公開シンポジウム
「"満洲"とは何であったのか」報告

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本シンポジウムに一般聴衆として参加した立場からの概要報告です。

固有名詞、数字、物事同士の関連など、間違いがある可能性があります。間違いにお気づきの時はお知らせいただくと助かりますとともに、文責は私にあります。先生方の敬称は省略させていただきます。

プログラム

 日  時  2007年1月31日(水曜日)午後1時から5時
 場  所  早稲田大学国際会議場 三階 第一会議室(西早稲田キャンパス 井深大記念ホール) 

 第一部  基調講演 「満洲とは何であったのか」 小林英夫(早稲田大学教授)
 第二部  パネル・ディスカッション
   司  会  青木 保(早稲田大学教授)  
   パネラー 原田勝正(和光大学名誉教授) 
              鉄道から見た満洲と日本
          和田春樹(東京大学名誉教授) 
              満洲における領土の獲得と国づくりの数次の試み
          木畑和子(成城大学教授)   
              「満洲」とドイツ
          剣持久木(静岡県立大学助教授)  
              ヴィシー体制と満州国
          小林英夫(早稲田大学教授)  
              <基調講演による>
 
 主  催  早稲田大学アジア太平洋センター
 共  催  株式会社 藤原書店

内容概要

T.全体の内容要約


主催者は、100名の予想で準備したのですが、実際には160名の参加を得て、ロビーにまで椅子が並べられました。90何歳の方、山口県からの方などの参加もありました。

小林英夫先生の基調講演の後、青木保先生の司会で、4名のパネラーからの発表があり、さらに聴衆の発言も含めて討論が行われました。その結果を、私なりにまとめると以下のようになります:

国策のありようとしての満州、という切り口の検討が行われました。まず、結論風の言い方をすれば、実験国家としての満州、という特徴ゆえに、今に生かされるべきことが多い、ということができましょう。

関東軍と満鉄が満州支配の中心にありましたが、主に満鉄に関するところで考えてみます。満鉄は、初代総裁後藤新平らの実証的経営方針により運営が始められ、満鉄調査部にその特質が現れ、その分析力は経営に役立ちました。1910〜20年代を経て、大豆、石炭、軍事輸送などで大変儲かるようになりました。これが、20万人余の満鉄関係日本人を中心に豊かな暮らしなどをもたらしました。しかし、調査部の分析力も、戦争遂行には生かされず、例えば、終戦間近なソ連軍のシベリアへの大移動などは、よく分かっていたのに軍はそれを使いませんでした。また、日本は、他民族と付き合うことにおいて極めて下手でありました。

満州から戦後史を見てみますと、例えば、満鉄の技術は東海道新幹線に受け継がれておりますし、戦後の高度成長は、満鉄経営に見られた実証的経営の精神の再現という特徴が見られます。

満州について、さらなる多様な総括をしつつ、このように現在あるいは将来に生かすことを考えると、いくつかのことが見えてきます。現在、東北アジア共同体という構想が出されていますが、それを上手く進めるために、日本の他民族との付き合い方の反省の上に、北朝鮮やアメリカをも含めたそれら国々との付き合い方が見えて来るはずであります。

いままで、満州は総体として見つめられずに来て、ポジティブな面など放置されてきました。これからも、ノスタルジーを超えて満州をいろいろな切り口から見つめてゆきたいと考えます。

U.講演内容概要

1.基調講演
 「満洲とは何であったのか」 小林英夫(早稲田大学教授)

この地、満洲では、19-20世紀にかけて現地人による開拓が行われていました。戦前、人口にして4000万、面積は日本の約3倍。この地のことは、近代史の中で不可欠なこととなるわけです。当時、パスポートなしで行けるところとして、朝鮮、台湾、関東州と満鉄付属地がありました。

満洲では、満鉄(南満州鉄道)が動脈の役割を果たしていました。初代総裁後藤新平、2代中村是公(夏目漱石の友人でした)とか、学者ブレーンとしては京都大学岡松参太郎教授などが満鉄の骨格を作り上げ、1910、20年代に「儲かる会社」に仕立て上げました。大豆、石炭などの輸送が大変賑わったのです。

