除虫菊の島を歩く

にほんの里100選「因島重井町」

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歩いた行程の地図へ

1.除虫菊

因島は、結構大きな島で、大雑把には、南北10km、東西5kmくらいもある。かれこれ山手線の内側と同じくらいの広さである。ということは、つくば研究学園都市と同じくらいでもある。その島の北西隅に、重井町がある。今は、平成の大合併で、尾道市の一部となって正式には因島重井町である。

ここは、かつて除虫菊の里として有名だった。

 
除虫菊の花(広島県、因島重井町にて)

除虫菊は、蚊取り線香や農業用殺虫剤の原料となっていた。主成分、ピレトリンを多く含有し、それが殺虫効果を持っている。かつてはわが国でも、ここをはじめ尾道、岡山市笠岡、岩見沢などでさかんに作られていたものである。日本は、大正から昭和にかけて世界有数の除虫菊生産国だったのだが、戦後、化学合成殺虫剤に押され1970年代になるとすっかり影を潜めてしまった。

 にほんの里100選

昨年から今年にかけて、朝日新聞社と森林文化協会では、なつかしい風景や誇るべき暮らしの文化を残している里を全国から募り、山田洋次さんを委員長とする選考委員会で選定作業を行い、この1月に、2000個所以上の中から100個所を選定した。

選ばれたところを見ると、昔から有名なところや行ったことのあるところもある反面、全く知らないところもあって、行ってみたいと思うところがたくさんある。森林文化協会では、それらを訪ねる催しを順次進めるということなのだが、その第1回目として、除虫菊が山裾を埋める花の里をめざすここ因島重井町を歩こうという呼びかけがあった。さっそく手を挙げたらお誘いがあったので、私たち夫婦で出かけたのであった。以下に、印象に残ったことを記しておこうと思う。

尾道に宿を取って、とういのは、ついでにその周辺を見たい、わけても尾道ゆかりの作家、林芙美子や志賀直哉の事跡をたどってみようというわけである。一泊を海に近いホテルで過ごし、5月9日の朝、電車でみっつ西に移動した三原港から高速船で因島に向かった。デッキの席で受ける潮風も心地よい20分弱の行程である。

因島の重井西港で受付が済み、事務局の森林文化協会の方からひと言あってすぐに地元のボランティアガイド、因島つれしお会のAさんが説明をはじめた。


 かつての除虫菊

昭和30年代、この島は、ちょうど今の時季、除虫菊の白い花盛りとなり、西隣の佐木島にまで畑を求め、舟を使って出作りをしていたという。下の写真でAさんが示しているのは、その時に使われた舟をAさんが記憶にもとづき描いたもの、チャチャ舟というそうである。

  除虫菊島山ちかみ艀(はしけ)来る/桂郎


 
チャチャ舟と呼ばれた舟で出作りをした

収穫時期には、梅雨の雨が来るまでに摘み取った花を乾燥させて出荷する必要があるので、大忙し。その間10日間ほどが勝負なのだそうである。除虫菊は2年草で、収穫までに2年の間、丹誠込めて育ててくるのであるが、この時期、下手に雨に当てようものなら、その努力が水泡に帰すわけであるから大変である。多分、猫もうかうか歩けなかったであろう。

 今の除虫菊

港を迂回するように、北浜という集落に入ってゆく。家と家の間は、軽トラック一台がようやく通れる程度の狭い道によって仕切られている。

   地図へ(ここへ戻るためには、地図に下の「『今の除虫菊』の項へ戻る」をクリックして下さい)

古くからの農家には、家の建て方に共通の様式がある。下に掲げた写真のように、中央の大きな母屋を挟んで西側(向かって左側)には隠居所としても使われる棟続きの部屋があり、母屋の東側に作業所がある。作業所を中心に、除虫菊の調整作業も行われる。

            

女性ボランティアガイドのBさんによると、刈り取られた除虫菊の花は、その場で千歯(せんば)を使ってそぎ落とす(別のところで、手で摘んだ、とも聞いた)。それを各農家に持ち帰るのだろうが、農家の母屋の南側には結構広い庭があり、そこに除虫菊の花を拡げて乾燥したということである。



