飛行場橋の物語(抄)・・・本当はもっと長い話ですので抄としました

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「飛行場橋」という橋が、常磐自動車道に架かっています。

高速道を行くと、切り通しを走る車の上を橋が横切って跨いでいることがしばしばあります。「飛行場橋」はそのような橋の一つです。常磐自動車道を東京から土浦、水戸方面に走り、谷田部インターを過ぎて少し行くと左側の土手上に交通信号が輝くのが見えてきます。その信号の下に常磐道を跨いで架かっている橋が「飛行場橋」です。気をつけてみると、自動車からでも橋の左端に掲げられた名前を確認できます。

私の現役時代の職場がこの橋の南側にあったので、その北側に家のある私は、通勤の途上あるいは仕事の行き来でこの橋を何回となく渡りました。そして、時々、この橋の名前の謂われをおもしろそうだなと感じていたのですが、ある時、この南、つまり筑波農林研究団地の今ある場所が昔は飛行場だったから、とどなたかから聞きました。その後、インターネットなどでもそれに気がついた方の書き込みがあったりして、すこしづつ見えてきました。しかし、何れも断片的で全体像がつかめませんでした。

最近、農林団地の床屋さんの待合室で「飛行場橋物語」と副題のついた「筑波農林研究団地の歴史」という書物を発見しました。平成9年9月の発行で、著者は中村三代吉さん。当研究団地にかつてお勤めだった方です。

この本の中に、地元の方々からお聞きになったり、関係機関などでお調べになったことが写真、地図入りで書かれていました。以下は、中村さんに感謝しつつ、その本より「飛行場」とその後の歴史に関する部分を拾い出してインターネットからの情報や私のコメントを交えて簡潔にまとめたものです。

この飛行場は、昭和9(1934)年に「霞ヶ浦海軍航空隊谷田部着陸場」として開設されました。当時の日本は、前年に国際連盟を脱退し、言論弾圧が激しくなり、2・26事件を翌々年に控え風雲急を告げる頃でした。霞ヶ浦海軍航空隊は、大正9(1920)年、茨城県稲敷郡阿見村(現、阿見町)に建設され、予科練としても知られています。予科練の卒業生は約2万3千名で、その内、18,564名は「英霊」になったといわれます。ここは、その予科練の出先としてスタートしたのです。

谷田部着陸場は、本格的には昭和13(1938)年、この地、すなわち茨城県新治郡小野川村大字南中妻字布袋(ほて)の地を全面買収し、そこにあった全戸が移転して作られました。全戸が何戸であったかは不明です。翌年、霞ヶ浦海軍航空隊谷田部分遣隊が発足し、その開隊式が12月1日に行われました。そこには、訓練部隊が置かれたのでした。

昭和16(1941)年には、谷田部海軍航空隊に昇格します。中村さんの本に掲げられた当時の写真によると、航空隊本部は木造2階建てで、中央に見える玄関の屋根は手前に張り出し、車回しになっているようです。玄関前には、屋根より高く軍艦旗が上がっています。下士官集会所という写真もあって、同じスタイルの木造2階建てがカギ形に建っており、戦後、よく見かけた中学校や高等学校の木造校舎の雰囲気に似ています。

航空隊に昇格した年、太平洋戦争が始まります。昭和19(1944)年になると、南洋方面の日本軍の玉砕が相次ぎますが、訓練部隊から首都防衛のための実戦部隊へと位置づけが変わり零戦など戦闘機が配備されました。沖縄戦以後は特攻隊が編成され、第一昭和隊などがこの基地から出撃したとのことです。終戦間近の8月13日になるとここも空襲を受け、敗戦とともに当航空隊は廃止されました。

