忠ちゃん牧場

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多分、それは「郷土をよくする会」の機関誌だったろうと思う、「忠ちゃん牧場」が富士山麓にオープンした、といったような記事だった。

御殿場からやや離れた未開の地に、たくさんの牛を飼って町にミルクやバター・チーズなどを供給するという夢を抱いて入植するという、その夢をまるで自分の夢のようにわくわくして読んだ覚えがある。すでにそこには牧場ができ始めていて、木の柵がめぐらされ、子牛の姿なども写真に写っていたように思い出すのである。

それ以来、広々とした富士の裾野でたくさんの白黒斑のホルスタイン牛が草を食む姿を忠ちゃん牧場の姿として頭の中に作り上げてしまった。いつかそこを訪れ、牛が群れ遊び、出荷されるミルクの缶が忠ちゃんによってトラックで運び出されるところを見送ることができるものと思い続けてきた。

それは、その記事を読んだ当時としては、とてつもなく先進的で、全国津々浦々の農村で、お百姓さんが食料増産に励み励まされていた、その最前線にいるように思えた。戦後のひもじい時期を曲りなりに乗り越え、戦後開拓も落ち着くところに落ち着きつつあって、さらに新たな農業改革が模索されていた頃だったろうと思う。農村の将来像が、全国の小中学校で作文や図画として描かれ、農業はこれからの日本を支える重要な産業であると奨励されていたのであった。技術の飛躍も期待されていたように思う。

私が、その後、大学を選ぶにあたって、農学部を前提に、自分の勉強科目の得手不得手とつき合わせて考えるようになったのも、忠ちゃん牧場が大きなウェイトを占めていたように思うのである。富士山という大自然の中で、自然の恵みを仕事として生きる忠ちゃんのような生き方がこのうえなく尊いものに思えたのである。そのような尊い生業として農業があり、それを追求しようとする姿勢は、以後、一時たりとも変わることがなかったように思う。

その後、変わってしまったのは、我が国における農業の位置づけであった。アメリカなどから、自動車など輸出産品の仇として位置づけられ、日本国政府もそれを受け入れ、食料はアメリカをはじめとした諸外国から多くを輸入して済ますこととされてしまったのである。コメが余り、次は果物だ、畜産だ、と言われてそれに従い、とうとうコメまでもが外に向けて開かれるようになり、農村には過疎が広がり、草ぼうぼうの農地や山林があふれ、都会にも貧困があふれるようになってしまった。

忠ちゃん牧場は、かつての最先端を行く姿から、自賄いしなければならない観光農場に変身している、と私は聞いた。あの忠ちゃんからひょっとすると世代代わりをしているのかもしれない。今、東海道新幹線で行き来して富士の山麓を眺めながら、あえてすぐそこを訪問することをしないでいるのは、あの夢の姿が、私の頭から消し飛ぶのを恐れているのかもしれない。そして、私は、あの頃の夢、熱気、希望としての農業が形を変えて、必ず、戻ってくる、戻らないではいない、と深く思うのである。

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