磐梯・猪苗代紀行
                      ・・・野口英世の面影と磐梯山を訪ねる旅

トップページへ戻る
目次へ戻る

はじめに・・・野口英世と磐梯山

磐梯山周辺は、私どもの住んでいるつくばから比較的近いところにあるにもかかわらず、30年間、行く機会を得ないで気に掛かっていた。猪苗代は、私にとって何といっても
野口英世の郷里というイメージが強い。小学生の頃、「野口英世の少年時代」という映画を学校で見せられた。左手の不自由を抱えながら際立ったがんばりにより、冬の寒さの中でも冷たい水で廊下掃除をしたりして勉学に励み、短期間で英語をマスターし、東京に出る夢を果たした、といった筋を白黒の画面で思い起こすことが出来る。努力という行為の大切さをその映画は私にも植え付けてくれたように思う。

もうひとつは、
民謡の会津磐梯山である。

 エイヤ〜ア
 会津磐梯山は〜 宝〜の〜や〜ま〜よ〜
 笹に黄金が え〜また〜なりさ〜が〜る〜

 小原庄助さん 何で 身上つ〜ぶした
 朝寝朝酒朝湯が大好きで
 そ〜れで身上つ〜ぶした
 ア モットモダ〜 モットモダ〜

子どもの頃から、多分、祖母が歌ったのだろう、それは私にとって最も親しい民謡のひとつであった。

比較的近年、そう、野口英世が少年時代に見たであろう大噴火、その話も耳に入る機会があった。山頂が吹っ飛んだと思わせる二つ峰の山容は、ほどよくバランスしていて早い時期に記憶に焼きつけられた。多分、猪苗代湖も一緒に写っていたかも知れない。磐梯山と猪苗代湖とがセットになったイメージが強いのである。



 
野口英世生家付近から見た磐梯山


猪苗代湖の畔、翁島で野口英世は生まれたと記憶している。偉人と呼ばれる人が、どんなところで育ったのか、どんなところでその仕事をしたのかということが私にはなぜか、とても気になる。その人が
どんな環境のもとでそれをなしたのか、その場に立って実感してみたい、とよく思うのである。それは、文学の中に描かれた人物であることも多い。日本だけでなく、外国であっても、もちろん良いわけである。今回は、それが野口英世の生まれ育ったところというわけである。


全ルート概要

さて、この旅に先立って、猪苗代・磐梯地域までどのコースで行くかを調べてみた。車だと、常磐自動車道→磐越道で郡山を経由して行くのが3時間半の行程。鉄道だと、常磐線→水郡線→磐越西線が近いのだが、5,6時間もかかる。常磐線→磐越東線→磐越西線もそれ以上である。時間的には、常磐線で上野に出て東北新幹線、磐越西線というルートが早くて3時間半程である。車は疲れるので、それをお金で解決するとして
新幹線ルートで行き、現地では、時間も買うことにしてレンタカーとした。良くあるパターンである。もちろん、ジパング割引である。

               
レンタカー 日産マーチ

10月18日
(月)、朝、8時17分のバスでスタートし猪苗代の駅に12時半頃に到着。遅めの昼食をとってスタート。野口英世記念館、英世縁の場所をめぐりつつホテルへ。この経路上の詳細は後記することとして、ここでは通過。ホテルは、磐梯山麓の「磐梯山温泉ホテル」。夕方5時前にチェックイン。冬のスキーリゾート用のホテルである。連れが、えらく気に入ったようだ。

