目次(その二)
松野傳博士と「満洲開拓」
禿げ山の回復
校舎の偉容
首都新京の建物、その壮大
観光ガイド
ロシア歌舞団のショー
偽「新しい歴史教科書」
いろいろな小石
九.一八と9.11
日中の貧富の差の差
私の満洲の旅

松野傳博士と「満洲開拓」

 私が社会に出て初めての職場は、北海道の田舎町にある農業試験場であった。昭和2年創立で、その建物は、私が赴任した時も創立当時の面影をほとんどそのまま残し、石造りの重厚な2階建ての本館は、中央に玄関を構え、その上にはチョットした望楼様の塔がそびえていた。納屋や農作業場、馬小屋なども柱を白く塗ったりして洒落た風情を漂わせていた。その初代場長が、松野傳博士で、その任を終えてからも北海道開拓事業の実践に功績をあげ、その後、奉天農科大学の教授となられた。
 その松野博士に「満洲開拓と北海道農業」という著書があって、その中では、博士が北海道で体験された寒冷地の、特に畑作開拓農業の経験をどう満洲の農業開拓に生かすかが論じられている。当時の満洲農業は、華中、華北からの移住農民が、持ってきた技術をそのまま使った鍬鋤の農耕に頼っていた。松野博士は、それを馬にプラウを引かせて畑を起こし大規模に作付をする形態に変えることを試みようとした。それは、多分、半ば成功し、半ば志途中にして中断せざるを得なかったと思われる。
 当時、今更いうまでもなく、満蒙開拓団を全国から募り彼の地に送り出し、原野の開拓でなく、中国農民が農を営んでいた土地を取り上げ大規模農業を展開し、日本の食料資源の確保を果たそうとしていた。確かに、当時の満洲農業は、生産性が低く、技術的、行政的にテコ入れを必要とする状況にあったようであり、松野博士は、そこに大きな発展の可能性を見いだし、それをすすめる大規模機械化農業を実現しようとしたのであったろう。
 今回見聞した限りでは、とにかくどこまでもつづくトウモロコシ畑、水利の良いところの水田、黒竜江省孫呉地域では一面の大豆畑といった特徴が顕著である。米は、近年、日本の東北地方の経験の導入による品質向上も図られているという。大平原にこれ以上新たな農地を求める余地は今や多くないであろうが、生産量の増大、質の向上の可能性はありそうである。
 今回の旅に参加した仲間が等しく口にしたのは、あの頃は、コウリャン畑がたくさんあったのに今はほとんど無い、という感想であった。たしかに車窓からコウリャンらしい畑が見えたので写真に納めようとしても、アッという間に視界から消えてしまい、とうとう一枚も撮れなかった(もっとも、MIEさんは車窓からシッカリと撮ってHPに載せておられる)。ヒマワリも少なかった。圧倒的にトウモロコシであった。ガイドの李さんによると、トウモロコシやコウリャンの多くは家畜の飼料である。
 他方で、しかし、家畜の姿もあまり目にしなかった。放牧の牛が見えると珍しくて話題になるくらいであった。仲間に「やぎさん」と呼ばれる人がいたので、ヤギが見えると誰かがそれを知らせても、目を向けると既に視界から消えている。
 そういえば、近年、中国の飼料輸出が増えているということを耳にしていた。全てが日本向けではないだろうが、外貨獲得の大きな役割を果たしているのかも知れない。松野博士の努力が、現在の中国東北農業にどう生かされているのかいないのか、私は知る機会をえないでいる。
 
 


