淵野辺にて
今日(2012.2.27)は、ちょっとした用事があって、横浜線淵野辺まで行ってきました。今回私のとったルートでいえば、京浜東北線の東神奈川で横浜線に乗り換え、新横浜、町田を通過して少し行ったところ、八王子まではややしばらくといった位置になります。 青い太線が私の辿ったルート。Aが淵野辺です。京浜東北線と書いたプレートの裏側に「鶴見川」という字があります。 町田には、50年ほど前に、丁度この季節、大学受験のための宿を取って、3,4日滞在したので、そのあたりの様子もよく覚えているのですが、当然のこと、そのころの様子は、痕跡といえども見当たりません。 町田から小田急沿線、新宿方面もかなりなところ、多分、多摩川近く、今は無き向ヶ丘遊園辺りまでは農村風景だったのではないでしょうか。視線を横浜線沿線にもどせば、新横浜辺りは、新幹線が通り、駅が出来てもかなりの間は、駅前に畑が残っていたものです。今でも、住宅の間に畑を見ることができます。この時期は野菜も端境期で土が露出していて、これから砂塵の飛ぶのを防ぐためか、ブルーのネットに囲まれています。横浜のサッカースタディアムは、そんな中に偉容を誇っています。 町田を中心とした内陸の地方は、その当時、本当に農村地帯で松林やいわゆる雑木の林がみえて、畑には黄色っぽい土が露出しており、玉川学園あたりの高台には黒土が見えていました。街道沿いに電信柱が並んでいたのをなぜかよく覚えています。 今は、隙間なく住宅が建ち並び、木々といえば台地の肩、あるいは懸崖に少しだけ残っているといった風景がもっぱらです。ゆるやかな丘陵の斜面は勿論のこと、かなり急傾斜な斜面にもてっぺんまで住宅が並び、そこからは眼下に屋根の並ぶ景色がよくみえることでしょう。 横浜線の車窓から、東京側にそうした斜面を眺めていると、斜面の手前に線路につかず離れず流れている川が眼に入ります。鶴見川とその支流の恩田川です。地図を見ると、横浜線の鴨居と中山の駅の中間近くに合流点があり、そこから上流部は恩田川が横浜線に沿って流れています。鶴見川の源流は、淵野辺の北部、町田市上・下小山田町辺りにあるようです。町田を過ぎると、さらに別の川が線路の右側に見えてきます。この川を地図で下ってみると、江ノ島の横で相模湾に入る境川なのが分かります。ちなみに、境川は、この辺りでは、神奈川県と東京都の境、したがって相模原市と町田市との境になっています。 鶴見川は、東京湾に流れ出ていますから、目立たないけれど、この辺りに東京湾側と相模湾側を分かつ分水嶺が走っていることになります。つまり、町田の辺りで横浜線が分水嶺を越したことになります。また、鶴見川源流部の北側には、多摩川の支流がありますので、多摩川流域との分水嶺でもあるのです。標高は、130m余ですが、本州島にたとえれば、利根川水系と魚野川・信濃川水系を分かつ谷川岳・朝日岳連峰のような位置づけなのです(ちょっと大袈裟かな)。 町田から淵野辺に行く手前に古淵という駅があります。地図を見ると、淵野辺に近い境川傍に中淵という地名も見えます。ということは、その辺りに川の水が貯まる地形、つまり淵の出来る地形があったのでしょうか。境川が、昔、この辺りで曲りながら流れ、所々に淵を形作っていたのではないでしょうか。歴史を旧ると流れも変わり淵も埋まり、そこには古淵という名前で淵のあった記憶が残りました。淵野辺は、大きな淵の傍にしっかりした台地があって、そこに集落ができたことを偲ばせます。しかし、近代化の波の中で、治水対策も必要になり川は真っ直ぐに改修され淵も瀬も姿を消してしまいました。そんな想像をしてしまいました。 淵野辺駅の周辺には、商店や銀行などのビルが並ぶとはいえ、バスで数分走れば住宅地になります。台地の南側下には、広い敷地に塀を巡らした、いかにも元農家といった風情の屋敷もあるのですが、多くは建て込んだ新興住宅の街並みです。バスで移動して行くと、そんな中に突然、大学キャンパスが現れます。そこと住宅地を挟んだ線路沿いには青山学院大学があり、電車の窓から良く見えました。桜美林大学付属の中高校もあるようです。桜美林大学のロシア文学の先生にお会いするのが、今日の仕事なのです。 先生にお会いしたあと、春めいてきた空には、ズングリした大型飛行機が飛ぶのが見え、厚木、横田の基地が近いことを思い起こさせます。そういえば、この辺りは町田と相模原の境界にあたります。相模原市は、政令市になって、今やこの周辺は大都会郊外なのです。淵野辺は相模原市中央区に属し、桜美林大学は町田市に属します。 日本人の多くが、かつて暮らした田舎から都会に出てきて働き、最初のアパート暮らしから始めて住宅を建て郊外に住むといった行動を取ってきたのでした。都会周辺から、豊かな農地は消えてゆき、食料は多くを輸入に頼り、平野を手始めに山間の地まで田畑がどんどん減っていったのでした。減った田畑は、外国に出て行ってしまったのでしょうか。 大地震が心配される大都会で、また田舎の地で、かなりの人たちが、こうした戦後史を思ってか思わないでか、日本人のそうした行動を振り返ってみているのです。しかし、考えて見たところで、すぐにどうこうするわけにも行かず、結局、考えることを止めてしまっているのが実際かもしれません。さて、これから、私たちはどうすればよいのでしょうか。 |