藤沢周平「白き瓶」

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藤沢周平「白き瓶」を改めてめくってみて、長塚節の文壇への道が、どんなだったか、たどることが出来ました。

節は、すでに水戸中学時代に歌を読み始めていました。「歌よみにあたふる書」を読んでそれに強くひかれていたのですが、いきなり子規の門下に入るわけです。初めて子規に会えたのが、神経衰弱の病気治療で上京していた折、明治33年、22歳の年の3月28日でした。

それ以来、もともと力のあった節ですから、どんどん歌を発表し認められて行きます。伊藤左千夫、佐佐木信綱をはじめ、錚々たる顔ぶれに交わり腕を上げます。そして、子規の唱えた写生文から、短編小説をも書き始め、やがて夏目漱石の推薦で朝日新聞に、漱石の「門」のあとがまの長編を連載しはじめます。それが、いわずと知れた「土」なわけです。

文壇への道のあらすじは以上のようなことでしたが、話は「土」のことに変わります。

「土」の冒頭は、「白き瓶」にも引かれています。「激しい西風が目に見えぬ大きな塊をごうつと打ち付けては又ごうつと打ちつけて皆痩せこけた落葉木の林を一日苛め通した」と書き出されています。

この描写は、ちょうど今の季節、私の住む地方の冬に典型の姿です。昨日も、これに近い風が吹き渡っていました。私が「土」に触れたのは、大学教養部の地理の授業でした。関東平野の冬の姿を、これほどうまく表現する文章は他にない、というような解説だったと思います。そして、まず、冒頭の記述を大学生協書籍部で立ち読みしたのではなかったかと思うのです。実際に通読したのは、北海道で農業試験場に就職してしばらくしてからのことでした。そして、今住む地に来てから、節の旧居が近いことで、そこを何回か訪れては「土」に親しんできました。

「土」が、明治中期の農村社会を描いて秀でていることはいうまでもありませんが、「白い瓶」では、その舞台やモデルのことも書かれています。最近、その「土」を評して、農民文学界で長くご活躍された南雲道雄さん(残念なことに、昨年末にお亡くなりになりました)が、「農業が描かれていない」とおっしゃっていました。そういわれてみれば、「土」では、農民や農村は生き生きと描かれているのですが、直接、農業を描いていないと言うことは可能なように思えてきます。農業とは何を指すかは、南雲さんからお伺いすることが出来ませんでしたが、広く農作業する場面が思い出せるかとなれば、ほとんど思い出せないのは事実でしょう。あっても、断片的だったり、間接的だったりがほとんどだと思うのです。細かなことですが、最近のことでしたので、書き記しておきます。

「白き瓶」では、「土」の下書きが、常に持ち歩く手帳に書かれたと書かれていますが、しばしば小学校の図書室で書かれたとも記されています。小さな椅子で硬い机に向かうことで、ちょっとした緊張感をもって創作に向かうことが出来たのでしょう。このあたりは、藤沢さんの目から見た節の姿かもしれません。

節は、喉頭結核に肺結核を合併し旅先の九大病院にて帰らぬ人となりました。37歳でした。さらに命ながらえれば、どれほどの名作を残したか、と思われますが、私の関心深き作家では、宮澤賢治も同じ37歳で亡くなっています。

「白き瓶」の名は、節の歌「白埴の瓶こそよけれ霧ながら朝につめたき水くみにけり」から来ていて、昭和60年文藝春秋発行の単行本の見返しには、その歌が墨にて認められています。藤沢さんは、「白き瓶」の末尾を、「聖僧のおもかげがあるといわれて清潔な風貌とこわれやすい身体を持っていたという意味で、この歌人はみずから好んでうたった白埴の瓶に似ていたかも知れないのである」と結んでいます。

(2012/2/4)                    

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