女性の装い
 江戸時代になると,武家や豊かな商家の婚礼では,様々な生活用具を持参するようになった。
 とりわけ婚礼化粧道具や化粧品の豪華さは目を引き,鏡,櫛,かんざし,その他様々な化粧の道具や化粧品など数十品目を数えるに至って,いかに化粧が女性にとって重要であったか ,また,それによって庶民文化がいかに豊かであったかうかがうことができる。

和鏡
 古墳などからの出土があるように鏡は非常に古くから製作されてきた物であるが,元々は舶来品(中国)で古代のクニの王が所有する呪術や儀式で使用する用具であった。
 平安時代頃から貴族たちの間で化粧(当時、髪型・服装などを整えることも含まれました)をする習慣が起こり,鏡が生活の場で必要になってくる。
 やがて,室町時代の終わり頃には,鏡に柄をつけた柄鏡(えかがみ)が出現した。
 鏡に柄がつくようになると,鏡背の中心にあった鈕(ちゅう)が不必要になり,中心にこだわった対称形の文様でなく,鏡の背面に様々な絵柄がつけられるようになった。
 女性の化粧が一般化し,髪型が大きくなるにつれて,鏡も大型化していった。
 需要の増大に合わせ鏡の大量生産が可能になり,庶民の生活にまで普及するようになると, 一つの原型から大量に作られ,繰り返し鋳造された粗悪品が増加することになっていく。

 文様の面では福寿・高砂・鶴亀・富士・蓬莱図など,吉祥慶賀文様などの題材が好まれ,日本の庶民感情に結びついた和風のものが多くなっていく。
 文字が大きく入ったデザインは主として江戸時代後期になってからである。
 裕福な商家の婚礼では,鏡や鏡台を始め,箪笥などひとそろいが特注のデザイン(当時はみな手作りである)で作られ,武家は格式を誇るため負けじと贅沢を極めたようである。

鋳物師銘
 この柄鏡の様式は近世和鏡の主流となり,「天下一」をはじめ「天下一佐渡」「天下一但馬」など鏡師の名称も入れられるようになった。

 そもそもの始まりは,桃山時代,織田信長が手工芸者の生産意欲の高揚促進を目的として「天下一」の称号を許したことから,鏡に「天下一」の銘が施されるようになった という。
 やがて,江戸時代には鏡師のほとんどがこの銘をまねして使うようになった。
 天和二年(1682)に,「天下一」が使用禁止となって,それから「天下一」の代わりに,石見守,肥前守といった受領国名を使用するようになっていった。

 江戸後期になると,右写真「中嶋和泉守藤原吉次」のというふうに,姓・守名・名乗 を並べ立てた長い名前が好まれた。


鏡研ぎ
 顔を写す鏡のおもて側は青銅の表面に水銀メッキをして反射面を作っていたので,使っているうちにさびて見えにくくなる。
 それにはメッキをし直す職人というのがいて,村々をまわって鏡研ぎで商いをして歩いた。
 鏡研ぎは,まず,表面を細かい砥石で研ぎ,朴炭で磨き上げてから,水銀とすずの合金に砥の粉,焼きみょうばん,梅酢などの有機酸をまぜたものを塗ってヨモギでこすりつける。
 最後に柔らかい美濃紙で磨き上げると,青銅の表面は新しい水銀メッキ層で覆われ,再び金属光沢の輝きを取り戻すのである。