千歯、隣の弓削島で使われていたもの。 (「写真でたどる農機具の発達史」より)
多分、これは米麦用で、除虫菊用は少し違うのではないか、と想像する。


北浜集落の裏山は、馬神山と呼ばれるが、その中腹に除虫菊の畑が維持されている。我々はその畑をめがけ斜面を登っていった。 
地図へ(ここへ戻るためには、地図に下の「馬神山へ戻る」をクリックして下さい;以下同様)

  

この畑は、観光用と保存用に昭和56年から栽培を継続している。今回は訪れなかったが、他にも2個所で栽培しており、合計面積は50haにのぼるとのこと。この日、我々の他にも、本州のナンバープレートをつけた自動車が止まって、カメラを据えてシャッターを押す人たちの姿があった。

             

このページのトップに掲げた写真をご覧頂くと、向こう側の山に少し黄色がかった竹林が見える。そこは、かつての除虫菊の畑の跡なのだそうだ。土が軟らかく肥えているので、竹も旺盛に侵入して行き、毎年10mの速度で拡がっているという。そこを、白い色で埋め尽くすと昔の姿が再現されるのだが、その違いはとても大きいと感じてしまう。

今や合成殺虫役に押されっぱなしの除虫菊であるが、残留毒性をきらい安全性を求めて除虫菊が見直される機運もあるといわれるので、今後、どのような展開があるか、少しだけではあるが楽しみでもある。


2.海との係わり

島では、暮らすにせよ、働くにせよ、何をするにつけても海との関係が欠かせない。今回、重井を歩いて、ボランティアガイドの話をお聞きしていても、海との係わりの話が随分聞かれた。そこで、それらをいくつか記してみようと思う。


潮位の違いが大きい

瀬戸内は、満潮と干潮の差、つまり潮位変動が概して大きい。ここもそのとおりで、私たちが歩いている4時間弱の間に下記の写真のように大きく潮位が低下していた。左が午前10時14分、右が、向きが逆であるが同じ場所で13時20分の写真である。水位に、階段のステップ数で5〜6段の違いがある。帰ってから調べてみたら、この日は月齢14日の大潮だった。そういえば、昨夜、まん丸な月がホテルの窓からのぞいていた。

このステップも、潮位が違っても舟の荷の上げ下ろしができるようになっているのであろう。そういえば、昔、尾道でも鞆の浦でも、同じステップを見ておもしろいなあと感心したことを思いだした。

    


埋め立てで出来た平地

この辺りの島はどこも山が圧倒的に多く平地が少ない。この島も然りで、集落のある平地の多くは干拓地であり、「新開」といった地名が一個所ならずつけられている。重井町にもあって、我々もその地を歩いた。
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この島の地形は、もともと深く入り組んだ入江がいくつもあり、たとえば天保年間(1830〜1844年)にそれらの入江を埋め立てて平地を増やし、そこに新開という名がつけられている。この「新開」は、重井町の新開ではなく、東海岸の中庄町にある。その他、小規模な新田開発が、近世初頭から因島のほぼ全村で行われているとのことである。

歩きながら、古い道標についての説明を聞いていると、新開地の道標に「本村字青木道路改修碑、明治四十年三月十日起工」と書いたのがあって、これが開拓に伴う道路の改修を表している、とのことであった。自動車1台がようやく通れるくらいのこの道の両サイドは、昔は水田であったが、今や、この町に水田は皆無になってしまったという。道標の脇には、花崗岩造りの小社が祭られていた。

           


潮もち池

埋め立て地に水田を作るとなると、いろいろと塩害対策、水対策が必要となる。上でみたように潮の干満の差が大きいので、それに対する知恵が生まれている。青木集落で、その仕組みにつき説明をうけた。地図へ

