ばーば、ぐらんま、グランパの3人組は2006年2月22日昼前にこの飛行機で松山に向けて出発。帰りは24日の夜でした。

写真は、ローラ&Tomoによる。






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飛行機は富士山を左に見ながら飛んだ。雪が左側、御殿場方向に低くまで伸びている。これは、相模湾や駿河湾から谷沿いに運ばれた湿った空気が、乾いて冷たい西風が富士山頂にあたって吹き降りてくるのにぶつかって雪を降らすから、ということらしい。
飛行機は西へ西へと飛ぶ。南アルプスに入ると左側に井川ダムと井川湖が光って見えた。大井川の上流、行政的には静岡市。
瀬戸内海に入ると小豆島も見えた。左側の山が寒霞渓で、その先にうっすらと伸びている半島の中程に、また小さな半島があるのだがそこまではこの写真では見えない。が、そこに、二十四の瞳の岬の小学校がある。
飛行機は徐々に高度を下げ松山空港に向かう。この島は、多分、興居島。それが正しいなら、なだらかなスロープを見せる山は小富士というらしい。向こう奥に半島のように見えるのは、半島でなく四国本土である。松山は曇りである。
松山に着くとレンタカーでまずは、宿に向かった。荷物を預け身軽になって街へ繰り出そうという算段。宿は、KKR道後ゆづき。近所に湯築(ゆづき)城があった。共済組合の宿は、OBも会員価格で泊めてもらえる。
道後温泉駅に坊ちゃん列車が停まっていた。良いタイミングだとこれが走っていて乗ることもできるのだが、われわれはタイミングが悪く乗ることあたわず。歩行中の女性の右手に傘。ごく小雨がたまにある程度。
松山城まではロープウェイとリフトが並行して走っている。われわれはロープウェイを使った。ロープウェイの駅は工事中だった。この山は勝山といい標高は132mとのこと。
まず、宮本常一のお父さんのお薦めに従って高いところに登って松山の街を眺めようとしたのである。しかし、この時間帯はあいにく時々小雨交じりであまり見通しが良くない。でも近くはよく見えて、公園、連隊蹟らしきところなどが見えた。
松山城は1602年に賤ヶ岳七本槍で有名な加藤嘉明により築城された。そしてここを松山と命名した。1627年頃に完成したらしい。城は、復元など進んでいて当時の面影がしのばれる。
天守閣は工事中だった。でも中には入ってみることができ、わらわれも見物してきた。
城内では、あちこちに梅の花が咲き始めていた。
城からロープウェイで下ってから数分歩いて愚陀佛庵に行った。それは、この愛媛県美術館分館の裏の丘の中腹にあった。この建物は、1922年、旧松山藩主の久松伯爵の別邸として建てられた。木子七郎設計によるフランス風建築。
愚陀佛庵の説明書き。漱石は明治28年に松山に来て、その6月、上野さんの離れに居を構え、それを愚陀佛庵と呼んだ。日清戦争から帰国した子規と50余日をここで過ごし、句会を催したり、仲間と議論をたたかわせたりした。
愚陀佛庵の外観。漱石がもっぱら二階を使い、子規が階下で多くの門人などとおしゃべりをした。ここをあとにした子規は、三津浜港から東京に帰った。
愚陀佛庵にはおばさんたちも来て井戸端会議などをやった。お茶席にも使われている。
松山の街では市街電車が走っている。われわれも一日乗り放題切符を買って何回も利用した。
この日の帰りもこの電車に乗り、道後温泉の手前で下り、数分歩いてホテルへ帰った。
KKR道後ゆづきの夕飯メニューの一部
第2日は、道後公園(湯築城蹟)を歩いて抜け、子規博物館から見物を開始。
子規博物館は、昔行ったときとは大変わりに新装なって迎えてくれた。ここで買ったブックカバーを季寄せに掛けて使っている。その後、句心が湧くことが多くて、すっかり俳句付いてしまった。腕はなかなか上がらないが。
道後温泉の建物を写真に撮るため再訪した。実は、温泉には夕べのうちにゆっくり入ったのである。子規博物館を観た後で、裏側から歩いて近づいた。
道後温泉正面玄関に掲げられた看板。
道後温泉表玄関を斜めに見る。これを正面から見た写真は普通によく見ることができるので、斜めからのものを掲げた。
道後温泉を経験した後、高速道で宇和島方面に向い、半時くらいで内子町に到着。内子の案内図
内子でも、まず宿に向かい荷物を預かってもらった。「町屋別荘こころ」、これが今夜の宿の名前でした。ここは、一日一組しか泊めてもらえない。
内子の町並み保存は有名だが、その運動は昭和47年から始まった。50年代から本格的になったらしい。長い間の皆さんの努力で今の姿がある、ということをよく考えてみたい。
