自然環境の保護について

  1. 水とのかかわり

  2. きれいな空気を求めて

  3. 共生の世界を築くために

  4. エネルギーを考える

  5. 公共事業と開発について


  1. 水とのかかわり

     私達の生活に水は欠かすことができません。私達の身体の2/3は水分でできています。通常一日に2〜3リットルの水を必要とします。だから食べ物がなくても水さえあれば、かなりの期間生きていることができますが、水がなければたちまち死に至ります。そのように大切な水ですが、いま私達は安心して飲むことのできる水が本当に得られているのでしょうか?

     昔と違って現在は、きれいな地下水を飲料水にすることは出来なくなってきています。ほとんどは上水道を利用していますが、都市の上水道のほとんどは汚れた河の水を取り入れて、それをろ過し、殺菌消毒して水道水として供給されています。そのため、取り入れる水質によってはカルキ(塩素殺菌)臭が強くそのまま飲むには抵抗を感じますし、そのまま調理に用いると本当の味が損なわれてしまいます。そのため浄水器なるものが商品化されて大変売れているのは御存じのとおりです。

     しかしいくら濾過し、殺菌消毒しても、水に溶け込んでいる有害物質や有害な重金属類を全て除去出来るわけではありません。ではこのような水道水は果たして安全なのでしょうか? 私達の身体の中でどんな影響を与えているのでしょうか? とても心配になる点です。

     すでに日本では、昔のままのきれいな川は、四万十川だけだと言われています。昔は川の水はきれいで、魚がたくさん泳いでいました。夏には私達も川で泳ぎました。今はそんな川は見当たりません。都市開発により川はコンクリートの水路に変わり、生活汚水や工場排水が流れ込み、魚も住めなくなってきています。

     私の家のそばの川も同じで、2,3年前までは土手の草むらでは虫も鳴き、花も咲いていました。近所の人たちが集まって夕涼みをしながら世間話をしたものでした。しかし今はコンクリートの水路に変わり、フェンスに遮られて昔の面影はありません。ご近所との間も知らず知らずのうちに疎遠になってしまいました。これらは自然環境を無視した建設省をはじめ、地方自治体における河川行政の発想の貧困さと、住民である私達の無関心さがそうさせたのかもしれません。

     昔から国を治めるに重要なことの一つに、治山治水と言って河川の氾濫を防ぐためには、先ず山に木を植えて雨水が一時に川に流出しないように、そして地下に浸透させて地下水として供給するようにすることだと聞いています。また川の両岸には竹林や松の木等を植林し、洪水時の護岸の役割を果たすように考えられたとも聞いています。

     現代でも同じことが言えます。山を削り、田畑を埋めて、更には川や海までも埋め立てて都市開発が進められています。工場が誘致され、そのために地下水が汲み上げられて、大切な地下水脈が枯渇されつつあります。
     また工場排水や都市の生活排水の増加ために河川は拡張され、緑あふれていた堤防までもがコンクリートで固められた水路と化しつつあります。このようにして人と水との自然のかかわりが阻害されてきています。大変残念なことです。

     山は雨水を蓄える能力を失い、また雨水の貯留池の役割を果たしてきた田畑も次第に少なくなり、あまつさえ野道までも舗装されて、雨水が地下に浸透し自然浄化されてきれいな地下水が作られるシステムまでもが、次第に破壊されてきています。
    都市公園に形ばかりの緑地が造られたからといって自然の緑とは程遠いものです。今こそ本当の自然を大切にした都市造りが必要になってきています。

     住民である私達も、ただ便利さだけにだまされることなく本当に自然環境を考えて、行政に対して積極的に働きかけることが必要だと感じています。

    ( Jan. 31. '97 )
     
  2. きれいな空気を求めて

     空気と水はいつでも何の心配もなく手に入ると思っていた私達も、自然のきれいな空気と水はもはや容易に手に入らないと最近になってはじめて気が付いたのです。そしてそんなきれいな空気や水を得るためには、大変な代償を払わなければならないことにやっと気付きはじめたのです。

     私が昭和30年にこの南足柄市(当時は片田舎の南足柄町)のフイルム会社の就職試験で訪れた際、早朝に宿舎の窓を開けて胸一杯吸い込んだ空気のそれは、えも言われぬ木々の香りと見渡す限りの家並みと遠くの山、海の方まで澄みきった空の下にピンとはりつめた真っ青な空気が広がっていて、とても感動したものでした。きっとここに就職するぞと決心したことを思い出します。