満鉄では、社員が2万人、家族が4万余人、それに関連産業に従事する人などを加えると20万人にのぼったでしょうか。満洲に住む日本人の40%を占めていました。

当時、満洲にとって重要な史実としてはロシア革命と、中国の辛亥革命があります。20年代、これらにどう対応するか、ナショナリズムの動きが重要な要素でした。この時期、日本から満洲への移住は毎年数万以上にのぼりましたが、中国人の開拓民としての移住は、毎年1000万に及び3千万を数えるまでになりました。

20年代後半、対中国政策において、西欧は妥協路線をとります。日本は対決路線でした。この点、はっきりしていまして、関東軍、満鉄はそれぞれの持ち場で、国策を演ずるアクターとして満洲の地に来ていたわけです。

満州国ができると、首都を、歴史のありすぎる瀋陽、この地にとって日本で言えば京都、奈良に相当する吉林、南過ぎ日本要素の多すぎる大連ではなく、原野の長春に定め、新京としました。できあがった満州国の組織形態は、国務院とその中の総務庁を中心に機能を果たしており、立法院は終に作られなかったし監察院も機能を果たせませんでした。それを、関東軍が実質的に動かすという姿が実態でした。

30年代以降、関東軍王国という特徴が強くなり、国策が見えやすい状況になってきます。五族協和といいましたが、そうなっていない。外国で満州国を承認した国も少なく、日、独、伊と中国内の親日地方政府、それになぜかエルサルバドルなど少数の承認に止まりました。ソ連は、満州国の領事館をチタ他1個所に置きながら未承認でした。

満洲国後の満鉄は、ミニ国家の形相を呈しました。大連に本社がありましたが、本社機能が首都新京に移り、社員は夜行列車で新京に出張し、夜行列車で大連に帰りそのまま出社するという勤務がしばしばでした。満鉄は、その資産、人材故に満洲国に吸収されてゆきました。人的には、文化の基盤を支えました。その文化は日本文化でした。甘粕理事長率いる満映も同様でした。33〜37年にかけて満鉄の改組が行われます。鉄道と調査部を残し満州国へ移すというものでした。調査部は、後藤新平の実証的経営を目指すという理念に沿って作られていましたが、10年代、是公が去ると退潮していました。が、この改組を経て後藤の精神が甦ったように最盛期を迎えることになります。

国策調査が旺盛に行われます。抗戦力調査、インフレ調査などは有名です。しかし、調査部事件で44人が逮捕されます。これが、企画院事件、ゾルゲ事件などとの結節点になります。それはさておき、この時期、岡崎正義の活躍が光ります。岸信介、椎名悦三郎(後藤の甥)などの活躍もあり、産業開発5か年計画が作られます。スターリンの5か年計画の影響がありました。

他方、国家がこの時代に臨むにあたって、そのような調査力などと違うところで、各論あり総論なしのやり方で41年12月に突入していきます。

満州国には、一応、合理的機構があったとしても、結局、不合理のなかへ突入してゆきました。それも、中国東北は国共内戦(それは、結局、東北で決着がついたのですが)の激戦地でした。

戦後、技術者の留用が行われましたが、これは中国の戦後復興に役に立ちました。彼らは、遅れて復員してきます。

満洲の地は、近年の東北の経済成長、ロシアのエネルギー政策の極東重視などもあって、ますます重要になっています。そんなわけで、今日のシンポジウムでは、国策の有りようとしての満洲を考えてみようと思います。

2.パネル・ディスカッション 

2−1 自己紹介
:所属は、プログラム参照

 
青木:司会です。文化人類学をやってます。
 
原田:鉄道について研究してます。91年初めて瀋陽を訪問して、瀋陽の駅で東京にあるのと同じ跨線橋を見たときに本当にびっくりしました。
 
和田:ロシア、朝鮮が専門です。満洲において、侵略下における実験、ここからくみ取るべきことがあると思います。
 
木畑:ユダヤ人亡命史が専門です。満州経由の亡命に関心有ります。ドイツの600万人ホロコーストは1941年以降のことで、それ以前は出国させるのが方針。38年3月の樋口喜一郎の「2万人のユダヤ人満洲通過」は疑問。
 
剣持:仏現代史が専門です。ヴィシー政府との比較をしてみます。
 
小林:日本的経営の原型が満洲にあることに注目したい。当時、宮崎正義などが取り組んだ官僚中心の経済政策が日本の高度成長に引き継がれている、など。

2−2 パネラーの提起 

青木:
鉄道が敷かれると文化も拓かれます。満洲では・・・?

