青峯山正福寺
  〒517−0042 三重県鳥羽市 松尾町(青峰山山上) п@0599(55)0061
二十一世 山主  堀口誠仁住職
鳥羽駅より車で30分 近鉄松尾駅より車10分 〔ハイキング〕松尾駅より徒歩約1時間
 
 青峰山(336m)は海に向かって開け,鳥羽の海を眼下に伊勢,尾張地方から遠く富士山まで見える。
 鳥羽市と磯部町の境界上にあって,鳥羽市松尾町と磯部町山田から山間の道が通じている。
 国道167号を松尾町から折れて近鉄志摩線の踏切をわたり,松尾町を抜けて山に入っていく。一本道でわかりやすく静かな林道である。一時間ほどのハイキングコースとして,おとずれる人も多い。
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 ここに高野山真言宗・青峯山正福寺があって,古来より志摩地方の漁民の信仰をあつめ,海難事故に霊験があると言われて,絵馬が数多く奉納されてきた。

お船祭
 毎年,旧暦の1月18日の『初観音』の日には,お船祭が盛大におこなわれ,地元はもちろん全国から幸運と厄よけを願うお参りの人でにぎわう。

祭の様子はボタンをクリックする。
大黒屋光太夫
 光太夫がロシアから帰還をはたし,その後,享和二年(1802)四月に,江戸から一時伊勢に帰国を許されたとき,光太夫は青峯山を小平次とともに参詣しているはずであるが,現在資料がなく,残念ながら確証は得られない。

聖武天皇
 海上守護第一霊峰法燈一千二百余年の古刹で ,白子の子安観音寺と同じ高野山真言宗であり,宗教上の親戚となる。
 正福寺,観音寺どちらも,聖武天皇の勅願所であることが寺の縁起に記されている。

 聖武天皇が即位した時代は,律令制が整うとともに国庫が充実してきた頃であった。
 しかし,災害や疫病(天然痘)が流行し,班田農民の逃亡が増え,さらには天平十二年(740)藤原広嗣の乱がおこり社会の不安が極度に高まっていったのである。

 天平十二年(740)に,聖武天皇伊勢行幸をされて,日本全土を仏法に護られた地にするという仏教国家建設を祈願 したのであった。

この歌は伊勢行幸の際,鈴鹿市の若松の海浜あたりで詠まれたと伝えられる。


 天平十三年(741)に聖武天皇は,諸国に国分寺を建てることを国司に命ぜられる。
 国分寺は国立の寺院であり,全国60余国に建設され,僧寺には20人,尼寺には10人の僧侶が配属されたとある。
 またさらには,奈良に全国の国分寺を統括する寺として東大寺を造営し巨大な大仏を安置する計画であった。

伊勢国分寺
 三重県には,国分寺は伊賀国志摩国鈴鹿市国分町の伊勢国分寺と3院が建てられた。
 国分町辺りにおびただしい瓦片(古瓦)が散乱する遺跡が昔から知られていたが,大正十一年(1922)
国分町字堂跡を中心とした約200m四方にわたり国史跡に指定指定された。
 現在,伊勢国分寺跡に隣接して鈴鹿考古博物館が建設され,発掘調査が行われつつある。
 出土遺物はほとんどが瓦類で,須恵器,土師器,山茶碗,円面硯,「智」と墨書された灰釉陶器皿の破片が発見されている。
 瓦は国分寺以前の白鳳期のものも混じって発掘されて,それ以前にも寺院があったことを裏付け,国分寺だけが急にポツンと建設されたのでは無いことが分かってきた。

左写真は,軒丸瓦で単弁八葉蓮華文(約17.5mm)の形式のものが多く
見られ,国分寺の建設時のものと考えられている。
 右は軒平瓦の一部である。唐草文が施された形式が多い。マウスをのせる
 平成11年度より,史跡の学術調査が
始められて講堂の位置を確認,平成12年度の調査では金堂の位置・規模
などが明かになった。
 平瓦は分厚く大きなもので,出土する量から考えても相当の建築とみられるが,国分寺の建設はすべて各国(地方)の負担で,長い年月と膨大な経費がかかったと思われる。
 伊勢国府寺こついて文献的には資料が乏しく,宝亀六年(775)の異常風雨により伊勢・尾張・美濃の国分寺並びに諸寺の塔が壊れたという記事と.大同四年(809)に志摩国府寺の僧尼を伊勢国分寺に移した記事が見られるにすぎない。