禿げ山の回復

 203高地の戦闘場面を撮した写真などを見た印象では、戦火のためかどうか分からないけれど、あたりの山は禿げ山ばかりである。ところが、今度行って見た旅順半島の山々は、一部に小生の頭のように大部薄い所を見かけたとはいえ、概ね緑に覆われている。この100年、もしくは60年でここまで回復したものであろうか。木々の大きさからすると先の戦争後のものも多いかな、と思わせた。
 飛行機が朝鮮半島を横切っている最中、Kさんが「朝鮮の山々は禿げ山だったと聞いたけれど、ずいぶん緑が深いですね。」とビックリしておられた。かれこれ20年程前に、私が初めて韓国を訪れ、ソウル大学のキャンパスやその裏手の山、そして仕事が終わっての見学旅行でやはり半島を横断した時のもっとも大きな感慨は、やはりそれであった。朝鮮戦争から20数年という時期だったから全山巨木の山ではなかったけれど。
 戦火のほか、オンドルや炊飯、製鉄のタタラなどで木をエネルギー源にした所では、山が禿げ上がったと聞く。そしてそれを回復するには多くの努力と年月がかかる。中国も朝鮮半島も我が国の中国地方などもそのようにして緑を回復してきている。
 戦争による禿げ山もアッという間にできあがるのであろうが、回復にはやはり長い時間、努力の継続が必要とされる。これからは禿げ山は作らないようにしたいものだ。
 

校舎の偉容

 小学校などの校舎に幼い時の思い出があるのは、満洲の地ならずともごく普通のことである。今回の旅でも、何人かの方の思い出の学校をいくつか訪れた。長春の西広場小学校、桜木小学校、白菊小学校、孫呉の明和国民学校などである。
 ほとんどの学校は、跡形もない程に変容してしまっている。それにしても、訪れた所はどこでもよく整備されていて、中国では教育に多くの投資がされ、子どもの成長に大きな期待がかけられていると想像された。それは、大都会だけのことではなく、地方都市である孫呉の学校もやはり立派な施設で、驚いたり安心したりして帰ってきたというから、ほぼ共通な傾向と見てよいのではなかろうか。
 まず、校舎をはじめ、学校の施設が立派で、偉容をたたえているとさえいえる。正門の横には、人の背丈より高く、人が20人程も並んでもかなわないように幅広な御影石が据えられ、学校名が達筆な毛筆文字で刻み込まれている。ぴかぴかに磨かれた表面には、並木の木々や前に立った人がしっかりと写る。
 玄関には、広いホールがあり、柱や床はやはり御影石などで出来ておりぴかぴかに磨かれている。校庭は、芝生こそ植えられていないが、よく手入れされていて一本の雑草も生えていない。その校庭で子ども達は、元気よく体育の授業を受けていた。
 ある中学には、授業料が高中学(日本の高校に相当)の場合、一学期当り350元、初中学(中学に相当)の場合、同じく70元と掲示されていた。その他にも経費を払うようであるが、いずれもその程度の金額である。あるホテルの室でevianのミネラルウォーターを買うと25元だったので、それに比べていかに安いかが分かる。
 
 


首都新京の建物、その壮大

 旧国務院の玄関周辺が観光用に開放されている。といっても、他の部分が未開放なわけではなく、現在の本来目的である吉林大学基礎医学部の実験室ものぞこうと思えば出来ないわけではない。私もローラも一階右ウィングのトイレをお借りし、実験室をチョッとのぞき中庭のほほえましい菜園を眺めたりしてきた。その他、交通部では玄関前でそのビルの写真を撮るのに余りに大きいので表通りぎりぎりまで後退する必要があった。関東軍司令部にせよ、他の旧満州国官庁ビルは、いずれ劣らぬ重厚な建物である。
 そして思ったのは、その建物の壮大さは、首都の一流官庁の建造物にふさわしい、ということであった。今、日本で戦前に建てられてそれらに勝る重厚さを備えた官庁建造物はどれであろうか?日本の官庁ビルのどことも引けをとらないし、それらに勝るのは国会議事堂くらいであろうか?そういえば、満洲には国会が無く立法も「皇帝が行った。」
 その絶大な権力を持ったはずの皇帝、満州国帝国組織法にいう「元首にして統治権を総攬」する皇帝の皇宮の質素さ、これはまた別の意味で驚きであった(写真)。勿論、我々庶民の家に比較するのは牛と蛙の比較どころではないが、その面積においても、その重厚さにおいても、その権力の重大さにふさわしくない。しかし、それは言うまでもなく実態を現しているに過ぎない。新皇宮を建設中であったにせよ、他の中央官庁街の建設が優先されたのは、わが国で良い町村かどうかを見るにあたって役場の庁舎が質素かどうかを見るがよい、というのとはワケが違う。
 建国宣言から皇帝退位にいたる節目々々の詔書まで、全てが大日本帝国、関東軍、満州国政府が準備したものにハンコを押しただけという権力発揮には、その質素さはまことにふさわしいものであったのかも知れない。

