満州のロシア人村

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はじめに

 満洲国には、様々なロシア人村が存在していました。哈爾浜、綏芬河などの都会にロシア人が居住していたことは有名です。多いときには満洲全体で3,40万人に上ったといいます。それらのなにがしかは、地方の町村に、主として農林業、狩猟などに従事して暮らしていました。そうした中から、主立った町村を紹介します。

そして、さらに、そのうち、ロマノフカ村に住んだロシア人たちがどこから来て、満洲国崩壊後、どのような道をたどったのかを跡づけてみました。

紹介にあたって参考にした文献は末尾近くに掲げました。また、「満州談話室」に集う方々からお寄せいただいた情報も、適宜、織り込ませていただきましたので、そのことについても末尾ながら触れさせていただきました。

 なお、これらの村のほとんどは、ロシア正教の一派である「古儀式派」に属する人びとが住む村でした。これは、参考にした資料が、主としてその宗派に関する研究紹介文献であるためかも知れません。とすれば、もっと多くのロシア人村があったと予想されます。その一端にも触れてみました。


1.満州ロシア人村

 まず、それらの町村の簡単な紹介です。地名につづく「・・・」の後は、当時の省名、その後の( )内は、現在名または現在所在地名です。おおよその場所を示すため、大小2枚の地図を掲げました。



 地図1 ロシア人村、11か村の概略の位置を示します。青色のバルーン
 がロシア人村の位置を表します。牡丹江市周辺は地図2をご覧下さい。



1.三河(サンホー)地方・・・興安北省(内蒙古自治区三河)
 この地方のロシア人の多くは、シベリアのバイカル湖方面から中東鉄道で満州に入り、チチハルの北、大興安嶺の西麓の三河地方に一旦住みついたのではないでしょうか。コサック村が有名で、1918年から30年までの間に18の小村ができ、その他に旧教徒の村として、ヴェルフ・クリー(容僧派)とウスチ・ユルホヴァヤのふたつがあったようです。やがて、多くの人たちが、満州各地に散ってゆきました。満州崩壊後に、一旦ここに居を構え、その後、国外に移住したロシア人もいました。

2.シリンヘ(細鱗河)村・・・三江省(黒竜江省牡丹江市海林市)
 牡丹江市から牡丹江に沿って下流(北)方向へ約80kmのところにあるその左岸(西側)支流のシリンヘ(細鱗河)、その河口部沿岸に形成された村です。その後、人々は、ロマノフカ村に移っていったようです。残念ながらこの村は、1994年以来、牡丹江をせき止めた大きなダム湖(蓮花水庫)の湖底に沈んでしまっています。このダムの上流(南)に約30キロ遡ると、「あの戦争から遠く離れて」(城戸久枝著)の頭道河子が、やはり左岸にあります。赤ん坊だった孫玉福が、対岸の江東屯から舟で渡る途中、牡丹江に投げ落とされる寸前で助けられ、辿り着いたのが頭道河子村でした。

3.ロマノフカ村(柳樹村)・・・牡丹江省(黒竜江省牡丹江市林口県柳樹村)
 牡丹江市の西方、横道河子南南西近郊の山中にありました。ロマノフカ村には、シリンヘ、ハルビン、ハイラル、黒河、三河地方、樺太などからロシア極東出身の古儀式派教徒が集まってきました。1940年末には戸数27、人口148人、1945年夏には40家族、200人に達するほどになっていたといいます。狩猟、農牧畜業を生業としていましたが、農牧畜業は、もっぱら自給自足のためであって、主たる収入は冬場の狩猟に依っていました。その他の日常経済は、横道河子に多くを負っていたといいます。近所に浜綏線の柳樹信号所がありました。なお、村の子どもたちは、横道河子にあったロシア人学校にあまり通わなかったという報告があるのですが、そのことは、この村以外にもロシア人がかなりの数、住んでいたことがうかがえます。

1940年から43年には、日本人の間に「ロマノフカ村ブーム」がおこり多くの日本人がここを訪れ、紹介の書物、写真集が多く出版され、映画も作られました。満洲開拓の理想的なモデルともされました。日本語を話せるロシア人(村長のカルーギンの夫人エレーナ)がいたことも日本人に親しみを抱かせたのでしょう。