ホテルではゆっくりくつろぐ。ここの湯は、泥水のように赤く濁っている。ナトリウム塩化物強塩温泉と書かれているが、赤い色は酸化鉄の色ではなかろうか。

翌19日朝は小原さんに倣って朝寝、朝湯をする。朝酒までとると身上をつぶすのでそれはパスして、9時半過ぎに出発。有料道路沿いは、紅葉が始まったばかりという感じで、所々にまっ赤に色づいたナナカマドなどが見える。猪苗代湖が見渡せる場所で小休止(下の写真)。初めての土地に行くと、そこを見渡せる高みに登ってみることを試みているのだが、今日のこの場所は、少し西山麓に寄っているので、猪苗代湖は西側半分近くしか見えない。そして猪苗代町は主要部を見ることができず、会津若松が丘に囲まれてチラッと見える、というところ。山中を抜け桧原湖畔に出て、磐梯山噴火記念館へ。ここの内容も後記。小野川湖畔に、キャンプサイトがあるのでそこに寄る。人気も少なくて静か。庄助小屋とかと名がついたキャンプ場管理小屋がある。桧原湖を一周、小一時間。湖畔で昼食、地元の新そば、とのこと。

 
中央に光って横たわるのが猪苗代湖

五色沼に東側から入り、毘沙門沼の散策路を歩く。中国人観光客がいる。そういえば昨夜のホテルにもツアーで大勢来ていた。まるで、中国へ来ているみたいだった。途中、秋元発電所などを眺めながら、余裕をもって猪苗代湖駅に帰還、レンタカーを無事に返す。登山客なども集まってきて、予定の電車に乗り帰路へ。磐越西線中で小半時の昼寝。上野で夕食を済ませ、以下、慣れたルートで帰宅。

ここで、GPSに記録させた旅のルートを地図に落として掲げておくこととする。




野口英世の光と影・・・野口英世記念館にて

野口英世記念館には、
英世の生家が復元され、茅葺き屋根の家が、コンクリート柱で支えられたもうひとつの屋根に覆われて建っている。前庭には、いろんな記念碑がある。縁側では、大型テレビで、生家の説明などの画像を流している。土間には入ることが出来て、入って右側に厩、正面左には台所、その左側が、例の囲炉裏がある居間になっている。

 
英世の生家

生家に向かって右手にコンクリートの立派な展示館がある。生家と展示館の間には
売店があって、そこの小母さんは良くしゃべる方で、英世の時代には雪が今より多く3m程も積もったが、今は1m程しか積もらないと教えてくれた。また、英世は、東京に出るのに、今は磐越西線が通っている山中を徒歩で越して本宮駅(郡山の北の町)に出て汽車に乗ったと話してくれた。猪苗代駅から郡山駅まで電車で小一時間の距離だから、本宮駅までだとしても徒歩では一日行程以上だったのではなかろうか。小母さんは、展示館の2階に英世にそっくりのロボットがあって話をしてくれるから是非見なさい、とすすめてくれた。

展示館では、たくさんの写真や実物で、博士の生い立ち、業績、エピソードなど、伝記を読んで知っていたこと、知らなかったことなどを示してくれる。書棚には英世の伝記類が100冊程も並んでいて、その中には、多分私はこれで読んだと思われる本があった。池田宣政というなつかしい著者による本も何冊か並んでいた。

ところで、気になっていたことがある。博士は、たしかに有名でお札にまでも写真が使われるのだから、立派な仕事をした偉人には違いない。しかし、いまひとつ優れた人格者という材料が少ないような気がしていたのである。チラチラと耳目に入っていたのは、
彼の業績が、その後、かなりは否定されてしまった、ということである。そうした側面には、渡辺淳一が、野口英世の伝記小説「遠き落日」の中でも触れていた。そのあたりの事実が、どのように扱われているか、あるいは、記念館だから、あまりそうしたところは表に出ないのではないか、と思いつつ展示館に足を踏み入れたのであった。

すると、やはり、そのあたりは背景に引っ込んでしまって、ほとんど表には出てきていない。記念館は、博士の事跡を顕彰するのが目的だろうから、それはそれでよいのだけれど、やはり気になる。そこで、この機会に、インターネットで検索して調べてみた。

あるサイトから、要点だけ掻い摘んで拾い上げると下記の通りである:

