戦争の夏、2008
目 次 (クリックにて、各章節へジャンプできます) 1.ドラマが語ってくれたこと 2.貴重な証言が語ってくれたこと 2−1.レイテ決戦−果てしなき消耗戦 2−2.被害と加害の矛盾を通して 2−3.原爆の意味の拡がり 2−4.戦争の財源が暴かれる 3.終戦前後、国体護持を巡って 4.まとめ 原爆が日本の空で炸裂したのも、人々が玉音放送に耳を傾けたのも、そして沖縄で集団自決が強要されたのも、満州で不意に襲ってきたソ連の軍隊に追われるときから逃避行が始まったのも、すべて夏の出来事であり、さらには戦争最終盤の決戦が行われた南洋諸島は常夏の地であったからか、夏はテレビなどで多くの戦争番組が組まれます。 この夏は、北京五輪の放送と競合した番組もありましたが、ビデオなども活用しつつできるだけそれらを見るようにしました。その結果、この夏は、とりわけ、掘り起こされ語りつぐべき戦争の姿が多く電波に乗ったように感じました。私の目に触れたそれらの番組から、2件のドラマと、何件もの埋もれていた事実の掘り起こしとが印象深く心に残りました。 1.ドラマが語ってくれたこと まず、ドラマから振り返ってみようと思います。 「帽子」は、8月2日の総合テレビ午後9時からの放送でした。兄妹のように育った春平と世津という二人の何十年後の再会がこのドラマの大きな流れなのですが、その中で、世津の言葉の中に、被爆者としての強さが感じられました。「にいちゃんが、つらいことがあってもノホホンと生きなさいと話してくれた」「おなかの中で原爆の音を聞いたから、今でも花火の音が恐ろしい」。そして、今は「幸せに暮らしている」という胎内被爆者・世津の言葉に反戦と平和への思いが滲んでいました。 もうひとつは、日本系 8月25日 午後9:00からのドラマ「霧の火〜樺太・真岡郵便局に散った9人の乙女たち」 樺太真岡の郵便局女子電話交換手9名が、終戦5日後に集団自決した物語です。非番の6人が難を逃れていたのですが、ドラマでは3人が生き残ったとされました。そのうちの一人が、樺太で実際にあったことを書き残しておこうと孫娘に口述筆記して貰う形でドラマは進みます。主人公の親から始まり孫までの4代にわたる物語となっています。 当時、電信電話は国の生命線と唱えられていました。その中で、終戦の8月15日以降も尊い命が奪われたのでした。軍部からの情報に基づき、青酸カリが配られ、強要された死でした。しかし、ドラマでは、主人公は生きることによって、強要の死を否定したのでした。 なぜ、彼女たちは逃げなかったのでしょうか、自決に至ったのでしょうか。「生きて虜囚の辱めを受けず」は、彼女たちの上までも覆っていたのです。みんな、恋をし家庭を持って老いてゆくはずでしたが、それを断ち切っての死は、見ていてまことに痛ましいものでした。ドラマでは、戦死した父の部下山田が天皇批判をしていましたが、そこにひとつの主張を見た思いでした。同時に、美しく死ぬことではなく美しく生きることを訴えたドラマでした。 2.貴重な証言が語ってくれたこと 目次へ戻る ドキュメンタリー番組では、掘り起こされた「戦争」、その実際の姿がいくつもの切り口から展開されました。 2−1.レイテ決戦−果てしなき消耗戦 まず、8月15日、NHKスペシャル「証言記録 レイテ決戦“勝者なき”戦場」(総合午後10:30〜)です。レイテ島では、終戦近い数ヶ月間(それ以上にわたる兵隊たちもおりましたが)、物量・兵力共に上回る米軍との戦いが繰り広げられ、日米会わせて30万人の兵隊のうち、日本軍の97%にあたる8万人が、そして島民も1万人が死亡したとされます。 レイテ島での戦いは、1944年10月に開始されます。日本軍は、間もなく米軍の圧倒的な戦火に見舞われ、食糧、武器弾薬の補給無しの戦いを強いられます。そして、マッカーサーのレイテ戦終結宣言は昭和19年12月20日に行われました。それなのに大本営は撤退を許さず、最後は部隊の放棄さえしたのでした。彼我の力を見誤って、兵站を軽視した杜撰な作戦であり、机上の空論だったといえます。 今回、はじめての重い口を開いた80,90歳代の元兵士。家族にも語れなかった事実を今語る元兵士や現地住民など、日米比3国からの証言が集められました。日本軍サイドでは、飢餓状態の「幽兵」が密林をさまよい、腰を下ろしたところが死に場所だったといいます。死体に囲まれて眠る日々だったといいます。勝った米兵も、今に至っても戦場が夢に出てきて、妻を殺すかと思ったほど、といいます。それはまさに「果てしなき消耗戦」でした。