ところでエレーナさんは、ロマノフカに来る前、北海道に住んでいたので、日本語に堪能だったのですが、その日本語は北海道なまりが強かったといいます。

北海道ということで、ちょっとだけ脱線しますが、函館の近く、銭亀沢村には、ロシア人旧教徒が住んでいたそうです。どうやら樺太経由で住み着いたらしいのですが、そこに住み着くにあたっては、ある日本人のサポートがあったようです。異郷で住み着くためには、そうしたサポートが必要だったのでしょう。後述の古儀式派のネットワークを頼ってでしょうが、やがてどこかに移動していったとのことです。

上記ロマノフカ村ブームの時期前後を中心に、文学作品にも当村が描かれました。特に、哈爾浜に住んだロシア人作家、ニコライ・バイコフ、ボリス・ユリスキーは、ロマノフカ村など当地方のロシア人住民をモデルに、勇敢な猟師、射撃手としてトラを狩る姿や、自然への敬意をいだく姿をしばしば描いています。バイコフの場合、「ざわめく密林」中の短編「ロマノフカ村」、「樹海」、「牝虎」、「満州の密林にて」、「偉大なる王」など、また、ユリスキーの場合は、「断崖」、「ミロン・シャハロフの最後」などに、当村またはその周辺が描かれています。なかにし礼の「赤い月」は、原作も映画化も近年のことでよく知られています。

4.大青川・・・三江省(黒竜江省伊春市大青川)
 満洲国が崩壊して後、かつてのロマノフカ村、シリンヘ村、コロンボ村等を捨てていた同宗派の再結集を図った村で、松花江の左岸、佳木斯市の西方、綏佳線の木曽駅と帯嶺駅の中間に位置していました。

5.メジャヌイ(密江)村・・・(牡丹江市海林市密江 山市種乳牛場五隊)
 ロマノフカ村の南西約8キロに位置していました。やはりロシア正教古儀式派教徒が住んでいました。

6.チョール部落・・・興安北省(内蒙古自治区扎蘭屯の西方)
 中東鉄道(浜洲線)扎蘭屯(ジャラントン)駅から西方に位置したコサックの移民村です。満洲国崩壊後、一時的にここに戻ってきた人々もいたようです。

7.チピグ(秋皮溝;マサロフカ村)村・・・三江省鶴立県秋皮溝(黒竜江省牡丹江市海林市)
 シリンヘ村の北北西20数キロの山中の盆地に位置する村で、現在では秋皮溝林場と呼ばれる林業中心の中規模の集落となっています。当時はロシア人家族数戸の森の中の小さな村落でした。最初は、日本人が開拓し、木材加工場がありました。その後、ロシア人が入植しました。彼らは、古儀式派教徒ではなかったようです。近藤林業のロシア人警備隊の人々が中心だったかも知れません。

8.コロンボ(庫倫別)村・・・(黒竜江省牡丹江市海林市)
 牡丹江駅のひとつ隣の紫河の駅から二道河子まで森林鉄道が走っていました。その二道河子から40分ほど歩いた牡丹江右岸(東岸)にこの村はありました。コロンボ村は全人口が75人の小部落でした。当時、何人かの日本人が訪れ書物などを通じて紹介しました。福田新生の「北満のロシア人村」では、当村をはじめ、満州のロシア人の様子を旅情豊かに描いています。

9.一面坡・・・(黒竜江省哈爾浜市尚志市一面坡)
 中東鉄道(浜綏線)沿線の哈爾浜と牡丹江のほぼ中間点に位置する街。かつてロシア人が多く住み農業、牧畜が盛んでした。ビール醸造は当時から名を馳せていました。現在は「雪花」ブランドで出荷しています。ロシア風建築が現存します。

10.ヤブリー(亜布力)・・・(黒竜江省哈爾浜市尚志市亜布力)
 ロシア系ポーランド人が経営していたヤブロニア(亜布路尼)の林場がありました。この駅や隣の石頭河子駅などから多くの木材運搬軌道が走っていました。現在、大規模なスキー・リゾートがあります。

11. 黒河・・・(黒竜江省黒河市)
 黒河に住んでいた古儀式派教徒は、やがてロマノフカ村に移っていったといいます。




 地図2 牡丹江周辺のみピックアップしました。


2.来し方行く末・・・ロマノフカ村の人々を中心に

牡丹江周辺のロシア人村の人々は、極東ウスリー川流域からやってきた人たちが中心でした。そもそも彼らは、17世紀中頃のロシア正教の改革の時代に、古来の儀礼を守ろうとして、改革派により異端の烙印を押され極東の地へ逃れてきた、それらの人々の子孫でした。その経緯から、彼らは古儀式派と呼ばれてきました。彼ら教徒は、その勤勉さと禁欲的態度から、農耕地開拓や商工業で成功を収めるものが多く、極東の地、後には満州においてもその特性を発揮しました。また、まわりに融け込むことを得手としない傾向もあったようです。