航空隊は廃止されましたが、「飛行場」は、その後の歴史をもっているのです。

終戦直後、昭和20(1945)年9月から当航空隊跡地の開拓のため、主として横須賀海軍航空隊の皆さんが入植しました。入植当時の年齢構成は、20〜30代が多かったそうです。滑走路跡のコンクリート撤去作業は人力で行われました。耕起作業にはキャタピラ・トラクターも使われましたが、整地作業、道路や排水路の建設工事など人力で行う作業も多く、苦労が多かったといいます。

飛行場橋の南側の道路は今、桜並木になっていて春はおおぜいの人達の目を楽しませています。桜を見終わって、橋を北に渡ったあたりには「農場」という地名がついています。国土地理院の地形図にもそのように記載されています。この名の謂われも気になっていました。次のように、ここ飛行場跡にちなんだ名前でした。

開拓者は、まず自由農場という名のついた組織にまとめられたのだそうです。それを運営するのに、農耕、畜産、加工、機械、農機具修理などの班編成により共同作業が行われました。ランプ生活から始まり電気が入ったのは昭和28(1953)年だったといいます。「電通記念」と書かれた集合写真が、中村さんの本には載っています。この年、NHKのテレビ放送が始まっています。その後、近隣地区にあった開拓組合が合同し、筑波開拓農業組合に統合されたとのことです。

農地の区画は50aで、一戸あたりの基準面積は1.5haでした。開拓地最後の頃の空中写真を見ると、全体が、北の一郭を除ききっちりとした矩形で、その中がやはり矩形の40区画に区切られています。その矩形は、北西から南東に向かって延びていて、北の隅が斜めに切り取られたように欠けています。

作られていた作物は、馬鈴薯、甘藷、トウモロコシ、陸稲、粟、稗などが中心でした。これら作物は夏作です。ですから冬は、農閑期で土木作業等に従事することが多かったようです。この間、昭和23(1948)年頃には和牛、豚が導入され、昭和30(1955)年頃になると乳牛の導入も行われました。大型トラクターと一連の作業機が使われるようになるのは昭和36(1961)年以降でした。

地形図を見ると、「農場」という地名のある区域の一端、常磐高速道のすぐ北側に神社の印があります。訪れてみるとこぢんまりした神社です。これは、開拓地の村社をここに移し祭ったものとみられますが、開拓当時は、この神社が矩形の開拓地の中心より北寄りにあって、そこには集会所も建っていました。集会所や神社の前で撮った集合写真があります。中村さんの本に掲げられた農家配置図で農家数を数えると46戸です。それら農家は、神社辺りを中心に同心円状に分布し、南寄り、西寄りにはほとんど農家はなく農地ばかりでした。

この地の開拓は、昭和43(1968)年で終了しました。すなわち、昭和44(1969)年から、筑波農林研究団地の建設計画が着工に移されたからです。上記、46戸の農家があったあたりは、多分、ほとんど全てが、その後、農林研究団地と一部が常磐道の用地になっているのではないか、と地形図を眺めながら想像しました。46戸の農家は、その後、どこへ移転したのでしょう。

「飛行場橋」という名前は誰がつけたか、を見ておきます。この橋は、昭和55(1980)年に建造されましたが、この橋の供用開始まえに、日本道路公団が、地元の関係者の意見を聞きながら命名した、と中村さんは、つくば市にお住まいの関係者からの話として書いておられます。その関係者の脳裏には、以上のような歴史が走馬燈のように浮かんでは消えたのではないでしょうか。

 参考文献
  中村三代吉(1997):筑波農林研究団地の歴史:飛行場橋物語、財団法人農林弘済会印刷

 参考ホームページ(2007.12.19現在)
  愛国顕彰ホームページ「祖国日本」の内、神風特攻隊、特攻基地、谷田部:
    URL: http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/sinpu-yatabe.htm 
  飛行機と鳥のページ、レポート、谷田部海軍航空隊:
    URL: http://www.geocities.co.jp/MotorCity-Circuit/7621/yatabekokutai.html


 参考地図
  国土地理院1/25000「谷田部」図幅

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