島民の被害も多かった一方、敗残日本兵に食糧を与えた人もいたという証言に接しては、戦争における民衆の立場、というものを考えてしまいました。国を憎んだとて民は憎まず、とでもいいましょうか。 同様な証言は、「証言記録 兵士たちの戦争」(7月29〜31日、NHK総合、深夜0:10〜)においても展開されました。ガダルカナルの旭川歩兵第28連隊、ニューギニアの岩手歩兵222連隊、インパールの高田歩兵58連隊、ペリリュー島の水戸歩兵第2連隊などの消耗戦でした。何れ劣らずの消耗戦でした。 2−2.被害と加害の矛盾を通して 目次へ戻る NHK教育ETV特集「罪に向きあう時」BC級戦犯A(8月24日午後10:00〜)も見応えのある証言番組でした(@は韓国・朝鮮人のBC級戦犯の証言でしたが、都合がつかず見ずに終わりました)。 BC級戦犯については、かつて、映画「私は貝になりたい」で少し認識していましたが、今回の番組で、一層その実体と歴史的意味が理解できました。太平洋戦争の戦犯には3種類あって、罪の内容で分けられています。「平和に対する罪」=A級戦犯、「通例の戦争犯罪」=B級戦犯、「人道に対する罪」=C級戦犯です。A級戦犯が東京裁判で裁かれたのに対し、BC級戦犯、総数5700人は、米英蘭仏豪中比の7ヵ国で裁判が行われ、現地で収監されました。後にスガモプリズンに移された場合も多かったようです。 この番組には元戦犯、遺族が登場しますが、主に2名。ひとりは、マレー半島で中国人ゲリラを殺害したという罪で処刑された橋本忠さんの甥、和正さんです。あとひとりは、飯田進さん。ニューギニアで現地人ゲリラの殺害という罪を問われ禁固20年。前半はインドネシアで、後半はスガモプリズンで過ごしました。ふたりともに、上官の命令で行動した結果ではあるけれども、それで終わるのでなく、加害と被害の両面から戦争を見つめてきました。 飯田さんの場合、インドネシアとスガモでの収監以来、現在に至るも、戦時中の姿勢、行動を冷静に見つめることを続けてきました。スガモプリズンでは、飯田さんたちは「平和グループ」を作って、仲間とこの問題を考え続けました(こういうグループがスガモに作られていたことは驚きでした)。自分たちを戦犯に追いやった社会とは何か、戦勝国による裁判とは何か、再軍備をしてゆく日本とは何か・・・。そして、飯田さんは言います「戦後日本の戦争責任との向き合い方は曖昧だった」と。 以上の証言番組から見えることは、生き残ったものの負い目から口を閉ざす者も、内心、戦後を噛みしめて生きてきたのですが、そのような人たちが老いを迎えるなか、重い口を開き始めたという事実です。どれもが戦争体験世代の証言を主役に据えたすぐれた番組だったと思います。 2−3.原爆の意味の拡がり 目次へ戻る 次は、原爆に関する事実の発掘です。 まずは、8月7日、NHKスペシャル「解かれた封印〜米軍カメラマンが見たNAGASAKI〜」です。この番組は、私の心を強く打ちました 米海兵隊従軍カメラマン、ジョー・オダネルは、真珠湾攻撃を憎み入隊した軍人でした。彼は、原爆投下直後のナガサキで記録写真を撮っていました。同時に、ナガサキの人々の被爆の姿を自分のカメラに収めていましたが、これは本当は規則違反でした。後者のネガは、43年間、自宅の物置小屋のトランクに隠されたままでした。しかし、後年、身体に変調が現れます。皮膚癌、背骨の変形などでした。トランクを開けようと決心し、ネガを自宅物置から取り出し見つめ直し、その結果として公表しました。 米国の多くの人々は「原爆が終戦を早め、多くの人命を救った」と信じています。それは違うと、写真によって原爆の悲劇を米国内で訴え続けるものの、それに対し多くの非難を受けることになりました。出版も拒否され、博物館での展覧会も抗議にあって出来ませんでした。その間、妻さえ去って行きました。 ジョーは、2007年8月9日、癌で亡くなります。85歳でした。息子のダイグ・オダネルが、父の録音テープを聴き、あとを引き継ぐことを決心します。 録音テープの中で、ジョーは語っていました。「憎しみは同情へと変わった」「アメリカはキノコ雲を見て戦争は終わったと思った。しかし、日本人にとっては苦しみの始まりであった」「歴史は繰り返すというが繰り返してはならない歴史がある」「小さな石の波紋も必ず拡がって陸に至る」「私は米国を愛している」・・・ ダイグ・オダネルは、父の訴えに非難の投書を寄せたアメリカ人に反論して「原爆が何だったのか、図書館で勉強してから批判しろ」と書いていました。 