(1)原田勝正(和光大学名誉教授) 「鉄道から見た満洲と日本」

日露戦争後の日本の東北アジア支配と鉄道:
日露戦争の結果、日本は、東清鉄道南部支線を取得し南満州鉄道を設立します(1906年)。軍事輸送の強い要請に基づく、鉄道による支配の進行でした。軌間(レール幅)は1435mmに統一されました。これは朝鮮も同じでした(日本は1067mm)。

軍事輸送体制の成立:鴨緑江の鉄橋が完成し、これにより、釜山から北満洲までの直通運行が始まります(08.5.30)。安奉線は11年。30年代に北部、東部の建設が進みます(→阿彌山→黒河→虎頭→東寧)。関東軍の要請により対ソ戦のための戦略鉄道となって行きます。40年代前半、太平洋戦争の戦局悪化に伴い、日本本国と中国占領地区との輸送が海上から陸上に移され、安奉、奉山の両線の幹線としての役割が大きくなりました。

貨物輸送の比重が大きい:満鉄の輸送は貨主客従でした。日本への農産物とその加工品、石炭などが重点的に輸送され、植民地鉄道の色合いでした。貨物が1907年に60%を越え、27年には85.3%までになりました。旅客収入(兵員を含む)は日中戦争開始時に20%台であったものが、その後、急激に増加し44年には43%までになりました(このことの意味は?)。

日本と朝鮮、満洲をつなぐ計画:東京-下関間弾丸列車計画が39年に計画され40年に決定されました。軌間1435mm、計画速度120〜200km/hr、所要時間9時間50分、関釜航路を介して東京-新京間約35時間、55年度完成、5.5億円という計画でした。41年に部分着工し43年度末で中止されました。他方、朝鮮海峡トンネル計画が、39年頃から具体化し、博多付近の今宿・周船寺〜壱岐〜対馬〜巨済島〜馬山を結ぶ約240kmを4〜5のトンネルで結ぶとされました。工期は約19〜20年。45年度着工を目指して準備が始められ、おそらく43年度末で中止されたと思われます。工期の末尾は1964年、東海道新幹線の開通した年でした。

(2)和田春樹(東京大学名誉教授) 「満洲における領土の獲得と国づくりの数次の試み」

(和田先生の講演は、あまりに引き込まれてしまい、メモが良くとれなかったので、不正確なところが多いのでご注意下さい。満洲におけるロシアの失敗と満鉄調査部の卓見の一例を読み取っていただけば無難なところと思います)

ロシアの鉄道ということでは、1891年、ウィッテによりシベリア鉄道が作られます。他方、1893年には極東よりチベット、モンゴルを重視した鉄道の計画も出され、蘭州への路線が検討されます。日清戦争、三国干渉などあり、中東鉄道の計画がすすみ、哈爾浜へ伸びてゆきます。

満洲国以前:1898年に遼東半島の租借がなり、大連を獲得します。大連と哈爾浜をつなぐ王国を目指すわけですが、飛び地であり不安定でした。大蔵省の下で莫大な金をつぎ込み開発を試みますが、資源などを活用する力がなくいっこうに利益が上がりません。ベソブラーゾフという人がいて、開発会社と極東太守制を作ります。モスクワには軍、経済財政までを束ねた極東委員会があり、皇帝も関与して一括支配体制を目指しますがうまくいきません。他方、クロポトキンは、現地で旅順を放棄して北部を併合しようと考えます。しかし、何れも失敗し、主導権は日本に移るわけです。

満洲国時代には、満鉄調査部の卓見は素晴らしいものでした。宮崎正義の「5か年計画」は、ロシア、ソ連の経験をくみ取って考え出されたものでした。しかし、そのおかげで、後にソ連に送還された兵士の多くが、日本のスパイということで処刑されることにもなりました。