 当時,ここの南西8qに国府があり政庁に国司がいた。また古代東海道がこの付近を通っていたと思われていて,近郷に市街が形成され栄えた時期があった に違いない。
 今後の発掘研究の成果を楽しみにしたいところである。


古代の伊勢国
 東海道につながる伊勢平野と伊勢の海は美味し国と呼ばれ,気候が穏やかであり,北勢には豊かな平野が開け,魚介類も豊富に捕れた。また,鍍金(金メッキ)に使う水銀の産地でもあった。
 さらには,大和地方の国が東海から関東に向けて東方支配を確立する上で,重要な橋頭堡としての位置をしめていた。
 金は安定した物質で酸などでは容易に溶かすことができない。
  しかし,水銀によって簡単にアマルガムといわれる物資にかわり,仏像をつくっている銅に塗りつけることができる。そうしておいて加熱すると水銀は蒸発しメッキが完成 ,金色の大仏ができる。
 ただ,この作業は水銀の人体に与える影響を考えていないから,多くの水銀中毒の患者を出すことになって,地獄のような事になったであろうと思われる。

 日本最大の水銀産地は伊勢国(勢和村丹生)にあった。
 延喜式(平安時代に編纂された史料)によると,伊勢国からは毎年八〇〇斤(540s)以上の水銀が収 
められるようになっていた。
  大仏に必要とされた水銀は約2.4tにも及んだが,伊勢国からの四〜五年分にあたる。

 すでに,天武天皇の時代以前,伝説では倭姫命やまとひめのみことの頃より,天皇の神格をもたせた処女の神斎王を伊勢に派遣し,斎宮(三重県多気郡明和町に建設された大規模な町をいう)に住まわせてきた。


 斎王は,http://www.town.meiwa.mie.jp/romantic/saio/saio.html にリンクしている。
 斎宮は,http://www.town.meiwa.mie.jp/romantic/saikuu/saikuu.html にリンクしている。
 伊勢国分寺跡は,http://www.edu.city.suzuka.mie.jp/museum/kokubunzi.htm にリンクしている。
 鈴鹿考古博物館は,http://www.edu.city.suzuka.mie.jp/museum/index.html にリンクしている。
 それぞれのリンク先から戻るときは,で画面を閉じるとこのHPに戻る。

大仏造営
 結局,聖武天皇の「仏教が世の不安を救う」という信仰は,富を大仏建立で使い果たしてまだ足らず,人民の生活を苦しめた。
 さらに平行して首都を次々移転したため,大仏造営は最悪のシナリオをたどるのであった。
 造営事業は技術的にも困難を極め,いくたびも鋳造中の大仏が崩れ落ちた。 銅を熔かす炉が爆発して高温の銅が流れ出し多くの犠牲者がでた。水銀の中毒に倒れるものも増加する。
 困り果てた天皇は,九州の宇佐神宮(宇佐八幡宮)に救いをもとめることになる。
 八幡宮は神託によって東大寺大仏の建立を助け,とくに銅と黄金の入手を助けたと言われている。
 大仏建立の詔を発して9年,ようやく,東大寺大仏殿は天平勝宝3年(752)に完成した。

 現在の東大寺の大仏殿は,はじめの2/3の大きさだそうだが,いまなお世界最大の巨大な木造建築である。建築機械工具がない時代によくぞ建立出来たもので日本人が生みだした奇跡といえる建物 なのだ。

昭和大修理が行なわれ、昭和55年(1980)の落慶法要が盛大に営まれ
た。この落慶法要の写真は,大仏殿南大門にあるパネル写真を撮影。

神仏混淆
 東大寺の八幡池(鏡池)の傍には「八幡宮」(手向山八幡宮)が建てられ,これは大仏の「守護神」として祀られているものである。 国を守るには大仏を建立し,その大仏を守るのに神社を建てる……
 平安を祈るには仏か神か,国を守るには神か仏か,神や仏を総動員して国家の安泰を願ったのであった。 神仏一切の宗教勢力を結集するこのことによってしか,この歴史的大事業を達成するすることは困難であり,この思想の普及に僧・行基が深く関与したであろうと思われる。
 神仏混淆の思想は,元々神の山であった白山三山に十一面観音や阿弥陀如来や聖観音の現れを見た泰澄に始まると言われている。
 行基はそれを受け継ぎ,日本の民衆の中に仏教を普及させた。そうして,東大寺建立を通して神仏混淆の思想を公的なものとして確立したのである。
 神仏混淆の考えは,主として平安時代にもっとも栄える所となって,それが日本人の宗教的信仰の基礎を形成した。
 その後日本の歴史の中で宗教の主軸は神と仏の間を揺れ動いて,時に神に,またある時には仏に信仰が集まることになっていく。