     しかし、今の当地はどうでしょうか。田畑は開発され人家で埋まり、道という道は舗装され、朝夕の自動車の渋滞は本当に重体の様相を呈しています。また近くを通る東名高速道路などの影響も含めて、大気は汚れ、空の青さも失われつつあります。遠くの景色はいつも暗い霞がかかっているように見えています。

     人間が便利さを求め続けた結果がこのような空気の汚れとなり、光化学スモッグを発生させ、ぜんそくや花粉アレルギーの原因となり、ひいては大気中のダイオキシン(ゴミを燃やす時にゴミに含まれている塩素分が炭素と結合して猛毒のダイオキシンが発生する。ゴミ焼却炉から大気中に大量に排出されていることが分かっている。焼却後の灰にも多量に含まれるため廃棄処理が問題となっている。)による人体への悪影響が心配されています。なんて愚かなことか。昔なら住むのが嫌がられたきれいな空気と緑に恵まれた山間の過疎地へと土地を求めて移住する人が増えています。

     しかし、どこへ移住しても問題の解決にはなりません。今の生活を変えていかない限り昔のような自然は戻ってはきません。便利さを我慢して、更に環境を良くするための費用をそれぞれが負担をし合って、はじめて少しづつ自然を取り戻せる可能性があります。
     空気とか水のようにいつでも容易に得られると思っている私達は、そんなことに金を出したり、便利さを我慢したりはしないでしょう。それではどうしたらいいのでしょうか?

     それにはとりあえず環境対策立法の制定とそれに基づく行政による制限と改革に依らなければならないでしょう。それと平行して学校教育の中での自然・環境教育とマスコミを活用した啓蒙が必要となるでしょう。

    しかし、個人でも今すぐやれることがいくらでもあります。

    そして行政でも今すぐやれることがいくらでもある。

    まだまだ考えればいくらでもあろう。自分自身のためにも、よく考えて、少しでも出来ることから実行しようではないか。
    ( Sept. 23. '97 更新 )

  3. 共生の世界を築くために

     私達は地球を私達人類だけの物であるという思い上がった考えで支配しようとしてはいないでしょうか。人類は万物の霊長であると思っています。言葉を話したり、文字を書いたり、学問や工業化によって他の動物にはない能力と思い込み、益々その自信を深めてきているのでしょう。

     しかし、自然の前には人類の支配能力も何の威力もないことを、地震や洪水などの自然災害によっていつも思い知らされています。それにも懲りず、人間は何とか自然を征服しようとして科学という武器を振りかざして悪あがきを続けています。科学の発達していなかった昔は、人は自然と共に生き、神という人知を越えた存在を認めて地球上のあらゆる生物との共生をはかってきました。
    食べ物にしても必要以上の物はとらず、自然の増殖に合わせて現代のような不必要なぜいたくを慎んできました。今でも未開地の原住民族は、狩にしても、漁にしても必要以上の乱獲は行わず、まず収穫は神に捧げ自然に感謝して食しているとききます。

     私達も昔は食事の前には「箸取らば、天地神(アメツチガミ)の御恵み、父母や衆生(シュジョウ)の恩を忘れず。いただきます。」と言って手を合わせて、自然に感謝し、生きていることを神に感謝しながら食事をしたものでした。「衆生」というのは、世の中のすべての人、あるいはこの世に生きているものすべてのことです。

     それがいつの間にか自然に感謝するどころか、自然を征服しようと自然を破壊し、人間の欲望を満たすことしか考えなくなってしまいました。収穫を上げるために農薬をふんだんに使い、化学肥料に頼り、更には自然の獲物、季節の収穫だけでは足りず、人工的に増殖してまで人間の胃袋を満たし、飽食により平気でそれらの食物を食べ残し捨てています。
    バイオ技術がそれを可能にし、また問題になって来ています。科学がそれを可能にするかもしれませんが、私達はもっと謙虚にならなければいけません。自然を大事にしなければならないのです。

     地球上の動物も植物も人類よりさきに地球上に存在し、あとから生まれた人類と共に進化してきました。私達は共に自然の子なのです。敵対するものではありません。人間のエゴによってそれらを変えたり、それらを絶滅の危機にさらしてはなりません。自然の恵みに感謝し、地球上で共生していくのが正しい道だと信じています。

