がれ花開いたということができる。中世におけるイスラム科学は、その後、ヨーロッパの科学と互いに影響しつつ進むのであるが、科学史の教えるところによると、イスラム科学の優位性は20世紀に入るまで変わらなかったという。

天文学、地理学などの伝統は、イスラム教そのものからと、陸海における広範な通商、貿易からの需要に支えられて発展した。イスラム世界では、アストロラーベ(いわば、アナログ天文計算尺)や四分儀が作られ、天文と計時に関する問題を解決していた。中国から持ち込まれた羅針儀も彼らにより改良が進められた。サマルカンド、デリーやジャイプールなどには大規模な天文台が作られた。それらは、季節の厳密な期間をさだめ、太陽や惑星、都市などの正確な位置を知るほかに、1日5回の礼拝のタイミングと聖地メッカの方向を正確に知るという実用的目的もあった。

 
コンブラ大学の講堂入り口上の浮し彫り。大学を管理する王はキリスト教と天文学を奨励した(?)

地理学の発展は、それらとあいまって、大航海時代の準備を整える役割を果たしたことはいうまでもない。イスラム商人は、イスラム世界の辺境を拡げ続けた。その結果、彼らの商業圏は地中海を大きく越えて、東南アジア、中国、ボルガ経由北欧、アイスランド、アフリカ内陸に及び、それらの経験を地図、海図に表し、海洋では航海術として高い水準を達成していた。たとえば、バスコ・ダ・ガマの航海が、イスラムの水先案内人なしにはあり得なかったところにイスラムの地理学の優位性が表れている。

結論@:ここまでをまとめてみると、イベリア半島では、地理的にも文化的にもイスラム教とキリスト教が混合してきた。そしてイスラム教の上にキリスト教が負ぶさっている関係にあるということができる。

3.大航海の富はいずこに                                  目次へ戻る

1492年は、イベリアの歴史の移り変わりを象徴する年である。イスラムの勢力がイベリア半島で決定的に撃退されると同時に、コロンブスが「新世界」に到達した年である。

3−1 ポルトガルの大航海時代                        目次へ戻る

スペインでなくポルトガルから:しかし、大航海時代はスペインでなくポルトガルから始まった。ポルトガルは、レコンキスタ(キリスト教回復運動)を北部から南部に押し進め13世紀半ばに基本的に完了させた。その足取りは、我々が訪問したところでみれば、コインブラをはじめとして、トマールのキリスト修道院(1147年着工)、アルコバサのサンタマリア修道院(1152年着工)と南下してくるのである。1255年には首都をコインブラからリスボンに移した。

    

左:トマールの「キリスト修道院」は、レコンキスタのために宗教的要素と軍事的要素が混在した頑強な意匠。右:アルコバサのシトー派「サンタ・マリア修道院」は、ポルトガル最大の本堂を持つ。

エンリケ航海王子:
そして、大航海らしき動きを大々的に行ったのはエンリケ航海王子が代表選手である。リスボンのテージョ川畔に立つ「発見のモニュメント」には、新大陸方向に目を向けるエンリケ航海王子を先頭に、ヴァスコ・ダ・ガマ、マゼラン、フランシスコ・ザビエルらが並んで彫られている。この巨大なモニュメントを遠くから眺め、近く寄ってそれら人物の像を眺めていると、大航海時代の息吹が伝わってきて、自分も彼らと一緒に喜望峰を回ったとしたらどんな気持になったことか、などと考え始める。

 
リスボン、「発見のモニュメント」

エンリケの功績:
エンリケ航海王子は、おもに1415年から1460年にかけアフリカ西海岸を精力的に探検した(させた)。これは、塩、象牙、金、奴隷などを求めての探検であった。これらの探検を通じて、操船がしやすく船足が早く向かい風でも走ることができるカラベル船が多いに発達し航海術が大幅に発展を見た。リスボンの海洋博物館にはカラベル船の模型をいくつも見ることができる。歴史に「もし」はない、といわれるが、もし彼がいなかったら、ポルトガルが大海にこぎ出すのにスペインに遅れをとったかも知れない、などと思い、彼の功績の偉大さを偲ぶのである。