内子町の目抜き通りの道しるべ。この脇は伊予銀行の建物
内子町の高橋邸は、アサヒビールの元会長高橋吉隆さんの家だった。高橋家は400年の歴史をもち、大洲藩の財政を支えたという。これは高橋さんちの正門。説明はボランティアのおばさんが担当している。
「文化交流ヴィラ高橋邸」は、遠来の人と時を談じ、文化を語った人高橋吉衡翁の遺訓を踏まえ、訪ねた人が宿泊することができる。大きな家だ。
高橋さんちの離れ屋敷の玄関を前にして。左の開けはなった窓から正門の屋根を見下ろした写真を撮った。
高橋さんの離れ屋敷のお部屋から外を見る。昔からの日本風な作りで、懐かしさをおぼえる。宿泊客はこの部屋などを使う。この日は、先客があってわれわれは泊まれなかった。
高橋さんちの庭を望む。すぐ下に正門の屋根が見える。
高橋さんちの玄関前には梅が見頃だった。もうひとつの梅の写真は、この写真の右側から屋根を見上げたアングルで撮ったもの。
高橋さんちの手水場も趣があり立派。
南天の実は数も多いし、ひとつの実もまるまるして立派。拝見したあと、アサヒビールの会長さんという地位あるいは過去の歴史を考えれば質素な家だという気がした。
高橋さんちの次は街並み保存地区に向かった。
最初に、木蝋屋さんが目に入った。木蝋は内子の名産。このロウソク屋さんでロウソクとロウソク立てを買った。女学生さんが、おかみさんから木蝋、和蝋燭について説明を受けていた。
木蝋の説明書き。木蝋は、櫨の実を蒸して圧搾し絞り出された飴のこと。木蝋作りは、江戸時代から行われ、本芳我家は、白蝋を作る技術を確立した。
内子の町並み保存地区には、このような昔ながらの建物、町並みが復元されたりして並んでいる。なつかしい雰囲気が漂う。漆喰の壁が重々しい。
鏝絵なるものを売り物にしている店があった。鏝絵とは、漆喰による浮彫のこと。土蔵造りや大壁造りの装飾用として外壁にしばしば使われるとのこと。
下芳我(しもはが)さんちの庭に、どうぞお入り下さい、と張り紙がしてあったので見せていただいた。縁側のガラス障子など、今は珍しくなった。昔のガラスなのか、中がゆらゆら揺れて見える部分があった。
保存地区のお店
ふくろうをこう書くとは思わなかった。
八日市護国町並保存センターの入り口の看板この中で、中学生が土壁のでき方などを勉強していた。街並み保存の資料なども置いてあった。
これは床屋さん。おなじみの白赤青のくるくる看板が下がっている。
この家はうだつが上がっている。わが家には上がっていない。
海鼠壁も、この地区の特徴。鬼瓦は、建物の大棟または降り棟の端に用いられる瓦。鳥衾は鬼瓦などの上にあって、前方に突き出ている円筒状の瓦で、内子の帆掛の瓦も鳥衾の一種。この家の天辺についているのがそれ。
内子町では伝統的建造物だけでなく、伝統的穀類も作っている人がいて、(きび)の穂が乾燥されていた。
こんな土壁の家も残されている。昔は、うちの本家の納屋などにはこれがあったのだが、いつの時代にか取り壊されその後は近代的な壁に変わってしまった。
窓の下の羽目のように見えるのは、床几(しょうぎ)といい、下ろすと濡れ縁になる。バッタリ、揚縁とも呼ばれ、店売り、しもた屋では涼み用等に使われ、使わない時は吊り上げておく。
えひめの伝統的特産品棕櫚細工処と看板に書いてある。
個人的な話になるが、丸子の宿の「細工所」というところに住んだことがある。そこを思い出す。
格子戸/窓がなつかしい。入り口の右手に見えるのは郵便受けかな。
伝統的建築なのだろう。この辺り、緩やかだけれど坂の町である。浅黄色と白などの漆喰で塗りごめられた重厚な外壁も内子の保存地区特有のデザインである。
格子戸/窓と郵便受け。隣の2枚のシールは何だろう。
雨水を防火用水か打ち水用かに蓄えることは昔は良く行われた。
醤油屋さんが、酢卵なるものを考え出したらしい。町おこしには、地元のお宝を探し出して上手に付加価値をつけて産業にして成功すると嬉しいのだが、これは成功しているのだろうか。
お医者さんの小川さんも伝統的建造物を再建したような医院を建てた。
下芳我(しもはが)屋レストランもこの街の特徴を出した作りを踏んでいる。
内子町八日市護国伝統的建造物群保存地区の説明書き。昭和57年4月選定と見える。
内子座の正面。幟がはためいていた。大正5年2月(1916)創建。木造2階建て瓦葺き入母屋造り。ホールとして活用後、老朽化のために取り壊されるところ、町民の熱意で復元。昭和60年10月、劇場として再出発。現在では年間7万余人が見学し、1万6000余人が劇場活用。約650人で劇場は一杯となる。新劇、人形劇もやるとのこと。
内子座の由来。