 


観光ガイド

 常のことながらガイドの皆さんには本当にお世話になった。感じたことのひとつは、タイプとして本音型のガイドと建て前型のガイドがいるということ。
 日本人ツアーを案内するには「日本語の高い能力」が不可欠であることは当然である。その能力としては、ほとんどどんな話題にもほぼ正確な言葉を用いて対応が出来て、交渉とか議論・論争にも正確な理解のもとにのぞむことができる、といったところが要求される。ネイティブ・スピーカーと間違われる必要はないと思われる。さらに、日中両国の文化等に関する理解も常識程度には必要であろう。英語のTOEICに例えれば750点以上だろうか。
 ツアー・ガイドとなると「サービス精神」が要求されるだろうし、時には「外交官精神」も備えると良いかも知れない。ここからがタイプが分かれる要素である。サービス精神が勝るガイドは、「人民に奉仕する」をしばしば耳にする中国では、確かに他の国より多く見かけるように思う。他方、時に外交官のような一面、つまり国家の代表ないし権力意識、お役所風が比較的強いガイドにお目にかかることがある。決められたことを伝えるのをモットーとするガイドにまれに出くわすことがある。日本では、添乗員にこのタイプが比較的多いだろうか。
 サービス精神と外交官的側面のかねあいはかなり微妙で、個性にもよるし、所属する会社の方針にもよるだろう。しかし、本音と建て前の使い分けの問題だろうから基本的には訓練と経験でかなりコントロールできることである。
 さて、お世話になったガイドさんはどちらに分類されるであろうか。私がお世話になったガイドさんは、TOEIC、いやTOCIC(?)は、皆さんクリアーしていて、850点クラスもいらしたと思う。ちなみに、企業などでは650点以上が要求されていると聞く。で、本音型、建て前型は、私のお世話になった4人について分類すると、前者が2人、後者が2人か、または、前者が3人、後者が1人としてもそう間違いではないであろう。いずれにせよ、どちらが良いかは個人の好みも混じってまた別の問題である。
                              


ロシア歌舞団のショー・・・ロシアと中国、そして日本

 ハルビンの行程の後半、いわゆるオプショナル・ツアーに、私たちは、サファリ・パークより良いだろうと、ロシア歌舞団のショウを選んだ。太陽島の一角の「ロシア黄金劇場」で、ソプラノ歌手と若い女性のダンサーからなる歌舞団のショーに臨んだ。
 馴染みのある歌もあって、「カチューシャ」などは客席に降りてきて踊りながら歌ってくれた。私も昔覚えたロシア語の歌詞で和したら「え〜ッ、どうして知ってるの!?」と(多分)言って喜んでくれた。ややベテランのソプラノ歌手も貫禄のある身体を舞台から客席に運んで歌いながら客と握手のサービスに努めてくれた。最前列にいた私は、つい強く握りかえしてしまい、ゆがんだ顔を見て「仕舞った」と、その手の柔らかさを感じつつ、今度からは女性に握手されたらそっと握りかえしてやろう、とこの歳になって反省したものであった。
 1990年代はじめ、北京のマーケットを何人ものロシア人が大きな袋を担いで歩き回っているのを見て、中国人の友人は、「最近、買い出しに来るロシア人が多いんです」と話してくれた。ロシア経済が体制崩壊で混沌としていた頃のことである。その当時に比べると、旧ソ連の国々も一部を除いてずいぶん落ち着いてきたとみえ、歌舞団メンバーの笑顔も心の底からのものになってきたのではないだろうか。
 そのような笑顔と歌声に中国の地で接すると、中ロ関係が、社会主義国同士であった時代にも複雑に変化してきたことを思い起こす。スターリンと毛沢東の葛藤、朝鮮戦争でのソ連の支援。中ソ論争の時代には、ベトナム戦争をめぐって互いに牽制したりあからさまに攻撃しあったりもしていた。そして、いまや中国は、社会主義市場経済という歴史の実験をすすめている中で、中国の人達は、ロシアとも日本とも新しい関係を作り出そうとしているようにみえる。
 日本がこの地において展開した歴史を、その教訓や経験を通して新たな日中関係に国民レベルでどう生かしてゆくか、日中友好はこれからが正念場かも知れない。