(3)木畑和子(成城大学教授) 「『満洲』(および日本)とドイツ」・・・ナチスドイツの極東政策 

両大戦間の日独関係は、足並みが揃ってなどいません。相次いで国連脱退をしますが、それは、「それぞれの」結果です。独の対日スタンスは「反日」でした。リットン報告を支持します。親中派が強く、互いに競争者でした(第1次大戦では互いに敵でした)。兵器の中国輸出量は60%、日本へは1%です。しかし、ヒトラーは、いわゆる黄禍論でした。シンガポール陥落に際しては「黄色人種を撃退するために、できればイギリス人に20個師団を派遣したい」と言っています。ヒトラーは反共主義が強かったです。かくして、満洲国の承認までに7年を要しました。

1936年、
日本への接近を図るようになりました。4月に満洲大豆輸入などをねらった独満貿易協定ができます。11月の日独防共協定を結びつつ、対中国政策は継続されます。まだ、親中国派が強いのです。38年2月に親中国派が失脚し、中国より軍事顧問団を引揚げます。39年、第2次大戦開始、40年日独伊三国同盟・・・となって行くのです。

(4)剣持久木(静岡県立大学助教授) 「ヴィシー体制と満州国」 

ヴィシー政権
というと今まではレジスタンスとの対比が前面に出てきました。違う側面があり、冷静に見る必要があります。まず、満洲国とは違ってフランス人による国家です。官僚主導の実験国家ではないか、という点が大切です。ヴィシー体制の内政は復古的改革です。その起源は(直前まであった)第三共和国への「復讐」とされますが、実際は、前期と後期で性格が異なります。後期は計画経済、官僚統制を重視する近代主義者が主導権を握り、その経験は戦後に継承されます。

傀儡国家か、という点に関し、ド・ゴールなどとの対比で、フランス国内でもそう思われていました。対独協力は明らかでして、政治的には、例えば、ヒトラー・ペタン頂上会談があり、ペタンは「私は今日から対独協力の道に入る」と明言しています。軍事的には、例えば、独ソ戦への義勇軍派遣をしています。経済的にも、工業製品のドイツ向け割合は44年には5割に上り、ドイツ軍輸送航空機の5割を生産しておりました。いわば、「フランス経済を最大限にドイツ戦争経済に『貢献』させるシステム」でした。

次は、
記憶のなかの過去という側面です。ヴィシー症候群とも言えます。否定したい過去とも言えるでしょう。内線としての「解放」という捉え方がまずあり、内線の癒しとしてのレジスタンス神話があり、その盛衰の上で5月革命がありました。「人道に対する罪」の追求が行われます。ナチスに関するドイツ協力など、80年代以降も変化をしてきています。

満洲国とヴィシー政府という
二つの「国家」を比較してみると、共通点として、実験国家、官僚主導、戦後との連続性などをあげることができます。相違点としては、傀儡性の有無、「記憶」のなかのコントラストなどでしょう。満洲は中国人が強く関係しているが、ヴィシーはフランス人という違いも大きいでしょう。

