すたあと長田通信2「2000年冬の号」
おもて | |
---|---|
2ページ目 | 1ページ目(上) |
1ページ目(下) |
うら | |
---|---|
4ページ目(上) | 3ページ目 |
4ページ目(下) |
いよいよやって参りました!! 西暦2000年の幕開けが。きっと時の流れにはどうって事無いんでしょうが気は持ちようで大きな節目の如く思えてなりません。
遡る事30年程前、小学生の私はその節目を40才で迎えるんだと知り胸躍らせたモンです。お陰で40才になるのが待ち遠しくって、待ち遠しくって。しかし、単なる思い込みだと気付くのに30年。思い込みのお陰で胸弾ませた30年間は、まさに・光陰矢の如き・日々でございました。
旧事務所の解体・撤去に、新事務所の設置や配食事業の開始準備にと大忙しの年末年始。はてさて、当「すたあと長田」にとって西暦2000年は如何なる年になりますやら。
何よりも人類が皆すこやかで、世界の平和を願うばかりです(どっかで聞いたような?)。
(真須美)
阪神・淡路大震災直後に、東京のNGO『ピースボート』が、被災地支援にと神戸市長田区の激甚地区、御蔵(みくら)通りに一軒のボランティア用プレハブを建てた。春を迎える頃には、現すたあと長田として引き継がれたが、あれから4年10ヶ月。昨年12月8日にその役目を終え、ボランティアの手に依って解体。
・95年2月建設(3月より現すたあと長田発足)〜
・98年3月震災区画整理に伴い20メートル移設〜
・98年4月より他5団体とで共同事務所として利用開始〜
・99年12月、2000年1月17日の地域犠牲者の合同慰霊祭用地確保のため解体撤去〜
プレハブ2階建てに思いを寄せるボランティアは数えきれず、全国から年末年始や、夏休みを利用しては様々な被災地支援活動に応援部隊として訪れた。
又、昨年4月からは、すたあと長田を中心に、被災地初のボランティア共同管理組合を組織し、現在もその残務作業にあたっているが、12月に事務所移転の末『すたあと長田』と長田区にて識字活動を行う『ひまわりの会』の2団体で、御蔵事務所から程近い長田区五番町の新事務所へと移る。
解体の一部始終にかかわりながら、御蔵事務所建設に汗した一人の青年を思い浮かべた。この被災地に支援の継続を試みようと夢見た青年だ。今は亡き青年にこの住所を伝えたい。
〒653-0003 神戸市長田区五番町7丁目5-5
- どうか皆さんも訪ねて下さい -
被災地から、全国の皆さんにお返しできるもの(こと)には様々な形がありますが、その代表的な一つとして「被災地の経験、体験を伝える」といった活動があげられます。
昨年十一月二十三日岐阜県の木曽三川公園で行われた防災フォーラムにおける『炊き出し体験』で、我々神戸組(すたあと長田の金田氏と私)は『炊き出し体験』の参加者が実践する炊き出しを横から観察し見守り、全ての作業が終わった後で参加者に対しコメントを行うといった役割で、口から先に生まれてきた(らしい)私にとって「見守る=口出し禁止」といった役割は苦痛極まりないものとなりました。
参加者に出された課題は『2時間以内に、公園に遊びに来ている一般の方々に炊き出しを振る舞う』といったもの。簡単そうに聞こえますが、今日初めて会った者同士の共同作業で、なかなかコミュニケーションも取れず、皆が右往左往ししびれを切らした方がコーディネーターとして手腕を振る舞う様になるまで能率の悪い作業が続いていました。
昨今様々な現場でコーディネーターの必要性が提唱されています。今回改めて感じさせられた事、それはコーディネーターの肩書を持った人物が必要なのではなく、コーディネーターの視点が必要ということなのです。
実は今回の炊き出し体験者の中にも肩書はなくともコーディネーターの視点を持った方が何人も存在していらっしゃいました。私自身、長田ボランティアセンターの担当をしていますが、コーディネーターの肩書は持っていません。しかし災害現場も含め、様々な現場でコーディネーター的視点は最も重要なことの一つです。
にわかに登場した『炊き出しコーディネーター』が参加者の意見を集約したり、熱心に炊き出しのメニューを考えたり、段取りを整える姿を見てどこか懐かしい気持ちと自分自身の原典を見た気がしました。被災地からの恩返しのつもりが、自分が得をして帰ってきたようです。