「地理上の大発見」:そしてついに、ポルトガルの最大の功績となった探検が行われる。バルトロメウ・ディアスが1487年にリスボンを出港、翌年初めにアフリカ最南端の喜望峰を東へ回航、東海岸を若干北上して88年12月に帰国した。続いてバスコ・ダ・ガマが1497年にリスボンを出港、ベルデ岬諸島を経て喜望峰を回航、アフリカ東岸を経て1498年5月20日、インド西岸のカリカットに到着した。ここに宿願のインド航路の確立が果たされ、以後ポルトガルはこの方面に大船団を送ることになる。1510年代には、ゴア、マラッカ、広東、セイロン、マカオなどを占領し、アジアにおける拠点を築いたのである。

 

 
リスボン、テージョ川畔の「ベレンの塔」は大航海時代の面影を伝える

ベレンの塔:リスボンに、「ベレンの塔」が建ったのは1515年というから、それはポルトガルの大航海時代の盛時のことである。この優美な塔を眺めていると、アフリカやアジアから胡椒、貴金属などを満載した大船が次々とここを目指して入ってくる様子が目に浮かんでくる。ヨーロッパ各国からの人々は勿論のこと、黒い肌の人々、黄色な肌の人々が、入り混ざって歩き回り、いろいろな言葉が飛び交っていたのであろう。

ジェロニモス修道院へ:「発見のモニュメント」や「ベレンの塔」を見終わって、道を挟んで内陸側にある海洋博物館で大航海時代のおさらいをしても良いのだが、ここは、次のステップに進むこととして、さらにその先の「ジェロニモス修道院」に入ってみる。1511年に完成したこの修道院は、マヌエル1世が、自身の守護聖人ジェロニモスに捧げたものだそうである。

その荘重:大理石と思われる石材をいとも贅沢に使った優美な装飾の前面は東西に長く連なり、20m以上はあると思えるその高さをあまり感じさせない。完成以後、現在までに2回の大地震を経験しているが、その構造の荘重故にか、びくともせずに今に至っているらしい。完成後70年ほど経った頃、日本から天正遣欧少年使節が、ここに立っている。彼らは、この荘重さに度肝を抜かれたに違いない。

 

 
リスボンのジェロニモス修道院の壮大は、海外からの香辛料などによる利益に負っている。

マヌエル様式:この建物の至る所には、船のロープや海の波などをかたどった紋様が見られる。これはマヌエル様式と呼ばれている。勿論、大航海時代を象徴しており、大航海の恩恵が国内のあちらこちらに及んでいたことを示すようにジェロニモス修道院の他にも、我々の訪れたコインブラの旧大学講堂、トマールの「キリスト修道院」など、多くのところでお目にかかれるのである。

海外からの大きな富:エンリケ航海王子の後を引き継いだアフォンソ5世は、探検を行う商人に探検を行って交易をする権利を与え、見返りに利益の一部と情報を提供させた。ジェロニモス修道院の壮大さ、豪華さから、当時、海外からいかに大きな富を得ていたかを想像することが出来る。

 
トマールの「キリスト修道院」には、海洋にまつわる意匠を凝らしたマヌエル様式が数多く配されている。

ブラジル:
南米諸国の公用語は圧倒的にスペイン語であるが、ブラジルだけはポルトガル語である。1500年にカブラルがブラジルに到達し、その後、ポルトガルとスペインとの領有権確定のためのトルデシリャス条約(1494年)は1530年に改訂をみて、西経46度から東がポルトガル、西がスペインとなった。南米とヨーロッパ、アフリカとの間は、日本人にとってはとても遠い印象だが、これは、実は日本で使われる世界地図がいけないのであって、アフリカとブラジル東端とは近いのである。そのブラジルは、そんなわけで意外に東にせり出していて、その条約で決められた境界線、西経46度はブラジルのど真ん中を走っており、主要部がその東側にあったブラジルがポルトガル領になったという。公式には、カブラルが「発見」したという事実は、その理由のひとつとして後知恵で歴史に書き加えられたということであろうか。