  野口英世の主な研究内容と現代の評価
                      
研究内容 現代の評価
梅毒スピロヘータの純粋培養 明治44年(1911年) ほぼ否定
梅毒スピロヘータの発見 大正2年(1913年) 評価されている
小児麻痺病原体の特定 大正2年(1913年) 否定(ウイルス)
狂犬病病原体の特定 大正2年(1913年) 否定(ウイルス)
南米・黄熱病病原体の特定 大正7年(1918年) 否定(ウイルス)
ペルー疣とオロヤ熱がカリオン氏病の症状であることを再証明 大正15年(1926年) 評価されている
トラコーマ病原体の特定 昭和2年(1927年) 否定(クラミジア)
アフリカ・黄熱病原体の特定(未発表) 昭和3年(1928年) 否定(ウイルス)
 出典:ウィキペディア、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%8F%A3%E8%8B%B1%E4%B8%96#.E8.A9.95.E4.BE.A1


野口英世の時代には、ウイルスはまだ知られておらず、探索の手段も光学顕微鏡だったのである。彼が使ったという
顕微鏡が展示されているのだが、それは、私たちが中学校の理科室で使うことが出来た程度の古いタイプのものである。その程度の顕微鏡で病原菌を特定するには、多分、事前の培養法が決め手になるのではないだろうか。博士はその高度な手法を身につけていたのではないだろうか。しかし、当時はしばしば、病原体が濾過性である、と表現されていたようであるが、要するに濾過性ということは、その多くがウイルスであることを示すのであって、当時の技術水準では見ること能わずだったのである。 しかし、臨床医学には、それらの病気に対する治療法が期待され、基礎医学には、その実体の特定が強く要請されていたのであり、現実とのギャップを埋めることは、英世ならずとも挑戦すべき課題であったはずである。ほとんど職人的ともいえる培養技術、検鏡技術を身につけた英世は、それを果たしたと確信したのかも知れない。かれの自信がなせる過誤だったのかも知れない。あるいは、思いこみが強かったのかも知れない。病原体が、本当は不明とすべきところを細菌としてしまったところからの私の勝手な推測である。

いずれにせよ、英世の夢、野望は大きく、それに向かって努力する根性が人並み外れていた。科学者にしばしば見掛けるひとつのタイプである。そこから、紙幣に描かれるまでの偉人となり得たのであるが、反面、人格者といわれる要素は少ないのではないかと思われるのである。しかし、そこまで要求するのは過酷すぎるのかも知れない。同じ、アフリカにおける医学にかかわった偉人であるアルベルト・シュバイツァーでさえ、業績もあり人格者とも云われるけれどアフリカ人の間では白人優位主義者と酷評されるのである。人の評価は、理想を云えば、総体としてどうかが問われることは分かるのだけれど、一部ででも偉大な業績を上げた人は、世間では
偉人とされるのである。

 
色づき始めた山間の道。清作もこんな道をたどったか。


猪苗代湖と郡山の間

さて、前記「野口英世の少年時代」は、
英世が東京に出て行くところで終わっていたと記憶するのであるが、当時、猪苗代から東京に出るためには、今は、鉄道が通るあたりの街道を山越えして郡山盆地に出て東北本線の列車に乗ったのである。

その峠路には、今は、沼山トンネルがあって何分もかけずに列車は通り過ぎる。この峠(中山峠)を東から西に越えると、川は太平洋側に流れていたのが、猪苗代湖側に流れを変える。その猪苗代湖からは西の湖畔にある十六橋から日本海に向かい阿賀野川に流れてゆくのである。つまり、猪苗代湖の水は自然のままなら日本海に注ぐのである。しかし、この峠の辺りでは、猪苗代湖の水が峠を潜って郡山盆地に流れ下っている。人工による
安積疎水(あさかそすい)である。疎水が通ったのが1882年と云うから野口英世6歳の時である。鉄道が開通するより16年も前のことである。郡山盆地の水稲栽培を盛んにすることは、鉄道を通すことよりも急がれたのである。

今現在、疎水は、磐越西線の上戸(じょうご)の駅の少し西寄りの湖畔で取水され、すぐにトンネルに取り込まれ途中で発電所をみっつ(中山峠、中山宿駅付近、磐梯熱海駅付近)経由して郡山盆地に導かれている。だから、列車からはほとんど見ることができない。