2−3 ディスカション

青木:
実験国家という話がありましたが、文化的な面でも、哈爾浜交響楽団では、朝比奈隆さんなど、そこで初めて本格的に西洋音楽と指揮を磨くことができたと言っておられるが、そうした取り組みができた。満映もそうでしょう。シンクタンクとしての成功もあった。ヴィシーは国内であったのに対し、満洲は全く違った。そうしたことも含め、今にとっての意義はどうだったんでしょうか。まず、それぞれひとことずつコメントを。
原田:ポジティブな面をどうとらえるか、例えば、満鉄はモデルとして、戦後の新幹線に引き継がれている点など。もっとも、日本の役人はプライドが高いのでそうは言いませんがね。
和田:地域的な共同体を、多元的文化をも含め、ナショナリズムを抑えてどう作ってゆくか、新しい眼で見ていくことが必要だろう。
青木:上海交通大学は、かつての同文書院のあった土地に建っているのに、今、どこをみてもそれが残っていない、目に見えない。ドイツの場合は、残っているんですね。その違いは何なんだろう。
木畑:民族ドイツ人導入計画というのがあって、特にポーランドへそれらのドイツ人導入を図ったことがある。
剣持:1930年代のヴィシー政府と大政翼賛会の比較をしたことがあります。それはともかく、満洲の場合は、本国でない故に実験ができたが、ヴィシーの場合は国内である故に困難があった、という違いはあります。
小林:ネガティブとポジティブとを見る必要がある。大陸生れの女性は嫁にするな、という話がある。大らかで、明るいが金づかいが荒い。付き合うには良いが、嫁には・・・となるわけです。特に1930年代、豊かな生活ができるようになっていました。女性も3時にコーヒーやケーキを食べて、夕方からは演劇を見るようなことも可能になりました。大らかで明るいムードが漂ってました。満鉄が儲かってましたから、皆さん、大らかでした。貧しいときには、誰も惨めになります、引き揚げの時がそれでした。30年代、いろんなことにとらわれない空気がありました。で、アバンギャルドというのですか、自由闊達に描くこともできました、豊かさの表れではないでしょうか。ネガティブな面で言えば、日本人は中国人と付き合うのが下手でした。だから、引き揚げになると、只ひたすら家族だけで固まって帰ってくることになってしまう。30年代は、明るくて大らかだったのです。
和田:日本はナショナリズムと激突した。これでは持たないですよ。で、そうした歴史を考えないで振り捨ててきた、それが戦後でした。これをよく考えなければいけない。大東亜共栄圏の失敗をみたうえで総括しておく必要がある。
青木:ここ10年位、アジアから、東アジア共同体の考え方が出てきた。アセアン+日中韓、それにモンゴルなども加える考え方もある。これは、これからの発展方向じゃないかと思うんですが、満洲国のレッスンと北東アジア、というところで何か。
和田:アセアン+スリーの動き、これは東アジアの協力ですよね。東北アジア共同体、これは盧泰愚大統領の提案だったわけですが、もうひとつ、六ヶ国協議というのがあります。アメリカ、ロシアが入ってますが、これはどうか。東南アジア共同体を含めた東アジア共同体ということです。安全保障、環境保全など多重的な内容が考えられます。そのとき、地域的には満洲、朝鮮が中心なわけです。
小林:アメリカの位置は?
青木:A.スメドレーとかE.スノーとか、アメリカ人ですよ。アメリカは、義和団事件で賠償金を出させるわけですが、これを中国の文化政策に使っているんです。
原田:満鉄の調査力などを活用しないで1941年のアメリカとの対決に至った。これは、日露戦争後の歴史そのもの。アメリカの影、これからアメリカとどういう関係で行くべきか、考える必要があります。

2−4 フロアーから

Nさん:
まず要望ですが、中国人の専門家を入れてほしかった。満鉄調査部の成果が生かされたら太平洋戦争は起こらなかった。なぜ、生かされなかったのか。
旧建国大学在学生:過去の問題と思っていたが、現在の日本に影響していたんですね。ところで、満州国内における格差をも論ずる必要があります、中央と国境近くとなど。また、五族の違い、他者から見た満洲、民族問題において向こう側にも入ってみて考えなければいけない。
Sさん:小林先生の弟子です。明と暗といえば、明が満鉄、暗が軍閥でしょう。

青木:
最後にパネラーからひとことずつ。
木畑:避難民への対応の仕方も重要なんですが、日本は排除か利用かしかなかったんです。
剣持:ヴィシーは外交的には孤立していなかった。アメリカはヴィシーを正統と扱っていた。
小林:44〜45年当時、調査部はソ連情報を克明につかんでいた。主にラジオから。ソ満国境へ兵員移動を盛んにやっていたことも。8月9日は突然のことではなかった。
青木:今日のシンポジウムを通して、現代とのつながり、大きな広がりがあるということなどを考えることができた。大変啓発された。また、大勢集まってくれたことは何よりうれしいこと。ありがとうございました。これで終わります。

V.私の感想

今回は、国策のありようとしての満州という切り口でしたが、次回は、庶民にとっての満州とは何であったのか、など掘り下げてほしいと思いました。その時は、民衆の立場からの発言が必要です。文化から見た満州などは、司会の青木先生が文化人類学者なので、少し挑発されてましたが、本題ではないので、それも宿題のような感じでした。

満洲問題は、まだ全く解決されていません。なぜなら、「残留孤児」の問題、強制連行、従軍慰安婦等々の問題などは解決はほど遠いし、この地域の国間の共同は出来上がっていないどころか、見通しさえありませんから。今回のような催しが、いろいろ持たれることが望まれます。全体の中から一部だけ取りだして、それを振り舞わすと危険な結果を来すことがありますので。

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