ジョアン王の図書館:ポルトガルでは、当然かも知れないが現在でも、ブラジルとの関係を見ることができる。我々が訪れたコインブラ大学では、「ジョアン王の図書館」と呼ばれる旧い図書館が今でも閲覧に供されている。18世紀初頭に建設されたものであるが、高い天井まで図書をびっしりと収めている書架、書庫は、ブラジル産の黒檀に金箔漆塗りという手の込んだものである。ブラジルとの関係が強かったことを示す例である。

 
コインブラ大学の図書館。ブラジル産黒檀の書架

3−2 スペインの大航海時代                           目次へ戻る

ポルトガルでなくスペイン:コロンブスが西航の「計画」を最初に持ち込んだ相手はポルトガルであった。しかしポルトガルは、アフリカ西岸を南下してこれを東に迂回して東洋に達する航路の発見が間近であったためにコロンブスの提案を採用せず、コロンブスはスペイン国王イサベルにこの話を持っていった。しかし、スペインのこの方面への探検航海は、国内でのレコンキスタが最終段階を迎えていたために、これに忙殺されてポルトガルに遅れ、コロンブスの「計画」が許可されるのは、持ち込んでから8年後、グラナダが陥落した後の1492年4月であった。

スペインの大航海時代:コロンブスは、1492年8月3日にサンタ・マリア号で出発、10月12日にバハマ諸島に上陸した。以後、1504年11月7日に帰着するまでに4回の航海を行った。この航海が、スペイン王国の南米への進出に火をつけ、1500年にはギアナ・ヴェネズエラへ進出、バルボアの太平洋への到達(1513年)もあって、カルロス1世の時代(1516〜1556)、スペインの大航海時代は大忙しであった。その間、コルテスのメキシコ征服(1519年)、マゼラン船団の世界周航(1522年)、ピサロのペルー征服(1525年)、ボリビア占領(1538年)、ピサロのアンデス探検(1541年)、ポトシー銀山開発(1545年)、チリ征服(1546年)と大事件が目白押しである。しかし、その後、フェリペ2世の時代にはすでにかげりが見えてきて、1588年に無敵艦隊がイギリスに敗北すると、海の覇権はイギリスに傾いてゆくのである。

   
トルヒージョの街の広場には、ピサロの像が建てられている。南米の文明の破壊とひきかえにスペインに大きな富をもたらした。

資本の原始的蓄積:以上のようなイベリアの2国による世界支配体制の確立は、それに続くイギリス、オランダ、フランスをも含め、ヨーロッパの多くの国々が、世界の富の収奪と権力の拡張を求めて、地球上のあらゆる地域に侵略してゆく糸口になる。この時代の経済的特徴の一つが、「新世界」から富をヨーロッパに運び込むことにより、そこに近代資本主義の形成を支える資本の原始的蓄積を促進させたところにあることはいうまでもない。

では、そのようにしてイベリア半島に蓄積された富がそれ以後どうなっていったか、を考えてみたい。

3−3 ハプスブルク家                          

双頭の鷲:私は、1992年の夏、会議のためウィーンを初めて訪れ、町中にえらく立派な建物がたくさんあることにビックリした。会議主催者は、趣向を凝らして(と思えたのだが)官庁の玄関ホールでウィーンフィルの弦楽四重奏を聴かせてくれた。音響は悪くなく何よりも天井が高くおもおもしい柱の並ぶホールの雰囲気が音楽に良く合っていた。日本の霞ヶ関のお役所でそんなことができる建物があるものだろうか。その時に、オーストリア農業省の正面の屋根の上にオーストリアのシンボル、双頭の鷲が据えられているのに気がついた。これも日本にはないことである。役所の建物が立派なのは、そこの行政がどこを向いているかを測る尺度といわれることがあるが、ヨーロッパの絶対王政の時代は、権力が富を保有することも仕事の内、自身の偉容を誇示することなしには存在できなかったのである。