                                

偽「新しい歴史教科書」

 偽満洲国などという偽をたくさん見せつけられると、時に、こんなにまで偽呼ばわりしなくとも良いのではないか、とふと思ったりする。世の中には、日本が開発した産業がその後の中国を支えてきたとか、当時の日本が満洲で展開した科学技術が、留用者の技術協力を含めその後の中国経済に大きく貢献したとかをもって、日本をそんなに悪者呼ばわりしないでほしいという議論を善意でする人がいる。
 日本が日露戦争に勝利して正式に満洲に地歩を築いて以来の満洲における歴史、それも特に民衆の歴史をある程度でも具体的に追ってみたら、それらをもって日本のしたことを免罪できはしない、と思わざるを得ない。日本がそこで起こした産業や科学技術、建造物などは、日本がそこにいただけで残って当然なのであって、去った日本人はそれを使えず、そこに住む中国人がそれを使えるのは当然である。
 しかし、なぜか、もっと本気で組織的、本格的にその当然を覆し議論を違う方向へ展開しようとする人達がいる。信じられないことである。
 今回の中国東北の旅では、中国の人々の活気ある姿と急激に変化しつつある社会の姿を目の当たりにして、日本は遠からずいろんな分野で追い抜かれるぞ、と感じた。その頃の日本の「新しい歴史教科書」by「作る会」には「中国の人々は、満州国時代の経験や日本の遺産をバネに大きな社会発展を実現しました。・・・あの戦争は中国の発展を促進しました。」と・・・
 

いろいろな小石

 旅の最終日前夜になって、あるネット仲間から「1歳で亡くなり大地の土になった私の妹がねむる旧満洲の砂か小石を拾ってきていただけないか」という希望が満洲談話室に寄せられた。そして、ある庭のよつ葉のクローバの蔭(写真)などで拾い集められた小石が、帰国後、お兄さんに届けられた。
 帰国してから、「海ゆかばのすべて」というCDを聞いていたら、「小石」という言葉に耳が釘付けになった。「石と兵隊」という歌で、慰問袋から出てきた小石が歌われている。平凡な軍歌であるが、1番と2番の間に、「海ゆかば」をバックに子どもによるセリフが入っている。
 「ぼくらのために勇ましく戦ってくださる兵隊さん、あなたに慰問袋を送りたいと思ひましたが、ぼくのうちはお父さんがなく、お母さんとふたりきり、貧乏で慰問袋へ入れるものもぼつちりしかありません。こゝに石を入れておきます。これは二重橋まへの廣場の石で、けふ頂いてまゐりました。この石には、今日まで、何千万といふ日本の國民が歌つた君が代や、天皇陛下萬歳の叫び声が泌み込んでゐます。どうぞ、この石をお身体につけて、お國のためしっかり戦つてください。そして首尾良く凱旋のときには、この石をもとの廣場へお返し下さい。吉田一男 忠義な兵隊さんへ」。この手紙は実話である、と解説されている。
 この歌を聴きながら、私は、二重橋前だけでなく自宅の庭など日頃なじんだ場所から戦場に小石を持っていった兵隊さんもいたのではないか、そしてその石の多くは持ち主とともに再びもとの場所に返ることなく満洲の野に埋もれ、あるいは南洋の底深く沈んでいるのではないか、と思った。しかし、小さな姿の妹さんは、瀋陽の小石たちとともに、この秋、長い年月の果てにお兄さんのそばに帰り着き、ご両親のお墓の中に安住の地を見つけられたのではないか、などと勝手に想像している。


 