     そんなきれいごと言ったって人類の増加により食物が不足するではないかと言うかもしれません。しかし考えても見て下さい。飢餓に苦しむ国もあれば、日本のように飽食三昧の国もあるではありませんか。飢餓を救うのも人間の英知です。
     飢餓の元凶は政治の無策、戦争や自然を無視した農作による砂漠化あるいは森林緑地の濫伐による土地の荒廃、必要以上の捕獲による獣や魚類などの生殖の限界を越えた減少ではないでしょうか。それらは全て人間が自然を顧みず行ってきた人間中心の営みの結果だと考えます。

     自然が自然のままであれば、自然淘汰によって地球上のバランスは保たれるように思います。ただ人間が自然に逆らって科学という武器を振り回した結果がこうなったのでしょう。
     人間による自然の破壊が地球上の生態系を変え、果ては人類自身をも滅亡に追い込んでいるのではありませんか。
     私達一人一人が、神を畏れ、自然を大切にする心を持つことこそ、人間社会を救い、ひいては地球を救う事ではないでしょうか。

    ( June. 21. '97 更新 )

  4. エネルギーを考える

     エネルギー問題を考える上で一番大きな問題は、電力と自動車を取り上げるべきでしょうか。資源の少ない我が国では、どうしてもエネルギー源を外国に頼らざるをえません。

     電力にしてみても従来の水力を利用した発電では、ダムの建設により大きな自然破壊が伴いますし、そのダムもやがては土砂の堆積により使用できなくなる時が来るといいます。わずかに夜間電力などの余剰電力を利用した揚水式ダムによる水力発電に希望が持てる位でしょう。しかし今では、ほとんどが火力発電と原子力発電に頼っていますし、火力発電にしても、国内の石炭は枯渇し、輸入に頼っている石油を用いるしかありません。(東京電力の平成8年度のデータによれば、水力7%,火力50%,原子力43%の割合となっている)石油についてもいつかは枯渇すると言われていますし、石油を燃やすことによるCO2などの発生による大気汚染の防止をどこまで減少させることが出来るのか疑問ですし、地球温暖化の防止に対する問題も解決せねばなりません。

     また原子力発電にしても、現在問題になっている動燃(動力炉・核燃料開発事業団)の度重なる事故の発生と事実隠蔽と虚偽の報告の問題は、原子炉の安全性並びに信頼性が十分に保証されていないことを意味し、放射能による環境汚染の危険性を改めて認識させたことと言えましょう。

     それでは公害のない発電システムはないのでしょうか? 資源の少ない日本で可能性のあるものは何か? 太陽と風と地熱と潮流等を利用した発電システムは実用化できないのでしょうか? 一時話題になった燃料電池はどうなったのでしょう? それ以外にも比較的得られやすい天然ガスや水を分解して出来る水素ガスを利用した水素タービンによる発電などはどうでしょうか? 更にもっとクリーンなエネルギーとして、磁力のエネルギーを何らかの形で有効なエネルギー源として活用できれば、将来は明るいのですが、現在の技術では、残念ながらまだ可能になっていません。

     さまざまな試みがなされてはいますが、根本的には省エネルギーに帰着します。電力にしても、石油・ガスにしても消費を抑え我慢すること(出来っこないか?)がもっとも必要なことだと思います。
     もっとも関心が深い自動車について言えば、これもガソリン、ジーゼル共に大気汚染の元凶と言われていますが、この方は意外に早く、電気自動車や電気とガソリンあるいはメタノールなどとのハイブリッド・カーとして実用されるに違いありませんし、より効率の良い排ガスの少ないジーゼルエンジンの改良も進められるでしょう。

     これには、一に排ガス規制という形で法的に規制することと、その実現のための助成を積極的に行わなければならないでしょう。またエネルギー消費税などという形で(環境対策税でも同じ)受益者負担という原則を明確にすることも必要なことではないでしょうか。どちらにしてもエネルギー問題は政治のあり方の問題になってくるに違いありません。

    ( Sept. 25. '97 更新 )

  5. 公共事業と開発について

     公共事業といえば、道路、鉄道、港湾、空港、上下水道、治水、住宅、都市公園の整備等があります。いずれも私達国民生活にとって重要な問題であることは確かですが、またこれらの公共事業によって自然が破壊されることも決して無関心ではいられない重要な問題であります。これらは国の政治と密接な関係があるので、政治に無関心ではいられないことを意味しています。