屋根の上のペガサス:オーストリア農業省の双頭の鷲を、私はリスボンでポルトガル農業省を見上げたとき思い出し、スペインが、往時、ハプスブルク家の王を頂いた時期のあることを思い出した。バスの中から見ただけだが、あとから写真でよく見ると、それは双頭の鷲ではなく、どうやらペガサスに人が跨った像がみっつ並んでいるようである。

 


左:リスボンのポルトガル農業省  右:オーストリア、ウィーンの役所の屋根の双頭の鷲


閨閥:
この時代、閨閥というものがしばしば国の浮沈を左右した。ハプスブルク家は、13世紀後半、ルドルフ1世がオーストリアの地に領土を固め、フリードリッヒ3世が1452年に神聖ローマ皇帝の称号を得て後、ヨーロッパの王室と閨閥を作ることで隆盛を作り上げてゆく。スペインにおいても、閨閥は大きな力を発揮し、カスティーリャのイサベルとアラゴンのフェルナンドとの結婚(1469)によってスペインは統一(1479)を実現し、スペインの歴史は伸展してゆくのである。

大航海と閨閥:ハプスブルクとスペインの閨閥は、マクシミリアン1世(在位1493〜1519)が、イサベルとフェルナンドの娘でスペイン女王となるファナに目を付け、息子のフィリップとの縁組みを実現させることから始まった。その子供がふたりあって、片方がイスパニア王となるカルロス1世(在位1516〜56)であり、後に神聖ローマ皇帝としてはカール5世(在位1519〜56)を名乗り、ポルトガル王女を妻として彼は世界的規模の帝国の王となるのである。この時代は、まさにイベリア2国の大航海時代の真っ盛り、資源も労働力もアメリカ、アジア、アフリカからどんどん流入(収奪)してきた時代である。

天正遣欧少年使節:伊東マンショほか日本人4少年(他に3名の日本人)を中心にした天正遣欧少年使節がリスボンに着いたのは、1584年8月11日のことであった。当時のポルトガル国王はフェリペ2世であったが、実際の統治は、彼の甥にあたるアルベルト・アウストリア枢機卿が行っていた。当然、ハプスブルク一門である。彼らは9月5日にリスボンを出発するまでに、シントラの王宮で枢機卿から歓待されたり、ジェロニモス修道院その他の教会のほか、造船所、畜産所なども訪れたという。その間、リスボン市民はかれらをあまり珍しがらなかった。なぜならば、彼らの訪欧を進めたヴァリニャーノ巡察師の「派手に振る舞うな」というお達しがあったこともあろうが、リスボンには、大勢の商人などが、神聖ローマ帝国からだけでなく、アジア、アフリカから出入りしていたという事情があったからである。まさに国際都市だったのである。彼らは、この後、エヴォラのカテドラルではオルガンの演奏をしたりしてスペイン、イタリアを目指した。彼らが最初に実見したポルトガルとその文物の豊かさは、彼らをいかほどに驚かせたことであろうか。

  

左:台所の大煙突はシントラの王宮のシンボル。右:エヴォラのカテドラルには伊東マンショと千々石ミゲルがひいたオルガンが現存する。

豪商フッガー家:
さて、富を運用するためには、それを担う商人がいなければならない。代表例が、南ドイツ最大の豪商フッガー家である。当然、皇帝との縁は深く、マクシミリアン1世の頃から銅の取引をまかされ、1505年頃からはリスボンを拠点に東インド貿易を開始した。マゼランの世界周航などにも資金を出している。カルロス1世は1519年に皇帝に選ばれるのだが、その選挙費用はフッガー家が過半を分担したという。その後も長くスペイン王室への資金貸し付けなどを大きな仕事としたというから、スペイン王室の首根っこを握っていたようなものである。

ヴェルザー家:もうひとつは、ヴェルザー家である。フッガー家と同様にアウグスブルグの豪商であったヴェルザー家は、カール5世より、その大きな借入金のための抵当としてヴェネズエラの海岸地域(カラカス州)を与えられた。バルトロメオス・ヴェルザーは皇帝の顧問に任命され、1527年には用意した3隻の船をヴェネズエラに派遣した。