九.一八と9.11

 私たちの旅は9月11日を含み、9月18日の少し前に帰国した。
 9月11日とは、2001年のその日のことではなく、今年の衆議院議員選挙のことである。私も期日前投票をしてこの旅に参加した。その開票結果は、ホテルの室で夜更かししてNHKテレビの開票速報を見ていたあなたのやぎさんから翌日知らされた。自民党が3分の2を占めたことを。誰からともなく「憲法が変えられる」というつぶやきがおこった(実際には、衆参両院の各3分の2以上と国民の過半数の同意が必要なのだが)。旅のメンバーの政治的立場は、間違いなく多様である。しかし、憲法改正によって軍隊の海外派兵への道が開かれることに関し、参加者の脳裏に九.一八で始まった戦争の記憶がよみがえることはほとんど自然のことだろうと思う。もし、今年の秋以降そのような記憶の延長線上の歩みが加速されるならば、この9.11は、あの9.11に勝るとも劣らない歴史的意味をもつことになる。
 他方、9月18日は、いうまでもなく満洲事変の勃発の日である。旅の最終日、9月15日の午前中、私たちは九.一八歴史博物館の前でバスを降りた。しかし、博物館には入らず、写真を撮り、何人かの人は博物館のパンフレットやお土産を買った。そして間もなく立ち去った。
 「全てがここから始まったのよ」とノーラさんがつぶやいたように、私たちはここに関心がないわけではなかった。メンバーの過半は満洲で生まれ、歴史の事実を身をもって体験しており、日頃から、満洲で何が行われ何をせざるをえなかったかを語り合ってきた。だから、本来ならこの博物館の中に入り、中国の人々があの戦争をどうとらえ、日本の軍隊の所行をどう認識しているのかをこの目で見据え、もう一度、あの戦争と満洲が一体何だったのかを考えることにはそれなりの意味があった。
 しかし、現地ガイドによると「博物館の中では日本語を使わないでください」とのこと。そこで、主催者ローラは、終戦60年目の今年のこの時期に、あえて訪問するのは控えようと決断した。
 私たちが歴史の中で生きていることを感じた。

                           
                     


日中の貧富の差の差

 この旅では、旧満州四都市とそれらの沿線を瞥見しただけだけれど、貧富の差に日中間の差を感じて帰ってきた。
 最近、東西南北、地球のどこを見ても貧富の差の拡大が見られる。アフリカの飢餓と飽食の日本の差は大きく、そして日本の中では富者がいっそう富むと同時に明らかに貧者も増えている。ほとんどの物価は下がらず、多くの人の賃金は明らかに下がっている。
 中国の都会を10年程前に訪れたときは、あちらこちらに乞食がいて私たちのところに物乞いに寄ってきた。終戦直後の日本の都会を思い出させたものである。ホスト役の中国の友人は、乞食を追い払うのに忙しかった。そして、時にスラム街に驚かされたこともあった。
 しかし、今回、ずいぶんいろんな所を案内してもらったのだけれど、乞食に会った記憶がない。確かに、それに近い風情の人が全くいなかったわけではないけれど、記憶に強く焼き付いて10年先まで憶えているような場面には遭遇しなかった。バスの沿線に、崩れかけた壁の農家をみたこともあったが、日本の山村には「故郷の廃家」が山のように出現し、他人のことを言えた義理ではない。
 他方、訪れた各都市で富豪が増えているのは確かである。大連の星ヶ浦海岸は、戦前、日本人も海水浴に通う美しい浜辺であったが、今は、豪邸が建ち並び、成功した事業家や俳優さんなどがそれらを所有しているとのこと。飛行機に乗って、私たちの格安エコノミー・シートにたどり着く前で、エクゼクティブ・シートではスーツに身を固めた中国人実業家やビジネス客が悠々と腰掛けている。
 思ったのは、貧富の差の開き方が、日中間で全く違うのではないかということである。最近、それを裏付けるデータを見つけた。世界銀行によると、1981年に11ドル以下で暮らす人たち9000万人が中国に住んでいた。解放改革路線が始まった後2,3年のことである。それが、最近の調査では中国では億人がその域を脱し、現在では8800万人に減少した、とのこと。8800万人は少なくないとはいえ、億人を救い出したことはすごいことではないだろうか。
 つまり、貧富の差が日本では上下に開いているのに、中国では上に開いているのである。この10年間に両国政府ともそれぞれの改革を強力に実行してきて、民衆レベルに起こった結果は大違いだったのである。日本の「構造改革路線」と中国の「社会主義市場経済」に象徴される政府の舵取りの問題かもしれないし、天井にぶち当たってもがいている日本と成長しようと模索している中国との違いかもしれないが、いずれにせよ、中国は経済面ではいろいろな指標においてまもなく日本を追い越すであろう。その時、日本は、別の行き方を見つけられずに、古来やってきたように中国に教えを請うのだろうか?今の内から、日本人は別の生き方を探す方が賢明なのではないだろうか。

