浅草から一葉記念館まで
昨日(2008年11月19日)は、思い立って、連れ合いともども浅草と一葉記念館周辺に行ってみた。 TX(つくばエクスプレス)で浅草駅に降りると、浅草寺への案内書きが誰の目にも入るほどの大きさで張り出されている。街中へ顔を出してからも街灯の柱にやれ浅草寺方向、伝法院通り方向などと書かれているから、通りがかりにきれいなお姉ちゃんや粋な兄さんに気をとられなければ間違いなく主な施設などにはたどりつける。途中、浅草演芸ホールには開演前から行列が出来ている。通りの店先には、骨董品や昔懐かしい手作り木工品などが目につく。なにがしかの食いもの屋にも開店前から行列が出来て、体育会系のお兄さんなども行列している。 仲見世通りに折れると、中国語、英語、その他外国語が飛び交っている。大男を見上げて流暢な英語で商品を勧めている女店員の声も聞こえる。写真を撮っている人々の脇をすり抜けながら、本堂でお賽銭をちょっとだけ投げてからちょっとだけお祈りして、東京大空襲で焼け残った銀杏の木などを見つつ、ここを訪ねた本命の「満洲母子地蔵」のお詣りに向かう。ここでもお賽銭を金属製の賽銭ポストに入れてからご対面。合掌。連れ合いは、「帽子もねんねこもなくて寒そう」といっている。つまり、今まで、来たときはいつもそれらを被っていたのだそうだ。正月前で準備中ではないのか、というのが小生の言い分。 仲見世通りをまた外国語を聞きながら雷門に出て写真撮影。実は、小生は、小学校の修学旅行のバスの窓からこの大提灯を眺めただけで、中に踏み入ったのは、今日が始めて。ちょっと、感慨深いものがある。 東武電車の駅に行って、この先乗る「めぐりんバス」乗り場を確認する。このバスは、台東区が運営しているらしく、「北」、「東西」、「南」のコースに分けて15分間隔で運行していて1回100円也、1日券300円というのもあり。こういうバスを都内各区がやっているのだろうか。 隅田川越しにビール会社のビル上に乗っている変なものを横目に、昼飯の駒形どぜうまで歩く。まだ、正午前なので席は空いている。どぜう鍋定食を食す。どぜうの味は、昔、どこぞやで食した柳川鍋のそれとあまり変わらない。敢えていえば、ネギとタレがほどよく馴染んだところで口にしたどぜうの味が美味というところか。連れ合いは、骨ばっているのが気に入らん、みそ汁の味噌が気に入らん、と不満足げである。そのせいかどうか、早々と疲れが出て、午後の行程を短縮しようと言い出した。 さあ午後は、まず吉原に繰りださんと勇み立っていたのだけれど、「あんた!どこいくの?」とまではいかないまでも、予定していた見返り柳の吉原大門前でバスを降りるのを止めて、一葉さんの記念館に直行しようという。今は、別に何もなくとも、吉原に行くのは、おなごにとっては抵抗ありや?「そんなに歩くのは、ごめんだよ」と言うのが理由なのだが。 それで、仕方なく「北めぐりんバス」で、浅草駅から始めて、隅田公園は、瀧廉太郎の「花」の記念碑があるというあたりから、グルグルと回って、見返り柳もガソリンスタンドの前にチラリと眺め、バス窓越しの観光をして三ノ輪駅でUターンに近い大回りをする。このあたりは、交通の要衝で、めぐりんバス以外にも、地下鉄、都電、JR常磐線、TX、都バスなど、何でも乗れる。バスから振り返ったら常磐線らしいガードが見えた。間もなく一葉記念館入り口。ここでも、下車すると道角に「一葉記念館はあっちですよ」と小さめながら標識が教えてくれる。そこを入ると、電柱に人の背ほどもある立て看板に矢印付で単に「トイレ」と朱書したのが立っている。何だこれは、とぶつぶつ言いつつ行くともうひとつ、今度は矢印無しのが立っている。そこまで行ってみると、そこが一葉記念公園になっていて、公衆トイレもある、というわけ。 そこには、佐佐木信綱さん作ならびに筆になる「一葉女史たけくらべ記念碑」が建っている。碑面は、現代人にはチョット読めないので、脇に活字体で説明書きが立ててある。それでも難しい文語体で非定型の歌である。もうひとつ、公園のしょっ口にある一葉旧居跡と記念碑建設の歴史とを記する碑文は、ゆっくり読めばちゃんと読める。