     最近問題になっているものでは、整備新幹線の問題や諌早湾干拓の開発、長良川取水堰等がありますが、いずれも開発による自然破壊が大きな問題となっています。
     しかし、これだけでなく高速道路を通すために山野を切り開き、そこに生息する動植物の生態系を破壊したり、不必要と思われるような河川の改修による水路のコンクリート化によって魚などの生物が住めなくなっている問題、自然を壊してまで造られようとする人工の都市公園等。
    反対に自然を必要とし、かつ防災上や地下水の確保として重要な森林の保全がおろそかにされていることなど、相互に関連がある問題でもあり、公共事業のあり方や予算の仕組みを解明することはとても重要なことであると考えています。

     公共事業は、不況時の経済活性化のためにしばしば効果を挙げてきました。日本道路公団、住宅都市整備公団、水資源開発公団、農用地整備公団、森林開発公団等、88に及ぶ特殊法人を通じて事業が行われ、工事を施工するゼネコンに多大な利益を与えると同時に、見境無い開発が自然環境を破壊してきました。
     しかし、全てがゼネコンの責任ということでもありません。事業の計画、工事の設計ならびに工事の監督、監査は、全て事業を推進しているそれぞれの法人や国の監督責任でもあります。

     私企業においては、自分の資金を使う訳ですから、計画予算にしても、施工内容や工事業者を選定するにしても厳しく審議して決定します。ところが国の予算や事業については、その詳細については国民に知らされることなくいつの間にか決定されてしまいます。
     自分たちのお金とは関係のない(本当は大いに関係があるのだが)国民の税金を使うのですから(更には赤字国債を発行してまでも)多少高かろうが安かろうが関係なく発注することができるのでしょう。
    要は、獲得した予算をいかに使い切り、次年度の予算獲得に実績として残すかの必要があるだけなのです。

     年度の区切り目である3月になると、予算を消化するために、突然に道路工事などがひしめいて、市民の通行に迷惑を及ぼしているのは御存じの通りです。
    ですから自然環境が破壊されようが、市民の迷惑になろうが関係なく工事が行われる訳です。事実、私の住む近くの2級河川の改修工事の際に、私達が再三環境保全を主張しても、県の土木事務所は工期優先で聞く耳持たずでした。工事で迷惑を被る家には補償金を出してやって口をふさげばよいという考えなのでしょう。なるほど「ごね得」と考えて補償金を多少たりとも他の家より多くもらえば文句は言わないと考えている人たちが多いことも確かでしょう。しかし、その補償金も結局は自分たちの税金でまかなわれているのです。

     自分の損得ではなく「私達の税金を不必要な工事や、環境を損ねる工事には絶対に使わせない!」という私達市民の強い意志表明が今必要とされているのではないでしょうか。

     それでは、どうしても必要な工事とは何なんでしょうか?
     一つには自然環境の保護に関するもの、例えば水源確保のための森林の保全、河川の浄化のための下水道の敷設、大気汚染防止のための施設整備。都市、道路の緑地帯の整備等があります。それと自然災害防止のための防護工事、公共施設、公共道路等の保全などが考えられます。

     災害復旧などの緊急を要するものについては、別に補正予算等で計上し実施すべきものでしょう。新都市計画などと言って、やたらと道路を造り、コンクリートの建造物を造ることは、見てくれと格好よいだけの街づくりであって、決して自然を大切にした、住む人が本当に快いと思う街づくりではないと思います。今こそ、現代の自動車中心の便利社会から、人中心の自然を大切にした住みよい環境の社会へ転換する時期にきているのではないでしょうか?

     また公共事業にしても、国や地方公共団体あるいは公共事業主体の特殊法人自体が、厳密な工事見積りや施工管理および監査を行えるようにすることであり、工事設計が自然環境に対するアセスメントを十分行った結果であることが重要だと思います。
     また工事関係者の談合が問題になってはいますが、各種の工事関係会社が広くジョイント・ベンチャーを組み、共生していけるように工事を配分することが、結果的に公共工事の質を高めるのではないかと考えています。また自然を重視した工事設計は、必然的に質の高い、技術的に高度な工法を必要とするため、日本の土木技術も向上するでしょう。

     公共事業に関する官民の癒着と問題点については、別に政治の問題として取り上げてみるつもりです。( Sept. 23. '97 更新 )


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