 

私の満州の旅

この旅を通じて、仲間の思い出の場所を訪れ多くのことを見聞きし、旅のあとさきでたくさんの本や雑誌に目を通し関連したテレビ番組なども見て多くのことを知った。それでも疑問のままで残ったこともたくさんある。それらは、今も脳裏で回転し続けている。
 それらを通して心に沈殿したことは、目新しいことではないのだが、戦争では殺人さえも合法化される、ということであった。殺人の対象が非戦闘員に広がり、その犠牲が莫大となったのは近代以降の戦争においてである。そこでは、多くの民衆が勝ち負けに関係なく不条理の前に悲しみと絶望感にうちひしがれる。第2次世界大戦ではそれが極致に達し、満州は、それが展開された代表的な場であった。それ以後、大小の戦争のたびに反戦の声が広がり今に至っている。これからの人類は、戦争は禁止し、殺人ゲームもやめにして、ルールに則ったスポーツに闘争本能を焼やし平和な戦いを繰り広げたら良いのではないだろうか。これが、第1に考えたことであった。
 あの当時、満州進出を「世界に互して羽ばたく勇姿」と思い、その流れに身を投じようと海を渡った人は多く、そこで展開するであろう不条理を予測できた人はきわめて少なかった。そのことを今にして思うと、現在、自分たちが歴史のうえでどこを向いて立っているかを判断すること、ましてや将来を予測することは難しいとつくづく思う。これからの日本が、昭和十年前後と同じコースをたどるのなら予測は容易だろうけれど、同じコースを繰り返すことはないだろう。そうであればうっかりしてはいられない。情報をにぎる政府や情報を売るのが仕事のジャーナリズムが、率先して教えてくれるとは思えない。逆に、総理大臣が外交上の孤立よりも靖国神社への参拝を重く見たり、戦前の論理に現代風トッピングを乗せたような歴史教科書を行政が採用しようとしたりする。今年8月15日に向け、私どものインターネットサイトには、靖国神社を押しつけようとする投稿や満州国復活をうたうサイトも現れた。それらの流れに抗して良心的知識人の言動が時代を先読みすることがあり、それに耳を傾けることも有効ではあろうが、そのような中でわれわれ民衆は、生活感覚や人生経験を働かせ、少ない糸口からしたたかにそれを嗅ぎ分け、不条理の再現、つまり戦争への道を二度と歩かないように自らを導くしかなさそうだ。これが旅の前後に考え至った2番目である。
 この旅に参加した仲間の多くにとって満州はたくさんの悲劇と幸せの入り交った思い出の地である。参加者の父母の世代は、思い出すのもつらいことが多く口を閉ざすことが多かったが、我々世代は少し違っていた。昔住んだ所や通った学校を再訪できた人も多く、たくさんの思い出の地を訪れることができた。ある方の住んだ場所を裏通りに訪ねあぐねていた時、元気の良い老婆が「こんな所ばかり見ないできれいなところを見なさいよ」と声を掛けてきた。ハルビンでは、新香坊の旧引揚者収容所跡に近づくことができず、瀋陽では柳条湖の九・一八博物館の中に入ることがかなわなかった。表向きの友好はまだできあがっていない印象を受けた。日中双方の人々の心に深く突き刺さったトゲの跡は、そう簡単に癒えることなく疼きつづけ、幼なじみの面影や春に一気に花咲く原野の思い出と併存をつづけるのである。これが、今もっとも強く思っていることである。
 
 

感想はへ