ここが、一葉にとって重要な地であって、昭和12年に菊池寛が文をして最初の碑を建てたが、軍人が国を誤った結果、戦火に見舞われ熔けて失われた(そうか、この辺も空襲がひどかったんだ)、今(昭和24年)、菊池は亡いが、として小島政二郎の文により改めて碑を作ったのだ、という意味のことが書されている。 じつは、今建つコンクリート3階建ての記念館は平成18年11月に建て替えられたものであって、それまでは木造の記念館がここに建っていた。それは、昭和36年に建てられたのだ、と記念館パンフなどに解説されている。小生は、36年ぶりのこの地訪問である。つまり、木造の記念館に、昔来ているのである。その時も、23日の一葉命日は混み合うだろうと、今日と同じくわざと外した。当時の記念館は、木立に囲まれた確か2階建ての学校の校舎のような建物で、中も蛍光灯か何かのあかりで、今思うと暗ぼったい中で資料などを眺めた記憶がある。やはり11月の20日前後だったように思う。今回、急に思い立ったのには、そんな季節の類似がいくらか作用していたかも知れない。 さて、一葉記念館では、ちょうど「吉原つむぎうた〜一葉が見た吉原〜」という企画展示をやっていて、吉原の当時と今の比較をした地図からはじまって、遊郭の詳細な模型が部屋狭しと据えられ、ベンガラ格子の廊下から、遊女の部屋、まくらがふたつならんだ客間、お座敷、風呂(なぜか、着物を着たままの遊女が風呂に浸かっている)などまで見せてくれていた。花魁が八の字歩きというのか、それをするときの三枚歯の高下駄、お歯黒道具、かつら類等々が展示されている。吉原大門の反対側、つまり一葉さんの住んでた街の側から吉原に出入りするには、お歯黒溝を跳ね橋で渡る必要があったのだが、そんな様子もやはり細かな模型や絵はがきなどで再現されている。精巧な模型である。それら展示を見た後で旧吉原地域と竜泉寺町周辺を、千束稲荷や鷲神社などもふくめまわってみると、「たけくらべ」の世界の何かが見えてくるのかも知れない。 一葉の常設展示室にも、一葉達の竜泉寺町のジオラマがあって、これも精巧なつくりで、一葉の「あらもの、だがし店」という障子看板の字までも読める。いろんな商売をする店が並んでいるが、「たけくらべ」などと比べ読みすると雰囲気が生で伝わってきそうである。 (一葉記念館パンフレットより) 一葉さんは、吉原の、いわば裏門通りの竜泉寺町にはほんの10ヶ月しか生活しなかったのだそうだが、そういう場所柄もあってか、短期間に、人生・社会勉強を豊かに経験したらしく、その後の作品、「たけくらべ」「大つもごり」「十三夜」などにそれらが実をむすんだと、展示物などが教えてくれる。 彼女の系図事項をみると、多分、親爺さんの血を引いてることも大きそうで(つまり、そうなる資質の遺伝子が親爺経由で受け継がれてるようで)、そこにも興味を覚えさせられた。すなわち、甲斐の国は、中萩原村(現、甲州市)で、出来ちゃった婚がゆるされず、ふたりは表街道ではなく、山の中、鎌倉往還を抜けて籠坂峠伝いに江戸まで駆け落ちしたのだという。その後、伝手をたどって何とか同心に取りなしてもらい、明治になると上手い具合に東京府の末席に職を得ている。つまり、農民から士分になったわけである。そうした例は、当時、結構あったとのこと。その後、不動産屋ほかも営み、進取の気性のある人だったらしい。そうした親爺さんの生涯は、がんばりやの文学少女を生むには十分の要素をはらんでいる、と想った次第である。 今日は、駆け足だったが、この浅草からその北側あたりは、下町の有名無名の地・事跡が散らばっている。たとえば、古い木造二階建ての板壁の家。薄い板を、雨が入らないように上から順に重ね、縦に垂木で押さえつけた壁、何とか呼ぶのだが思い出せない、そんな建物が突然眼の前に現れたりする。鶯谷駅のこちらがわ近くには子規庵。三ノ輪橋の東方には平賀源内の墓、同じく北に少し行くと南千住、「蘭学事始」で、三人が駆けつけて腑分けを見た小塚原刑場の跡、今、そこに首切り地蔵が鎮座している。池波正太郎記念文庫も浅草寺の入谷側、生涯学習センターにあって「鬼平犯加帳」の世界に近づけるらしい。歩くのに面白そうな地域である。だから、我々のほかにも、結構、そんな見物をするらしい人たちにもお会いした。 そんなこんなの勉強をさせてもらって、ふたたび「めぐりんバス」のお世話で鶯谷の駅まで行き、駅前で一服後、秋葉原に出てTXで帰宅したのであった。万歩計は7000歩余を示していた。 |