上戸駅を出るとちょっとの間、見通しが利かないでいるのだけれど、間もなく平野に入って見通しが良くなる。川桁(かわげた)駅のあたりからである。猪苗代湖の周辺が結構広い平野であることが分かる。しっかりした
水田稲作の農村地帯である。

磐梯山の南麓はなだらかに
裾野を引いている。いつの間にか平地になってどこから湖になるのか分からないほどに平野が広がっている。そして、猪苗代湖の西側から南側にかけての湖畔は、丘陵が波打っている。

 
猪苗代湖、この辺りから後ろ側は丘陵、対岸に鉄道

鉄道
が、猪苗代駅、翁島駅を出て会津若松に近付いていくと、磐梯町、広田といった駅の辺り、えらくくねくねと蛇行している。縮尺の小さな地図で見ていると、なぜそんなに曲がりくねっているのか分からない。厳密には、いろいろな理由があってこうなったのだろうけれど、概して地理的理由によるようである。すなわち、大縮尺の地図を見たり現地に行くと、そこは、磐梯町の周辺は街並みを迂回するのだけれど、その他の多くは、丘陵の間の低いところを縫っていることが分かる。今なら、切り通しを作って真っ直ぐに線路を通すのであろうが、当時は、それよりも曲がりくねる方を選んだのだろうと想像する。厳密に云えば、長峰や磐梯の街外れには切り通しを抜けるところもあるのだけれど、全体としては大したこともない丘陵を迂回しているのである。

この鉄道が郡山〜若松の間に開通した(岩越鉄道)のは、1899年、野口英世はすでに東京にいて、この年、フレクスナーに会っている、そんな頃である。彼が初めて磐越西線に乗ったのは、最初の渡米から帰国した1900年7月のことであった。


清作少年の育ったあたり

野口英世記念館は、野口家のあった場所に建てられている。まわりは真っ平らな水田地帯。
沖積土壌の肥沃な水田が広がっている。記念館の2階の片隅にあるパネルによると、太古の昔、猪苗代湖の水面が今より500mもあがっていた時代があったのだそうである。この地帯の基本的地形がその頃に出来たとすれば、平野の基盤はその頃に形作られ、その後の水位低下の間に湖底の一部において平野が形作られたのではないだろうか。磐梯山の安山岩が風化して出来た母材から土壌が出来て有機物をも取り込んで肥沃な沖積土壌を形成したことが想像できる。民謡に、笹に黄金がなりさがる、と歌われたことは、その肥沃さを物語っているのであろう。

 
野口英世記念館の窓より見た磐梯山

英世は、まだこの頃は清作だったから、清作が通った尋常小学校(三ツ和小学校)は、家から目と鼻の先、200mほどのところにあった。清作は、尋常小学校で学業成績が良く、見込みがあるということで、高等小学校教頭であった小林栄訓導は、高等小学校進学を強く薦め、その後、英世の面倒をずっと見守ることになる。その小林が勤め清作が通うことになった
猪苗代高等小学校は、平野からなだらかな山麓にかかる猪苗代の街中にあった。自宅から徒歩で片道4〜5kmの道を毎日歩いて通ったのである。田圃の中の道を行くのだから先が見えるだけ遠く感じたのではなかろうか。その距離が努力の気概を身につけさせたのかも知れないが、昔の人は労を惜しまないこと、驚くばかりである。

清作の登校時には、磐梯山をやや左手に眺めることが出来た。その時に眼に入った磐梯山は、
大噴火の直後の山容である。その噴火は、清作が11歳の夏、1888年(明治21)7月15日のことであった。清作も、さぞや驚いたことであろう。