1920年代中頃から30年代、当時のソ連政府による反宗教弾圧や農業集団化に伴う富農弾圧に合い、そのかなりの人々が、主として30年代になって中国領内=満洲国に越境しました。この時代のソ連では、レーニン没(1924年)後、スターリンの強権的急進的政策が展開され、実情を無視した農業集団化や宗教弾圧が国内各地で吹き荒れていました。

弾圧などを逃れた古儀式派の人々が、哈爾浜や三河地方を経てやがてシリンヘ村に至り、さらにコロンボ村を経てロマノフカ村に落ち着きます。作家バイコフは、ロマノフカ村について書きます、「『土こそ飢えたる者を養い、裸の者に衣服を着せ、凍えた者を暖め、悩む者を慰めてくれるであろう!』/果たして彼らは誤らなかった。この地に於て、彼らは生活に必要なすべてを発見した。未開な、他国の国土であるこの地へ、彼らはロシアの生活、ロシア魂を持ってきた」と。

この村のパイオニアであったカルーギン家の四兄弟が、日本の特務機関からその地への入植許可を得たのは1936年6月でした。追って、14戸が住むようになりました。1945年には、上述の通り、40家族200人に上る人たちが住むようになりました。

ロマノフカ村は、三方を山に囲まれた平地に築かれ、家屋は小高い丘の上に建てられ、耕地は丘の裾を流れる小川を越えて南北に広がっていました。村の中央には礼拝堂があり、小川に沿っては、共同の水車小屋、共同浴場、洗濯場が置かれていました。

家々は、道を挟んで両側に並んでいて木柵に囲まれていました。家屋の後ろに少し離れて畜舎があり、その奥に菜園があったといいます。家は、丸太を組んで造られた「イズバ」というログハウスでした。外観は、貧相に見えたと記された報告もありますが、中は快適だったそうです。客間にはイコンが祀られ窓にはレースのカーテンが掛けられ窓にはゼラニウムなどが置かれていたといいます。しかし、厠が見当たらないと日本人訪問者が記しています。

訪問した日本人の眼には、そうした姿が、総体として文化的、西洋風、近代的などと写ったようでした。彼らは、満州国政府や関東軍から特に圧迫を受けることもなく、狩猟、農畜産業に勤しみ、古儀式派の流儀を守って宗教生活を送っていました。

しかし、1945年夏にソ連軍が侵入すると、彼らの運命は二手に分かれました。ひとつは、ソ連へ強制連行され、あとのひとつは、中国に残り、その多くはさらに後になってソ連への帰還か他国へ移住することになりました。

ソ連への強制連行は、日本人のシベリア抑留と同じ時期(1945年から46年にかけて)のことでした。ロマノフカ村では、全ての成年男子が、鉄道敷設工事に駆り出されそのまま戻ることはありませんでした。ロマノフカ村からは40人余りが連行され、また、その時の連行ロシア人の数は合計900人に上ったとされています。彼らは、ウラル地方へ連行されました。

その内の一人は、後に東シベリア、極東に至る長い道のりを経てオホーツク海北部のマガダンで釈放され、クラスノヤルスクにいるとき、ハバロフスク地方のベリョーゾヴィに古儀式派教徒による村落建設が始まったことを知り、そこに移住しました。

中国に残った人々は、しばらくロマノフカ村やコロンボ村に住み続けました。しかし、その後、中国人も住み着くようになり、それを避けて別の地方に移住しました。その後、1953年になって、大青川で、彼らの再結集を図るための宗教会議が開かれ、それを機に別の地方からもその地に住み着くようになります。それらと別に、嫩江の施設に一旦収容され、他に移った母子もあったようです。

その宗教会議が開かれた1953年3月のはじめにはスターリンが死去しました。そして、中ソの協定により、彼らのソ連への帰還が「許され」ます。ソ連への帰還を拒否する者には、ブラジルやオーストラリアへの再移住の道が示されました。多くの家族は、香港経由ブラジルへの道を選んだそうです。しかし、ブラジルでの生活は厳しく、後にオーストラリア、北米へと散って行ったそうです。オレゴン州には、数千人のロシア人が住んでいるといいます。さらにその一部は、アラスカ、カナダへ再移住しました。