「潮もち池」とよばれる仕組みがそれである。水田に海水が入ると稲が枯れてしまうので、それを防がなくてはならない。潮位の差が大きいので、その効果も大きい。

そこで、水田地帯を流れる川の海に近い場所、ここから上流には海水を入れないぞ、という場所に堰(せき)を設ける。その堰には、水を通すトンネルがある。トンネルの海水側に弁を付け、海水側へ自由にはね上がるようにちょうつがいを上側につけて下げておく。基本的には、それだけで目的を達せられる。

潮が満ちてくると、潮の圧力でその弁が閉じて海水は上流に上がらない。上流には、普通の堰を設けておけば田畑に引く水は十分に蓄えられる。潮が引くと上流に溜まっていた余計な水は海側に流すこともできる、というわけである。その上流に作られた池を潮持ち池と呼んだものであろう。自然の法則を理解して作り出した見事な仕掛けである。

 

見える水は淡水、この下に弁がある。神社は住吉大神。重井町青木


日清・日露など戦役の碑


日清、日露の戦争には多くの兵士が全国から送られ、また多くが帰ってこなかった。その多さは、全国各市町村にそれらの御霊を祭る碑が欠かさず建てられていることを見れば想像がつく。

今回のコースには、善興寺というお寺があって、その山門近くに立つ大きな慰霊碑に眼を奪われた(
地図へ)。「日清・北清・日露 戦役祈念碑」と書かれた特大の碑である。碑には、明治41年5月に企画が起こされ、同44年5月に施工された、と記されている。後ろに回ると、小さな字でびっしりと戦没者の氏名が兵隊の位つきで書かれている。全てそれらを追ったわけではないが、後から思うに、眼にとまった中に海軍何々、というのが多かったようである。村上水軍の根拠地であることと関係するのかも知れない。

今次大戦の慰霊碑があったかどうか、そこまでは確認していない。


因島と村上水軍

今回のコースには、村上水軍の関係事跡として、その出城であった青木城を説明する案内板が含まれていた(地図へ)。その案内板は、木製で墨書されている。郵便局長さんが私費にて作ったもので、随分古びて見える。肝心の城址は標高数十メートルの山上にあるので、登るのは止めにして案内板をみながら説明を聞いただけであった。現在、周辺は埋立てられているが、元来は海に突き出た中世村上氏の水軍城であったという。

瀬戸内は、海運を発展させる地理的条件は揃っているので、どの島でも必要条件が生まれれば海運業がおこる可能性がある。記録によるとこの島でも15世紀中頃に、渡唐船がここから出されたとされていて、海上輸送の基地として廻船業を発達させたことがうかがわれる。この頃、水軍村上氏も勢力を拡大し、戦国末期には因島について430余石の知行を認められている。村上水軍といっても、因島の他に能島、来島の村上氏もあって、それぞれ独自の歴史を持つようである。

この島では、今でも村上さんが大勢おられて、重井町では9.8%が村上姓だそうである。ネット仲間からの情報によると、囲碁の強い人も多いようで、アマチュア名人にこの島出身の村上文祥さんという方がおられるとのこと。現地で手にしたパンフレットで、本因坊秀策囲碁記念館が島の東部にあることを見ていたので、ちょっと混乱したのだが、本因坊のほうは村上さんでなく桑原さんなのだそうだ。



いずれにせよ、因島はいろいろな伝統の脈打つ島である。



歩いた行程の地図を掲げた。重井西港からスタートして、赤い線に沿って時計回りに歩いた。3時間ほどの行程だった。

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本ページを作るにあたっては、主として、下記サイトを参考にさせていただいた。記して深謝します:
1. ”広島県:因島市の項の内、しげいむら【重井村】、【中世】、【近世】”, 日本歴史地名大系, ジャパンナレッジ    (オンラインデータベース), 入手先<http://www.japanknowledge.com>, (参照 2009-05-14)
2. 写真でたどる農機具の発達史. 農林水産研究情報センター、入手先<http://meta.affrc.go.jp/afftool/>
3. 国土地理院、1:25,000地形図 平成21年4月1刷

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