鎌倉紀行
久しぶりの鎌倉詣でした。鎌倉に最初に行ったのは、小学校の修学旅行。昭和29(1954)年でしたが、季節は確か秋だったと思います。行く前に、音楽の先生から唱歌「鎌倉」を習い、何度も歌って覚えてしまい、そしていざ鎌倉、とばかりに乗りこんだのでした。多分江ノ島から始まって、稲村ヶ崎、大仏、鶴岡八幡宮を訪れたのを覚えています。61年ぶりの再訪です。その間、鎌倉の地には三回ほど足を運んではいるのですが、会議だったりのため、観光はせずに帰ってきていました。今回、思い立って鎌倉を見て歩いたのです。 今回の目的は、鎌倉文学館を覗くこと、いくつかの観光名所を回ること、宿で温泉に浸かること、の三つでした。 2015年11月18日、9時半頃に自宅を出て、鎌倉駅に降り立ったのは予定より半時ほど遅れ午後1時すぎ。昼食は、横須賀線内で済ませていたので、すぐに行動開始。 観光客で混み合う「小町通り」を抜けて鶴岡八幡宮へ。小町通りには、こじゃれた店が並び中学生や外国人が多い。途中に、聖ミカエル教会だとか、鏑木清方記念美術館とか、川喜多映画記念館(原節子のポスターもあると、あとから知った)などへの案内板があるが、いずれも今回の目的外、横目で見て通りすぎる。左に「山安」と暖簾を掲げた干物屋さんがあり、正面から来た広い道が右手に曲がっている。その角の向こう側が鶴岡八幡宮。右折して間もなく大鳥居がある。くぐって、太鼓橋を横目にしつつゆくとだいぶ先に舞殿が見える。 鶴岡八幡宮(真ん中の○は何?) 「若宮堂の舞の袖、静のおだまきくりかえし」と唱われた舞殿。吉野山で義経と別れ、鎌倉に送られた静御前が義経を恋慕って唱った歌にちなむ唱歌「鎌倉」五番の歌詞である。その先に、大階段。その向かって左に、平成22(2010)年3月10日の大風で倒れた大銀杏の根株が眼に入る。倒れたあと、堀あげて隣に移したと看板が教えてくれる。階段を上りはじめると、すぐ脇に銀杏の立っていたあとが平らに均されていて、赤い柵の脇に銀杏の幼木。倒れた銀杏の根株から自生したものとのこと。親木は樹齢1000年とも言われたが、生命力の逞しさを示している。 大銀杏の根株(右中央)と幼木(赤い柵の陰) 上を見ると急な階段が上までつづく。連れ合いは、10年ほど前に鎌倉に来ているのだが、八幡様ははじめての由、小生にすがって上まで登る。お参りを済まして入り口の鳥居まで戻ると、結婚式を挙げたのか、白い角隠しをしたお嫁さんが新郎、親族と記念写真を撮っていた。 次は、鎌倉文学館へ。雨模様になりひとつぶ、ふたつぶの雨が、薄くなった毛を通して頭皮にあたりはじめたので、タクシーに。若宮大路を南下し鎌倉駅のそばを通過、釣り針型のコースを辿り、大きな木々に囲まれた鎌倉文学館に到着。空がだいぶ暗くなっていて、照葉樹に被われた切石路は暗くなっている。木戸銭を払い短かなトンネル(?)を抜けて玄関へ着くと、車寄せのある立派な玄関。内部は、紅い絨毯が敷かれ、土足厳禁。ステンドグラスが填められている窓もある。目下、「鎌倉文士 前夜とその時代」という特別展が開かれている。開館30周年記念と銘打っている。 鎌倉文学館の玄関 鎌倉には、昭和になった頃、大佛次郎、久米正雄、里見クなどが住んでいたのですが、そこに小林秀雄、林房雄、深田久弥、川端康成らが引っ越してきたのだそうです。「文學界」という雑誌を発刊し、それで、鎌倉文士といわれる集団が形づくられたわけです。昭和11年には「鎌倉倶楽部」なる集まりができ、鎌倉カーニバル、鎌倉ペンクラブ、鎌倉文庫という貸本屋、鎌倉アカデミアなどが次々と企てられました。この企画展では、そうした動きを写真、色々な作品の原稿、貸本屋の看板などといった現物、等々、色々な資料でたどることができました。その中で、逸品は、島崎藤村の「夜明け前」の冒頭の原稿、小林多喜二「蟹工船」冒頭の原稿でした。藤村の原稿は、旧字で書かれているので、所々、読むのに想像力を要します。