カナダでは、たとえば、エドモントンのずっと北、北緯65度のあたりにロシア人旧教徒の村、ベレゾフカがあります。この村の名前は、ベリョーザ=白樺に由来します。ベレゾフカ村には、1973年から75年にかけて入植した旧教徒、19家族が住んでおり、そこに来る前の地は、ハルビン(含ロマノフカ)13、新彊ウィグル自治区3、トルコ2、不明1だそうです。

中国からソ連に戻ったある家族は、クラスノヤルスク地方を経てハバロフスク地方に適地を見つけ住み着きます。この地が、ロマノフカ村などに似て、狩猟、漁労ができる地だったことが魅力だったのかも知れません。この地に、上記のように、古儀式派教徒による村落建設が始まったのでした。1962年のことでした。

その後、新しい村の建設は、いろいろなルートで、ソ連各地在住の中国からの帰還者たち、外国居住者たちに知られるようになり、次第に多くの教徒が集まってきました。現在、古儀式派教徒は、当ヴェリョーゾヴィ地区のタヴリンカ、グショーフカの両村、そしてそれらから20キロほど離れたドゥーキ村に住んでいるとのことです。ここ、ヴェリョーゾヴィと言い、カナダのベレゾフカと言い、彼らは「白樺」にかなりの思い入れでもあるのでしょうか。

村が建設された当時は、強制収容所跡があるだけだったそうですが、その後、1970年代にバイカル・アムール鉄道(バム鉄道)が開通し、その地区にポスティシェヴォ駅ができました。地図3に、ハバロフスクからポスティシェヴォ駅への鉄道ルートを示しました。ハバロフスカからのシベリア鉄道ルートも入れておきました。満州ロシア人村との位置関係もご覧頂けます。



 地図3 満州ロシア人村とヴェリョーゾヴィ地区(緑色のバルーン)。
薄青色の線は、ハバロフスク(右下角)からポスティシェヴォ駅までの
バム鉄道のルート、あわせてハバロフスクから左上に向けてシベリア
鉄道のルートを示します。

ヴェリョーゾヴィ地区では、ソ連時代とその後のロシア社会の変化を受けて生活習慣や人々のものの考え方などが変化しているようですが、この地方の古儀式派の人々は、子どもに至るまで比較的よく信仰を保っているとのことです。


参考文献

 伊賀上菜穂(2009)「日本人とロマノフカ村−日本側資料に現れる旧満州ロシア人古儀式派教徒の表象−」、セーヴェル、第25号、55-77.

 今尾恵介・原武史(2009)「日本鉄道旅行地図帳、歴史編成、満州樺太」、新潮「旅」ムック、新潮社.

 城戸久枝(2007)「あの戦争から遠く離れて−私につながる歴史をたどる旅」、情報センター出版局.

 阪本秀昭・伊賀上菜穂(2007)「旧『満州』ロシア人村の人々−ロマノフカ村の古儀式派教徒−」、東洋書店.

 阪本秀昭(2009)「横道河子、ロマノフカ村再訪記」、セーヴェル、第25号、174-182.

 阪本秀昭(2009)「旧満州シリンヘ村における正教古儀式派宗教会議について」、天理大学学報、第220輯、1-17.

 中村喜和(1997)「聖なるロシアの流浪」、平凡社

 中村喜和(2003)「増補 聖なるロシアを求めて―旧教徒のユートピア伝説 (平凡社ライブラリー) 」、平凡社

 中村喜和(2006)「ロシアの木霊」、風行社

 バイコフ、H.A.(1981)「ざわめく密林」、新妻二郎(訳)、藤原英司ら(編)「世界動物文学全集、28、講談社.

 福田新生(1942)「北満のロシア人部落」、多摩書房

 大日本帝国陸地測量部(1939)「満洲国輿地図」、100万分の1、満州地図シリーズ7、謙光社資料部複製


謝辞
インターネットの「満州談話室」を通じ、いろいろなことを教えていただきました。照爺さんには、このテーマの先鞭を付けていただき、文献の紹介を受けました。Lucyさん、団長さんからは、亜布力周辺の現状をお知らせいただきました。ノロさんから文学作品などについて紹介いただきました。その他、多くの方からご教示を頂きました。記して、感謝申し上げます。
(2010/12/11、開始;12/20現在)                    

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