アメリカにおける原爆については、さらに、ハイビジョン特集フロンティア 「ヒロシマナガサキ〜白い光 黒い雨 あの夏の記憶」(8月5日(水)総合・午前0:10〜1:40)がありました。スティーブン・オカザキが、原爆と被爆者に向き合い25年、その到達点を映像にしたものでした。 日本人にとってそれは人類史上初めての原爆投下による被害でしたが、アメリカ人にとってそれは、戦争を終わらせるためであったのですからアメリカは正しかった、という認識になるのです。そこには深い溝があります。そこで彼は、被爆の実態を丹念に取材して歩きます。被爆体験の風化が急速に進行している、と感じます。今が証言を伝えるラストチャンスだとして、多くのインタビューで溝を埋める努力を重ねます。原爆について議論のきっかけを与えられれば、とオカザキは言います。それに応える動きが出始めます。例えば、テキサス州の高校における議論を通じ、彼ら高校生は「アメリカが、広島・長崎で何をしたのか、を教えないのはおかしい」と気がつくのでした。 別の番組では、原爆に関し、全く知らなかったことに目を向けさせられました。「その時歴史が動いた−模擬爆弾パンプキン」(NHK総合、8月27日、午後10:00〜)です。 「パンプキン」は、1945年7月20日から京都、小倉、広島、新潟、島田、福島などに49発が投下され、それによって400人以上の日本人が亡くなり、負傷者も1200人以上に及んでいます。これが、実は、原爆投下の予行演習だったというのです。長崎に投下された原爆ファットマンと形、重量が同じというものでした。そして、発進基地テニアンに終戦時に残ったパンプキン66発がひそかに廃棄されました。 これらは、愛知、山口両県の教師たちが米軍機密文書から発見しその実態が明らかになりました。また、大阪市住吉区田辺では、「黙っていて風化させてはいけない」と毎年7月26日に模擬爆弾被害者追悼式が行われています。静岡県島田市でも市が主催して大阪と同じ日、慰霊式が行われております。 原爆に関連した被害が、時間的に今につながっているのはいうまでもありませんが、地理的な意味で、広島、長崎だけでない拡がりをもつものだったということが見えてきます。被爆者が各地に拡がって、それぞれの人生を紡いでいることはいうまでもありません。 さらに、8月6日「NHKスペシャル〜見過ごされた被爆」も、原爆被害がいまだに不十分にしか手当てされていない現実を考えさせてくれました。 従来、原爆は、残留放射能を最少にするため上空で爆発させたとか、3時間後には残留放射線量はゼロになるとか、被爆後、被爆地に入ったいわゆる入市被爆者の被爆線量は測定不可能である、といったことがいわれ、原爆症認定の広がらない理由とされてきました。11万人いた入市被爆者の原爆症認定の申請は、ほぼ却下されてきました。被爆後、被爆地に入った人たちの中から、現在に至るも白血病や癌で亡くなる人の割合が高くなっているにもかかわらず、です。 ところが、最近になり、アメリカのデータや科学者の研究結果から原爆とそれに関連すると思われる病気などとの関係が明らかになり上記理由も覆りはじめ、裁判で入市被爆者が原爆症と認められるようになりました。ようやく認定基準が大幅に見直されることとなったのです。被爆者の目線で調査を続けてきた日本人科学者がいたことも強く印象に残りました。 63年間、病気と闘い、生活にも多くの制限を強いられてきたそれら被爆者の人生を思うと、原爆の悲劇の大きさ、重さを改めて考えさせられました。 これらの他にも、原爆の今日を見つめた番組はたくさんありました。 「原爆〜63年目の真実」(朝日系 8月2日午後9:00〜10:51)は、3部作で、「瓦礫の長崎に立つ少女・・・笑顔の裏側」「原爆投下部隊・天才パイロットの光と影」「日本の原爆開発計画」を伝えてくれました。 前2件は、上で見たジョー・オダネルの戦いに通ずるような話で、被爆地の事実と実際の経験が、「原爆が終戦を早めた」といったアメリカにおける妄信を打ち砕くところを描いていました。 3件目は、仁科博士たちの原子物理学の研究が原爆開発にもつながりかねないことを背景に描きつつ、何より驚かされたのは、福島県の少年たちが、ウラン原石の掘り出しに素手とスコップを以て狩り出されていたという事実でした。細菌兵器の研究などと共に、軍隊が、科学をも総動員して、考えられない世界に人々を引きずり込む姿を見せられた気がしました。 2−4.戦争の財源が暴かれる 目次へ戻る 戦前の日本軍の財政的基盤に関する掘り起こしが、「NHKスペシャル〜調査報告 日本軍と阿片」(8月17日、総合、午後9:00〜)でした。 