多喜二の原稿も一行目の「おい地獄さ行くんだで」が目に残ります。そのほか、文士たちの、互いに切磋琢磨した様子、鎌倉の皆さんとの交流なども紹介されておりました。戦時中の苦悶の一端も垣間見られます。 この建物、先ほども書いたように、実に立派な作りと素晴らしい立地に建てられています。この日は,生憎、雨模様で、ひととおり見終わっても雨が激しくふり庭に降りられませんでしたが、ベランダからは広壮な庭を眺められたし、木々の向こうには相模湾が望めるだろうと想像できました。この敷地建物は、前田侯爵の別邸だったのだそうです。前田侯爵といえば、かつての加賀百万石の殿様、東京駒場にある旧前田侯爵邸が思い浮かびますが、こんなすごい別邸をも持っていたのか、とビックリポンです。連れ合いは二度目の訪問で、前回はバラ園もみたのだそうです。 雨のなかを小半時歩いて、江ノ電由比ヶ浜駅を経由し、今宵の旅舎「KKRわかみや」へ。以前、会議で使った時から、ここには、温泉があると聞いていたので、しばらくぶりの温泉でしたし楽しみにしてきたのでした。そうしたら、熱海から温泉を運んできて使っているのだそうです(翌日、タクシードライバーに聞いたところでは、そういうホテルが鎌倉には何件もあるそうです)。静岡のいわゆるスーパー銭湯「草薙の湯」は、修善寺温泉から運んできていましたが、同類です。でも、24時間入浴可能で、雨に冷えた身体を暖めるには十分でしたし、いつもどおりに三回、つまり、到着後、就寝前、早朝と入ったことでもあり、まあ満足でした。料理は、ボリューム小さめの懐石、味も濃すぎず薄すぎず結構なものでした。朝食も、バイキングでなく落ち着いて食べられました。 宿のレストランで出た夕食の箸袋には、唱歌「鎌倉」の一番から八番までの全歌詞が刷られていました。 第2日目(11月19日)は、晴。宿をタクシーで出て、稲村ヶ崎に向かいました。タクシードライバーに「稲村ヶ崎、名将の剣投ぜし古戦場にやってください」といえば、「鎌倉」は、全部歌えるとのこと、小生よりだいぶ若いとはいえ、年配ではありしっかりと歌わせられたものとみえます。古戦場では、タクシーに、夏は渋滞で有名な国道脇のレストランの駐車場で待機願って、岬の展望台まで登ってみました。新田さんが剣を投じたであろう岬には松の木が生い茂っていました。三浦半島側の見通しはよくありませんでした。伊豆半島側は、江ノ島を越して海岸線がみえましたが富士山は残念ながら雲の中。富士山が見える辺りの松の枝にはリスが枝から枝に飛び移っていました。ロベルト・コッホさんが、北里柴三郎さんに案内されてここに来たという碑も建っていました。コッホさんは、その後、帰国して間もなくお亡くなりになったと記してありました。 稲村ヶ崎展望台から江ノ島を望む 次は、極楽寺坂の切通を抜けてもらって、長谷観音の堂近く、露座の大仏がおわす高徳院へ。地元の人たちは、高徳院といって、大仏さんとはあまり言わないみたいで、宿のフロントのおばさんもタクシードライバーも「高徳院さん」といっては、こちらがはっ?という顔をすると大仏さんと言い直していました。 大仏への道が大渋滞なので、予定変更して長谷寺へ先に行くことにし、長谷寺入り口交差点で下車。歩いて3分ほど。ここも、階段を登ると鎌倉の街と相模湾を望むことが出来ます。十一面観音(長谷観音)やなごみ地蔵にお参りをしてから、その展望台で小休止。寺の立て札によると、大和の長谷寺で一本の楠の大木から二体の十一面観音を造り、その一体を本尊として大和の長谷寺に祀り、一体を、お祈りしたうえで海に流したところ、やがて相模国の三浦半島に流れ着き、それを鎌倉に安置して開いたのが、鎌倉の長谷寺であるとのこと。お参りしながら面を数えてみたのですが、何とか十面までは確認できただけで、もう一面がどうしても見当たらなく、視力の低下によるものとしてあきらめました。 