アウグスブルグ:両家を生んだアウグスブルグは15世紀以降繁栄しそれは17世紀まで続いたというから、大航海時代の2豪商の活躍がそれに大きく貢献していることは間違いなさそうである。イベリア半島から当然多種多様のものがアウグスブルグにはもちこまれたわけであるが、わが天正使節の情報も姿形入りの新聞でアウグスブルグに伝えられている。

結論
A:
この項の冒頭に記したリスボンのポルトガル農業省とウィーンのオーストリア農業省の玄関屋上のシンボルの類似は、私にここまで見てきたようなことを仮説として頭に思い浮かべさせたのであった。世界中から持ち込まれた富は、ハプスブルク家とこれら豪商によりポルトガルやスペインに一部が落とされたとはいえ、神聖ローマ帝国とその僚国(ネーデルランド、ナポリ、ジェノヴァ)などヨーロッパ各国に大量に流出したことは想像に難くない。つまり、イベリアに集められた富は、その過半がそれらヨーロッパ諸国に運び去られていたのではないだろうか。この結論は、しかし、状況証拠と定性的なデータしか持ち合わせておらず、定量的、史実的な詰めが甘い。故に作業仮説として、検証を今後の勉強にゆだねたい。すでに、定説があるのであればそれを勉強してみたいと思っている。

4 二つの答え                                目次へ戻る

イスラムの影響は:
かくして、ふたつの疑問に対する答はひとまず得られたこととなる。すなわち、イベリア半島に及ぼしたイスラムの影響は多大なものがあり、いまあるポルトガル、スペインはイスラムなかりせば、全く違った姿になっているに違いないと思われる。いわば、イスラムの下駄を履いた国なのである。そして、エンリケ航海王子やコロンブスに先鞭を付けられ、世界に先駆けて大きく伸展した大航海時代は、確かにイベリア半島に巨大な富をもたらしたのは確かで、今でもジェロニモス修道院などに見るようにその時代の栄華を偲ぶことができる。

大航海の富は:しかし、それらの過半は、おもにハプスブルク家によって神聖ローマ帝国の所領に、また、関連した諸国に拡散され、それらの地域を潤したもののごとくである。イベリアに入った富は過半が「ハプスブルク・トンネル」を抜けてヨーロッパに流れていった。ウィーンで今見ることのできる華麗で壮大な建築物や文物は、もちろん神聖ローマ帝国の領土内から集積されウィーンで実った果実が多かったと思うが、イベリア半島を経由して持ち込まれ、そこで形を為したものが過半を占めるのではないだろうか。そうした結果、現在、イベリア両国が、神聖ローマ帝国やその周辺の国々より豊かさにおいて一歩あいだを開けられているように見えるのではないか、と思うのである。

5.イベリア半島の進む道                        目次へ戻る

スペインの経済成長:私は、1994年に一度バルセロナを訪れたことがある。その時は、EC(ヨーロッパ共同体)への加盟が1986年に実現し、1992年には25回夏季オリンピックが終り、同じ年に、セビージャの万国博も行われた。その余韻がバルセロナにはうかがわれ、ランブラスの大通りには人が溢れ活気があった。それから9年目のバルセロナは、相変わらず活気が感じられ、あちこちにクレーンを立てた工事中のところが目立った。1996年から2005年までの10年間のスペインの平均経済成長率は2.6%だったという。これは高くはないが、低いものではない。

 
バルセロナ市街を望む

移民に関して:
しかし、同じ間の移民の増加率が、EU全体で3.7%なのに比べ、スペインでは8.4%だった。そして、これら移民がなければ、成長率は0.6%下がっただろう、といわれている。移民問題は、ヨーロッパでも大きな課題となっているが、ポルトガルも含めて大航海時代以来、多くの民族がイベリア半島で暮らしていたのである。不法移民などとその生活の問題などは、その気になれば上手く解決できる素地があるのではないだろうか。フランスやドイツよりその素地があると見るのは贔屓目であろうか。

