開拓ということ・・・北海道と満蒙
18世紀中頃から明治中頃まで、わが国の人口は3千数百万人の水準を維持していたようです。この頃、各地で開拓、干拓が随分一生懸命行われていたようです。○○用水というものを引いて、水の便を良くして、あるいは自然そのままの水流に任せていた水田の水管理を、△△用水を作ることにより人間がやりやすくしたりして、あちこちに新田開発を進めました。開拓を専門として渡りあるく百姓もいたといいます。湖沼や湿地の干拓も行われました。食糧はいのちのもと、農は国のもと、というわけです。 人口増加は、農地面積が増えればそれにともなって自動的におこるのではなく、すべての産業全体や、それを進める社会構造が付随しないと増えていかないようで、江戸時代は、それらが大きく変化するに至らず、そのため、開拓を進めたものの大きな人口増加はなかったようです。幕末近くなると、秋になり柿の実が色づくように社会経済の変化が起きたのでしょう、人口増加も目に付くように増え始めました。そして、明治維新になるのです。 明治政府は、富国強兵策を旺盛に押しすすめました。農業開発を全国的にすすめ、特に北海道の開拓には大きな力を注ぎ、開拓使の長官には大物を送り込みました。黒田清隆は代表格で、1874年から82年の在任中、農地開拓にとどまらず北海道における資源開発をはじめ産業振興をすすめました。黒田は、薩摩藩出身で、開拓使の官僚にも薩摩藩出身者を重用し、他藩出身者は冷遇されました。 北海道開拓には、全国各地から多くの人々を動員しましたが、明治維新に向けていわゆる賊軍となった諸藩の人士をそれに充てたことは有名です。本庄陸男は、伊達藩岩出山支藩の石狩平野開拓を描きましたし、船山馨の「石狩平野」はテレビドラマにもなっています。近年では、池澤夏樹が「静かな大地」で、アイヌと明治開拓民の交流とそれにまつわる悲劇を書いております。映画「北の零年」は、淡路稲田家の日高開拓を描いています。北海道の開拓は、ドラマチックな側面があるので、その他多くの作品に取り上げられるのでしょう。 その後の歴史において、しばしば話題になるのは、中南米移民、満蒙開拓と戦後開拓でしょう。いずれも、土地が狭く人口が多いので云々、ということが枕詞に使われたのでした。いま、ここでは、明治期の北海道開拓と満蒙開拓をとりあげ、主に農業開拓を念頭において、その比較をしてみようと思います。 両者の主な特徴を表に示しました。 表 北海道開拓と満蒙開拓の比較
同じところは少なく、南でなく北の地で国策として行われたこと、開拓民の回りには、日本人であれ中国人であれ、旨い汁を吸おうとする輩が常につきまとっていたことくらいでしょうか。 そして、違うところは多く、もっとも重要な違いは、北海道が一応自国内の開拓であるのに対し、満蒙開拓は他国に出て行っての開拓であり、推進役がそれぞれ北海道開拓使と満州国という点でしょう。開拓される土地の前住民が日本人としてのウタリと中国人である点も違います。しかし、この違いは、被支配民族の地に出かけていって土地を取り上げるところでは共通といえます。 つぎの大きな違いは、軍の影響力が北海道では比較的小さいのですが、満蒙開拓では大きい点です。北海道開拓の「守り」は屯田兵で、それは北の守りと共に、平時には開拓に携わるという任務を帯びていました。関東軍は、おのれの政策としても満蒙開拓にかなりの肩入れをしていますが、これは、東宮鐵男大尉が張作霖爆殺と満蒙開拓推進の両方に深く関わっていたことに象徴されるように見えます。この違いは、終戦前後に関東軍が満蒙開拓団に対し何の保護行動も取らなかったことにより、軍隊が国民保護はしないというところは共通という結果に終わったのでした。明治、昭和の違いは、一連の近代史として見るならば、各時期の局面は違っても同じひとつの流れの中と見ることが可能でしょう。 このように見ると、両者は違うように見えても結構共通するところがあって、開拓という所業の本質を考えさせられてしまうのです。以上の考察は、大変雑ぱくなものですので、将来、もう少しチャンとしたことを考える機会がくるかも知れません。 |