放送は、中国の某所に阿片工場の跡がある、というところから始まります。阿片患者を救済すると言って阿片窟を作り阿片患者を増やした事実を追います。東京裁判では、阿片政策の実行者とされる里見甫が「国際条約違反は分かっていたが、我々の戦争は阿片無しには出来なかった」と証言します。支那阿片需給会議(42年8月)で「大東亜共栄圏のカギは阿片政策にあり」ということがいわれていたという記録があります。日本予算の9割が軍事予算だったという当時の国家財政に、阿片という麻薬が、軍の方針として、国の重要“資源”として使われていたのです。佐野眞一さんは「阿片王―満州の夜と霧」という著書で、満州における阿片の力を描きましたが、改めて、戦争の酷い側面を確認した番組でした。 3.終戦前後、国体護持を巡って 目次へ戻る NHKの「その時歴史が動いた」では、シリーズ日本降伏と題して、終戦前後の動きに2回を割きました。そのひとつが「焦土に玉音放送が響いた」(9月3日、午後10:00〜)です。 ポツダム宣言が7月26日に出されてから玉音放送の8月15日までの3週間の間、最高戦争指導会議、御前会議などにおいて鈴木貫太郎総理大臣などを中心に「国体の護持」をめぐる延々たる議論が続けられたのです。その間にも、ヒロシマ、ナガサキ、ソ連参戦、各地の空襲激化などで累々たる屍が内外に拡がっていったのでした。さらに、「玉音放送」が一日遅れたためにも、2500人が殺され、特攻隊員も飛び発っていったのでした。 8月9日午前の会議で、ポツダム宣言受諾に向けての交渉に関し阿南惟幾陸軍大臣は「もしも交渉が決裂しても本土決戦の道がある。敵に一撃を加えた上で有利な講和条件を引き出し、国体護持を図るべきだ」と主張したといいますが、ここには、軍部の本音が出ているように感じます。 他方、「木戸幸一日記」昭和26(1951)年10月17日の記述にあるという「このたびの敗戦については、責任をお取り遊ばされ、御退位遊ばされるが至当なりと思う。若しかくの如くせざれば、皇室丈が遂に責任をおとりにならぬことになり、永久の禍根となるにあらざるやを虞れる」の件には、文民の考えの一端が示されているように感じます。 しかし、事実は、我々がよく知っているように推移したのでした。 その2が、「そして戦後が始まった」(9月10日午後10:00〜)です。 1945年8月15日〜9月2日の降伏文書調印までの出来事を追います。国内では、この間、厚木の航空隊は、戦争遂行を求めたりして不穏な動きをしています。そんな中、東久邇宮稔彦総理大臣を中心に、いかにして降伏文書に調印するかを、こまごまと議論して行きます。ここでも、中心的関心は、国体護持の大命題でした。 日本の指導者は、歴史上経験のない降伏手続きに向け、降伏を認めない人々と連合国の様々な要求との間で揺れ動きました。マニラでの最終交渉には参謀次長河辺虎四郎陸軍中将が派遣されます。東久邇宮総理大臣は、一億総懺悔を提唱します。降伏文書調印の全権委員としては、外務大臣重光葵と参謀総長梅津美治郎が決まります。そして、9月2日に東京湾に停泊したミズーリ号の艦上で調印が行われました。大本営陸軍部作戦部長宮崎周一中将は「帝国史上ノ最大屈辱ノ降伏調印ノ日ナリ」と日誌に記したのでした。 かくして、日本は8月15日を「終戦記念日」とし、アメリカは9月2日を戦勝記念日としているのです。 4.まとめ 目次へ戻る 私が見ずに終わった戦争番組が多々ありましたが、以上、見た範囲内でも、この夏のテレビ番組を通して、自分なりにあらためて戦争を見つめ直す作業が少なからず出来たと感じます。それらの全てに通ずる心は、「戦争の残酷さを伝えてゆかねばならない」ということだったとおもいます。 戦争の実体験を持つ人々が80歳代となり90歳代の方もおられます。他方で、戦争の実像を知らない人々が増える中、又戦争の時代に引き戻そうとする動きが強まっています。そこに、この夏、ここまでみてきたように良質な番組が多数組まれたということは、政策スタッフの努力に思いを馳せつつ、日本も結構しっかりしていると思わせました。ドラマ「霧の火」を担当した西牟田プロデューサが「真実をチャンと伝えるのが放送局の使命」といっていたそうですが、これからもそのような実践が日々続けられるよう祈念したいと思いました。 なお、最後に、本稿をまとめるにあたり、新聞等の番組表の他、主として人名、地名、表記など、事実確認のため、該当番組のホームページ、いくつかの番組に関する新聞紙上の紹介記事、感想文などを参照させていただいたことを記して、謝辞とさせていただきます。 |