※長谷部氏は大学在学中に震災ボランティアとして鹿児島から駆け付け、後に大学卒業後、神戸市長田区社会福祉協議会に就職を果たした強者です。
(金田)
このコーナーは様々な形で被災地にエールを送ってくださってている皆さんのコーナーです。
…被災地で直接の活動は出来ないけれど…かつてボランティアとして被災地に行ったものの、その後の様子が知りたい…私のボランティア体験談…おらがまちの大自慢…すたあと長田にもの申す…あのサポーターは今…等など、いかようにもお使い下さい。(もちろん匿名希望もOK)
掲載文章は最大量600字ほどでお願い致しますが、紙面の都合上、割愛させて頂く場合もありますのでご理解下さい。
ではココで突然ですが、すたあとサポーターのおめでたネタを幾つか。
私は人口10万ほどの小さな町に育った田舎者として、何かに付けネタにされ馬鹿にされながら「大都会」の隅っこで暮らしている。その私がこんなこと言うたら袋叩きに遭うかもしれない。でもずっと思っていたことがある。この際言うてみる。
長田は大都会やない。田舎やないか。
ケンカを売る気はない。だからこそ田舎者が暮らしやすいのだ、という事が言いたいのだ。はじめ、この辺に住もうと決めたのも、あちこち歩き回った末にこのあたりに「田舎」を感じたからだった。
私が小さい頃まわりに有ったもの。
そして、今はもう「田舎」にはないもの。
それが何かきちんと説明できないけれども、田舎者の波長にぴったり合ったのだ。
暫く住んでいるうちに少しわかった。この街は全国、どころか近隣の諸国から、いろんな「田舎」を持った人達が集まって出来た街なのだ。喫茶店でモーニングでも食べながら耳を澄ますと、九州なまりあり、韓国なまりあり、ニガウリの食べ方の話しあり、実に面白い。みんな、それぞれの「田舎」を連れて出てきているのだ。それが集まって発酵して強烈で独特な「田舎臭」を放っている。
食べ物の種類が多く、安くておいしいのもこの発酵の副産物か。つくづくええとこに住んでいると思う。そら、肥えますわ。
※人物紹介・奈良県より神戸の大学に留学中(?)に震災に遭う。以後5年近くに亘ってすたあと長田で活動中の最古参
前号の「すたあと通信」でもお知らせした通り、すたあと長田は2000年より従来の活動内容に加え新たな試みとして、配食事業を開始する事となりました。
5年前の1995年1月17日に阪神地区を襲った震災で、多くのボランティア団体が誕生し、また現在もこの被災地で様々な活動を継続しています。その内容に各団体毎の特色が有るものの、老若男女を問わず・進んでは学び、学んでは進む・姿勢で、着実にボランティア活動の礎を積み上げていらっしゃいます。
微力ながら私達すたあと長田も震災から今日まで、幾度かの転換期を乗り越え全国の皆さんに支えられ今日に至りました。被災者と地域への支援を中心に更なる活動継続をと考えておりますが、この5年の間に私達が見てきたものは、この被災地ばかりの問題ではなく、この国の問題(危険信号)として扱う必要があると感じられてならず、今回の配食事業のプランへと結びつきました。
私達ボランティアの“やりたい事”と“出来ること”は、必ずしも一致するわけでは有りません。だからこそ“出来ること”を優先し、それを積み重ねることで“やりたい事”に近づきたいと心から願っています。
今年から導入される介護保険制度も、多くの問題を抱えており、ケースによっては導入後さらに負担が増す高齢者も決して少なくはありません。
そんな社会構造の中で福祉サービスのすき間に在る『食』を中心にこだわってみようと考えていますが、毎日型の利点と仮設住宅で重ねてきた訪問活動の経験を生かせればと、有りったけの知恵を絞っております。
震災から5年が過ぎようとするこのまちに、未だ多くの生活不安を抱えた被災者がいらっしゃいます。どうか皆様のご支援を頂けますようお願い申し上げます。
─ 配食事業の基本プランニング ─
※急募
〜配達用の50CCバイク2台や、業務用の流し台、調理台、大型の冷蔵庫、調理道具一式などをお心当たりの方は、すたあと長田まで送ってください。
〒653-0003 神戸市長田区五番町7丁目5-5
tel/fax 078-521-7170