長谷寺本堂(ここに十一面観音) 鎌倉の紅葉はこの程度(長谷寺境内) なごみ地蔵の合掌の上にコインが・・・(長谷寺) ここには、鎌倉ゆかりの高山樗牛の碑(「出家とその弟子」が懐かしい)、久米正雄の胸像が建っていました。高浜虚子の句碑もあるとのことでしたが、今回は未確認でした。 61年ぶりの鎌倉大仏 門前に人力車が待っていましたが、無視し、歩いて高徳院さんへ。バス通りから境内に入ると間もなく木立の間から大仏さんが見えます。61年ぶりの再会。あの頃を思い出しつつ懐かしくなります。当時、クラスメイト二人と一緒に撮った写真がどこかに残っているはずで、それは、うれしそうに笑った三人が大仏を背負って立つ写真です。小生は、手にボストンバックを提げています。それらが、脳裏にしっかりと焼きついています。その時の大仏様のお顔は、もう少し奇麗な肌をしていたように覚えているのです。今は、切られ傷のような線がお顔の真ん中を横切っています。来年3月から修復に掛かるそうですが、この傷はどうなるでしょうか。 塀をくぐって後ろに回ると林の中に与謝野晶子の歌が碑になっております。 「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな」 与謝野晶子の歌碑(字は達筆で読めず、右下の案内板頼り) 大仏様の胎内見物から出てきて、木戸銭係の坊さんに聞いたところ、答は、「与謝野さんは美男といっておられるのですが、大仏さんに性はございません。与謝野さんは、勘違いされたんです」。これは、初めて知りました。この旅の収穫の一つでした。 もうひとつ。修学旅行に大仏さんを見に来る小学生は、今でも多くて、この日も四,五名ずつに別れて大仏さんのボランティアガイドの小父さんから話を聞くグループをあちこちにみかけました。その一組が聞いていたガイドさんの話はクイズ風の説明でした。「大仏さんは座っておいでですが、足の指は見えますか」。子どもたちはしげしげと眺めて、「見える」と答えていました。あぐらをかいた足の裏が腕の横に上向きに見えていて、両足とも指が見えているのです。鎌倉の大仏さんは「蚤つぶし」といって、親指の爪を会わせていることは、奈良の大仏さんの「ハエ叩き」とともに教えられたことがあるのですが、足の指は知りませんでした。 さらにもうひとつ。ふと見ると大仏様を囲む回廊におおきな草鞋がぶら下がっています。説明書きによると、茨城県常陸太田の子どもたちが,東日本大震災の復興などの願いをこめて奉納したものだというのです。一生懸命に草鞋の綯い方を習い幾日もかけて作ったようでした。茨城の子どもたちもなかなかやるじゃん、と思いました。 茨城県の子どもたちが奉納した大草鞋 鎌倉大仏と誰かさん 大仏さんを見終わったらお腹が少しすいてきました。そこでまずは、大仏前からバスに乗って鎌倉駅に戻りました。途中、文学館から宿へと歩いた道をバスが横切るのが分かりました。駅前で、イタリアンの昼食を住ませ、北鎌倉に電車で移動。円覚寺です。唱歌「鎌倉」の最後八番で、「建長円覚古寺の山門高き松風に」と唱われたふたつのうち、今回は、駅に近い円覚を選びました。臨済宗の禅寺です。 禅寺らしい雰囲気が漂う円覚寺 駅外のコインロッカーに荷物を預け、紅葉が進みはじめた山門をはいると、立派な建物が次々に現れます。読経の合唱も聞こえます。中国人の観光客が多く、中国語が飛び交っていました。禅の修業をするお堂には、東邦大学看護学部座禅研修会という看板が掲げられていました。 看板の説明書には、何とか天皇が山門などの額に揮毫したことが何カ所かに書いてありました。この寺が、時々の権力と結びついていたことがうかがわれます。この寺の外観の立派さは、そうした事と関係するのかも知れません。しかし、宗教と権力が結びつくとあまり良くないことが時に行われるのですが、ここは、どうだったのでしょうか。それは宿題として残されました。 北鎌倉から東京駅経由で駅弁を買って夕食とし、暗くなったばかりの荒川沖に降り帰宅しました。まずまずの鎌倉行きでした。 |