スペインの土:堀田善衛さんが、「スペイン断章」などで書いておられることであるが、イベリア半島の北は山であり、南も高原、平野は少なく、どこへ行っても「ごろた石」ばかり。教会などが石灰岩でできていたり、大理石の柱も使われていたりするのだが、大理石は遠くイタリアやバルカン半島からも運んできたようだから、何といってもイベリア半島で特徴のある石は、カンブリア紀とかのとてつもなく古い岩石であることが多いらしい。それらが、大きな塊で、つまりごろた石でころがっていたら、農耕地にするといっても大変である。それに、それらの石が風化してできた土は通常は瘠せている。農業に適しているとはいえないだろう。

 
ごろた石の放牧地(アビラ、サモラ間)

穀物収量:
2005年におけるha当りの穀物収量をみてみると、世界平均は3260kg、EUは5500kgに対しポルトガルは2030kg、スペインは2100kgなのである。ちなみに、日本は6150kg、インドが2370kg、ウクライナが2630kg、オーストラリアが2030kgなどである。イベリア半島の農業を遅れているとみるか、可能性があるとみるか。多分、後者と見るためには、何かの突破口のような要素が必要であろう。それは、技術力と面積ではないかと思う。そして、今回の旅の至る所で眼にしたのは、広大な原野と広い故におおざっぱな農業の姿であった。すなわち、今後の技術開発にかかるところが大きいのではないか、つまり、発展の可能性があるのではないか、と考えられるのである。

 
セゴビアからアビラへの途上にて

発展途上:
歴史の長いスケールで国の富ということを考えた場合、大航海時代をピークにしてそれ以後、これら2国はどう見てもその水準を回復していないのではないか、とも思えるのである。もっとも、国内に残された富だけ考えたとしても、それを保有していた人間が国家の中心にいた者に限られていて、その部分だけが豊かだったのかも知れない。多分、そうであろう。大航海の時代は、一揆の時代でもあった。王族や貴族の華やかな暮らし、それとても必ずしも喜ぶべきことに満たされていたとはいえないのだが、その反面で、民衆は貧しかったのである。ドン・キホーテの世界は、そのギャップの中で生み出された傑作であり、そこにセルバンテスは人間の社会に普遍的なものを見出しみごとに再構成したのであった。当時の富は、多分、人口で平均すればさほど高くはなかった可能性がある。いずれにしても、現在のイベリア半島は、発展途上ということができるのである。

 

 
スペインの現代の風車(セゴビア、アビラ間)

環境に生きる国:
農業・食糧のほかに工業・商業にも可能性はあるのであろう。その他に、私がメセタを走り、風景を眺めて考えたことは、環境に生きる国なのかも知れない、ということであった。トレドのタホ川は泡の川であり、環境問題がかなり存在することを思わせた。しかし、ドン・キホーテが突進した風車は、今、馬上からの槍など、とても届かない高いところで悠々と回っているのである。その取り組みの延長上には、地球に優しい社会、持続的社会が待っているのかもしれない。マラガからバルセロナに向けて飛ぶ飛行機から下界に連なる風車の列を眺めながら、私はそのようなことを漠然とではあったけれど考えながら眠りについたのであった。

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参考文献
1) 日本大百科事典、「イベリア半島」(地理:田辺 裕・滝沢由美子、歴史:斉藤 孝)、「スペイン」(塩崎弘明)、「ポルトガル」(安部眞穏)「JapanKnowledge版
2) 亀井高孝、三上次男、林 健太郎、堀米庸三「世界史年表・地図」吉川弘文堂、1998
3) ハワード・R・ターナー、久保儀明(訳)「図説 科学で読むイスラム文化」青土社、2001
4) 松田毅一「天正遣欧使節」講談社学術文庫、1999
5) 司馬遼太郎「ワイド版街道をゆく23 南蛮のみちU」朝日新聞社、2006
6) 安引宏、佐伯泰英「新アルハンブラ物語」とんぼの本、新潮社、1991
7) 堀田善衛「スペイン断章(上・下)集英社文庫、1996
8) W.アービング、江間章子(訳)「アルハンブラ物語」講談社文庫、1976
9) 山口恵一郎、品田毅「図説地図事典」武揚堂、1984
 


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