徳富蘆花・愛子夫妻と私
私が徳富蘆花に初めて接したのは、ある夏休み、多分、高校へ入って最初の夏休みに、父の実家で円本の「徳富蘆花集」のなかの「思出の記」を読んだときでした。出だしの故郷の描写に魅入られてしまい、引き続いて先に先にと待ちこがれるように読み終えたことを昨日のことのごとく記憶しております。この本をとおして、私は、日本の自然の美しさ、尊さと、人生において己の道は己で切り開いて行くものだ、という独立独歩の精神とを学び取ったように思います。 その後、大学時代には、蘆花の紀行文を読むことがけっこうあり、その頃には札幌に住んでいたことから、函館の郊外の大沼公園に夫妻で遊んだとき、駒ヶ岳が美しく見えたこと、十勝の山奥、陸別に関寛斎翁を訪ねたときの話などは印象に強く残りました。後にそれらの地を訪れたときには、蘆花を思い出したものでした。大学を出てから、私は農業研究の道に進むことになりましたので、自然現象と向き合うような機会が多く、そんなことから「自然と人生」「みみずのたはこと」などをしばしばひもときました。私にとっての蘆花は、自然派としての側面が圧倒的に強く印象に残っているのです。とはいえ、「青山白雲」「青盧集」などは手ごろな本がないために未読です。ましてや、「不如帰」「黒い眼と茶色の目」「寄生木」「富士」「日本から日本へ」「死の蔭に」「日記」などは、拾い読み以上には読んでいないのです。 ですから、蘆花を知っているとはとてもとてもいえないのですが、ひかれるところがとても多い作家なのです。蘆花の評伝は、機会があると読んできました。中野好夫「蘆花徳冨健次郎」、前田河廣一郎「蘆花傳」、阿部軍治「徳富蘆花とトルストイ」などです。 熊本では、レンタカーを借りて、市内大江の水路に沿った記念園と旧居に寄り、蘇峰・蘆花兄弟の幼時を想い、「恐ろしき一夜」に書かれている神風連の乱を想像したりもしてきました。熊本市郊外の沼山津の横井小楠記念館、阿蘇山に近い益城町の杉堂では矢島家と蘇峰記念館など、ゆかりの地をめぐってきました。そして、何よりも感動だったのは、熊本の北東に拡がる菊池盆地で隈府の地を訪れたことでした。ここは、愛子の生まれ故郷で、あの「思出の記」冒頭に記されているのは、愛子の脳裏に焼き付いていたこの地の姿と、ものの本で読んでいたからです。菊池公園には、その部分を刻んだ碑が建っていました。公園から見下ろす盆地の豊かな田園の風景、田圃を巡る農業用水の豊かな水量、豊かに緑をたたえた広大な水田、公園の対岸から眺めた隈府の街並み、東にそびえる高鞍山、いや鞍岳の美しい姿、その麓を流れる川の水の清らかさ・・・。「思出の記」を彷彿とさせるものばかりでした。私は、日本の「故郷」の原風景をここと蘆花のその記述に発見したような気がしました。 そのほかにも、東京京王線沿線の蘆花恒春園では、美的百姓をはじめ、ここでの愛子ともどもの生活と著作の日々を偲びました。「みみずのたはこと」が、ここで書かれたのか、と思うと、現在は人家に囲まれていることとのギャップが大きくて不思議な気がしました。神奈川は藤沢鵠沼に、愼太郎が敏子との愛を確かめた場所を訪ねてみたかったのですが、あまりに変貌著しく叶いませんでした。群馬県の伊香保千明仁泉亭には泊めてもらいました。ここは、蘆花終焉の地です。 私は、蘆花の写真をめぐる変な経験を持っております。しゃくな話なのですが、私がアエラ・ムックの「農学がわかる」という本に、昔の農業は養分を循環させて使っていたのだということを、「みみずのたはこと」の記述をお借りして書いたことがあったのです。その記事中に蘆花の写真を入れたいということなので、賛成だと伝えて良いものを選んでください、と編集部にお願いしました。印刷された写真を見て、私はがっかりしてしまいました。その写真は、どうやら蘆花が愛子を伴って世界旅行をしてベルリンで撮った写真だったのですが、その時、蘆花は多分、すっかり疲れていたのではないでしょうか。今にも死にそうな情けない姿なのです。もう少ししゃきっとした写真を使ってくれれば良かったものを、と思ったのですが、こと既に遅し、でした。 愛子に関しては、評伝などでおおまかな姿は得ていたのですが、その姿を詳しく知ることが出来たのは、熊本日日新聞情報文化センター発行の「蘆花と愛子の菊池」でした。これを、私は、熊本を訪れたときに、偶々、熊本駅の本屋さんの郷土本コーナーで見つけたのでした。これは買わないわけにはいかないとばかりに買って帰ってきて、ホテルで早速読み始めました。この本は、愛子のエッセイや短歌などを中心に、蘆花の文章をも引いて愛子の姿をかなりリアルに伝えてくれました。良くできた賢婦人だったのだな、と思ったものでした。 そして、最近、本田節子著「蘆花の妻、愛子」(藤原書店)で、よりいっそう深く知ることが出来ました。蘆花の著作、人生は、愛子抜きには考えられないというか、愛子あればこその蘆花であったのだろう、と読みとりました。気むずかし屋で癇癪持ち、嫉妬深くて寂しがり屋の蘆花に愛子は随分つらい思いもしたようですが、愛子は蘆花にとってまことにかけがえのない人でした。つまらないことかもしれませんが、この本の表紙に写っている写真の愛子の視線がどこに向けられているのか、左目を見ていて、ふと「阿修羅のごとき夫なれど」というこの本の副題を読んでいるように思えました。 まだまだ蘆花・愛子夫妻とは付き合ってゆくことになりそうです。 |