磐梯山

大規模な水蒸気爆発
により、小磐梯とよばれていた山体が吹き飛ばされ、標高も500mほども低くなった。現在の標高は1,818mであるから、2,300mほどもあったことになる。その山容は、その昔、多くの画家や知識人が描いているが、現在、鞍部のようになっているところと思われるが、円錐状の峰がいくつか見られるのである。噴火によりそれらの破砕物は北側に放出され、それにより埋没した集落もあった。泥流や岩石により堰き止められた川が多くの湖沼を作り出し、桧原村は水没し、生き延びて逃れた人々は、その後、湖の北岸に新しい村を作って移住したのである。噴火による犠牲者は477人であったという。その頃、周辺の火山活動はしばらくつづき、5年後には一切経山、7年後に安達太良山が噴火している。なお、磐梯山は、記録ではおおむね1000年に一度くらいの割合で大爆発を起こしているようである。

今回の旅の目的は、そうした磐梯山の姿をこの目で見てみたいというところにもあった。

磐梯山噴火記念館では、その辺りの経緯、仕組みなどを詳しく見せてくれる。磐梯山に関する上記・下記の記述は、ほとんどそれによっている。それらを頭にたたき込んで、先ずは桧原湖をぐるりと回ってみた。道路は一部を除き、湖畔を走るので、湖の様子を見ることができ(運転手はあまり見ていられないのだが)、所々では磐梯山の姿を少しずつ違う角度から見ることもできる。
大噴火により破砕物を北側に噴き出したので、桧原湖側から見ると、吹き飛ばされた残りの山地形が時々見えて、その荒々しい姿からは、噴火の規模の大きさがしのばれる。吹き飛ばされた山体の重量は20億トンだと云うが、人間のサイズからするととてつもないボリュームの塊が吹っ飛んだことになる。

 
噴火の後を思わせる。磐梯山中腹より

裏磐梯を車で走ると、中小の川をしばしばまたぐ。それらは、もちろん噴火後に出来たものが多いのだけれど、それらを見ていると、噴火で押し出された岩石と泥流が麓を大規模に覆ったことが想像される。そして、
堰き止められた川が新たに湖沼を作り出した様子を目の当たりにするのである。桧原湖、秋元湖、小野川湖はとりわけ大きいが、五色沼など小さな沼を含めると約300を算えるという。五色沼のひとつ、毘沙門沼は、エメラルドグリーンの水をたたえ、大きな鯉なども泳ぎ、水鳥も大きな三角波を水面に描いて、我々観光客の目を楽しませてくれているけれど、それらを見ていると、火山は風光明媚を演出する前に大きな天変地異を起こすのであり、そうした自然の力に畏怖の念を抱かなければならないことを思わせるのである。



毘沙門沼から磐梯山が垣間見えた     カモが悠々と泳いでゆく


紅葉

この旅行を計画したときには、紅葉を多少期待したのであるけれど、それは、標高の高いところ、たとえば、1300〜1400m以上まで登らないと盛りを経験することは無理なようで、下から紅葉前線を上に見て指をくわえる状態だった。磐梯エリアから吾妻エリアに移動し磐梯吾妻スカイラインを経て福島市にでも抜けるならば、スカイライン上で紅葉の盛期を味わえたようである。平場(といっても、標高800m前後)ではまだナナカマドの並木が赤く色づいてはいても本格的にはこれからというところ。ホテルから裏磐梯にかけては最高でも1200mなので
紅葉は始まったばかりというところであった。

 
毘沙門沼の紅葉は始まったばかり


父親、佐代助のこと

ところで、野口英世の伝記、そしてこの記念館でもそうなのだが、お母さんシカのことは頻繁に目にするのだけれど、お父さん佐代助の影が薄いのである。

酒飲みで金づかいが荒かったように伝えられるが、英世の器用さ、立ち回りの早さなどは
父親譲りとする記録もある。彼は、小檜山家からシカの婿養子として野口家に入っている。町の郵便局の逓送夫として働き、上戸、若松の郵便局を行き来したという。行き来の手段が歩行とすると、今から思えば大変な労働であるが、当時は、多分、当たり前のことであったのであろう。後、末子の野口清三さんに付いて北海道野付牛(北見)に行っていた時期もある。1923年に没している。英世没年の5年前である。

かくして、懸案だったことどもがいろいろと分かったり、結構満足できた旅であった。

                              (2010年10月18〜19日実施)

目次へ戻る