 寺とは,また神社とは国家の権力であり,各地における在地の勢力なのであろうか……。国家は各地の寺々,神社と関係をむすび,各寺社は創建の歴史を刻み,それぞれの由緒として後世につたえられた。

 聖武天皇は,南都東大寺の無事建立を祈られ,伊勢神宮に行幸,朝熊山にこもられたとき,
『これよりたつみの方角(南東)に天朗峯あおのみねという霊験あらたかな観世音菩薩遊化の山あり,この地に一伽藍を建立し尊像を安置すればすみやかに諸願成就すべし』
との夢のおつげあり。
 天皇ただちに行基をつかわし伽藍を建立し,正福寺 となづけたところ,東大寺伽藍御建立成就せりと云う。
 その後,大同二年(807)平城天皇の給旨を受け,弘法大師が真言宗に開宗され今日に至る。
                                       《『青峯山正福寺縁起』より》

 時は移り,律令国家が滅ぶと東大寺を残して国分寺の全ては国家と運命をともにし消えてしまった。
 しかし,仏教はこういった荒廃の中から民衆の中に芽をだし,「護国」から「海上守護」「疫病忌避」「火除け」「厄封じ」「雨乞い」などの民衆の願いに形を変えて中世に移りつつ,仏教は次第に広がっていったのである。

海上交通守護
 鳥羽は江戸時代,伊勢湾から江戸,大坂に出ていく船の風待ちの湊として栄え,この青峯山は海上からの目印にもなってきた。
 昔は,寺内の燈明岩(燈明石)で,毎夜護摩を焚いて海上安全を祈ったという。
 今も,海が荒れて闇夜で一寸先も見えなくなったとき,ここから光が差して遭難船を導いてくれるといわれている。

十一面観音
 遭難している船を救う霊験あらたかな光の正体は,実はここのお寺の秘仏として祀られている本尊・十一面観世音で,相差(おおさつ)の海上より鯨にのって現れ ,四方を光で照らしながらこの天朗峯(あおのみね)に飛来したと伝えられている。
 本尊は,五十年に一度開帳されることになっており,最近は平成元年(1989)に行われたので,次回
   は西暦2039年に開帳が行われる。

 このお寺に奉納され金堂(本堂)に掛けられている絵馬は,そのほとんどが船の絵馬で,海運の安全や豊漁を祈念するものである。

栄福丸
・額縁に
 奉納
 為所願成就
 昭和6年十一月
 静岡県
榛原はいばら
 御前崎 栄福丸
・絵に
 栄福丸
 小野田八郎エ門
 外 四十四名
 この絵には,具体的に仏の姿が描かれているが,雲の上の御幣から救いの光が射しているように描かれているものが多い
 絵には「為所願成就」とあるので,観音様のおかげで願いが叶い,命が助かったというのである。
 
栄運丸
・額縁に
 奉納
 昭和十六年十月一日
 清水港 栄運丸
 杉本福太郎

 この絵は2艘の船が描かれている。
 1艘はまさに沈みかかって,3,4人が顔だけ見せて水の中に浮き沈みしている。
 そして,もう1艘からロープを投げて,必死で海中の人を救おうとしている。

 雲の上から十一面観世音が

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助けに現れている。
 この絵も,「こういう時に助けて下さいよ」というのではなく,「この時,十一面観世音が現れて我々を助けて下さった。」という 遭難の実話を描いたと考えた方が自然であろう。

 こういう実際に助かった遭難物語を描いた絵馬の前には,後からの人が,お賽銭をおいてそれにあやかろうとする信仰の形も見られる。

神も仏なり,仏も神なり
 船にはたいてい神棚を祀っているが,その神棚を抱いていて助かったという実話もあり,命を救ってくれた神棚が奉納されていた。そして,やはりその前にお賽銭が置かれていた。
 ここは,れっきとした真言宗のお寺であるが,神棚や御幣は神祭用具の一つである。絵では,十一面観世音を御幣で表現して,まさに神仏混淆の信仰の形がここに生きている。
 江戸時代の終わりまで多くの寺社仏閣では,神仏習合が普通で,1868年(明治1年)に明治政府は神仏分離令を出し,神社と寺を強制的に分割したものである。