内子座は普段は、観光用にも解放している。おばさんが切符を売っていた。300円也
内子座の舞台。渋く美しい背景絵が照明され下げられていた。
客席の一部。風情がある。あるときは、歌舞伎、人形芝居、あるときは落語、映画等、が演じられたという。
2階席から診た1階席とステージ。専門家らしい人たちが見学に来ていて説明を受けていた。
奈落の底などにも入ってみた。
五十崎凧博物館。古今東西の凧、新作凧などを展示している。凧づくり教室もあるらしい。入り口に大きな「狛犬さん」が二匹坐っていた。
凧の博物館の脇には、多分、肱川の支流の小田川と思われる川が流れている。
あの狛犬さんは、凧大獅子というらしい。
この凧、右と左で何を主張しているのだろう。青と赤は?蝶々は?一匹と二匹は?
鍾馗さんと若武者の凧
だるまさんの凧。唇から紐が伸びている?
元気小僧の凧。元気な子でないとあげられない?
奴凧?アイヌ凧?
伝統的な絵柄とともにモダンな模様の凧も
凧の博物館には、ありとあらゆると思われるほど沢山の種類の凧が飾られていた。
出眼金の凧など、泳いでいるところを見てみたいものだ。
これも凧。どんな風に空を飛ぶのだろう。連凧か?飾り凧ではないだろうな。
車で小半時移動して、大江健三郎の生まれた旧大瀬村へ。内子町の一部。看板に「京ひな」と見える。小綺麗な街並みが好もしい。
旧大瀬村の役場の建物。今は、資料館と宿泊施設になっている。1階にはギャラリーとノーベル文学賞を受賞した大江健三郎の作品を展示している。夕方ですでに閉まっていたので外観を眺めたのみだった。大瀬の館と呼んでいる。
大瀬の館の前の通りに新聞社の看板が出ていた。どんな記者さんが駐在しているのだろうか、それとも非常勤とか。
大瀬から戻って車を駐車させた前にあったお店。呉服屋さんだったか。町屋別荘こころの本家か何か、親戚。右のショーウインドウにはおひな様が
内子では「こころ」が夕飯を提供しないので、お薦めのレストランのひとつ居酒屋「りんすけ」に行って夕食。これは鯛どんぶり。
「こころ」の宿は、夜になるとこの露地を入って中に入る。小さなランプが壁に掛かっている。
「こころ」で朝起きてみると二階の窓から山の連なりが見えた。小さな谷間の町である。
泊まった部屋は二階にあって、縁側に小さな椅子とテーブルがあり、そこから梅の咲く小さな中庭が見下ろせる。すぐ前の離れ風の建物には風呂がある。
二階の客室のあちこちに大小の生け花がこんな感じで置かれている。右の戸はトイレの入り口。
この部屋などに泊まった。ふくろうの親子。右側の本棚には、おもしろそうな本が沢山並んでいたが読む暇はなかった。
泊まった宿に飾ってあったひな人形。
「こころ」の本家(?)のショーウィンドウのおひな様。撮している人がガラスに映っている。
こんな道しるべが内子の町の所々にあった。
第3日目は、高速道路を松山あたりまで戻り、砥部町で七折梅林に行ったが早すぎてほとんど見られず、町に出て砥部焼なぞ求めた。そして、松山に戻りながら、遍路路をちょっとだけたどってみた。まず、四国霊場四十八番札所西林寺の入り口で記念撮影。
西林寺の由来書き。天平13年(741)に行基が開基。
西林寺の庭で泳ぐ鯉
西林寺にも紅梅が咲いていた。
四国霊場第五十一番札所石手寺。神亀5年(728)、伊予太守越智玉澄が鎮護国家の道場として安養寺(あんようじ)と名付けたのが石手寺の始まり。石手寺と呼ばれるようになったのは、寛平4年(892)から。
本堂、仁王門、三重の塔、鐘楼など国宝や重要文化財に指定されているものも多く、境内には常に香煙が絶えないといわれるほど信仰を集めている。
石手寺にはこんな廊下をくぐってお参りする。
石手寺の天女像は入り口近くに建つ。
石手寺には猫がけっこう居た。
石手寺の参道にはいろいろなお堂があって、その庭に山頭火の俳句が供えられていた。
石手寺は、平和祈願もしているようであった。向かって左の白い看板に「不殺生平和の祈り。平和とは人の痛みがわかること。妄想の戦争から痛みが広がっています。自衛隊の派遣は止めさせましょう」と書いてあった。
石手寺の三重の塔はなかなか立派であった。

第3日目のコース選定には、ネット仲間のけんさんのお力添えを頂いた。末尾ながら、どうもありがとうございました。

この後、松山空港に向かった。
松山からの飛行機では、地上から見えなかった石鎚山が見えた。飛行機は順調に飛んで夜にはそれぞれ無事に自宅にたどり着いた。おつかれさま

ご覧頂きありがとうございました



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