御影参明和神異記
 明和八年4月16日のうしの時刻に,上方から犬が参宮したといって人々が大騒ぎをした。
 外宮の北御門口から手洗い場にいたって水を飲み,本宮で神殿にひれ伏し拝礼のかたちをした。宮人はただならぬものでないと追い返さず,御祓いを首にくくりつけてやった。

 この犬の道中の銭を与えた者が数多くいたらしく文銭を数百つけていたが,このお金を盗むものはいなかったという。
 旅のできない者は,代参といって人に頼んでかわりにお参りをしてもらうことも行われたが,それもかなわぬ者は犬に頼むこともあったのであろうか・・・・・・・。

犬のおかげ参り
 むかし,阿波の国(今の徳島県)におかげ参りがはやって大勢の人が阿波からも伊勢参りに出かけました。
 中には抜け参りといって,突然誰にも言わずに出かけてしまう人もありました。
 お金も持たずに,道で出会う人に恵んでもらい,道ばたで寝て伊勢まで行く人もありました。
 ある呉服屋に「おさん」という犬がいました。主人によくなついて賢い犬で店の者にも可愛がられておりました。
 そのおさんの姿が突然見えなくなって,食事の時にも夜になっても帰ってきません。
 どうしたわけがあったのでしょうか?
 犬が自分の家を忘れるはずがありません・・・・・。 

抜け参り
 抜け参りは大人だけでなく子どもが家を抜け出してくるのもありました。赤ちゃんをおんぶしたお母さんもいます。
 娘さんが,おじいさんの手を引いてゆっくり歩いている姿も見られます。
 子どもたちの仲間が「おいで,おいで」をするのでついて行くうちに,旅の人がだんだん増えてきてにぎやかな人の流れができていきます。

旅立ち
 村はずれや,氏神さんの鳥居のところで別れをして旅立つ人々がいました。
 出立に際して,今生の別れになるかも知れない家族親類の者と水さかずきを交わしてきたのでしょうか,泣いて別れを言っている人がいます。
 やがて,旅の仲間に入ると,歌ったり踊ったりしてなかなか楽しそうに笑い声さえ聞こえるようになります。

通行手形
 誰もが檀那寺や庄屋から発行された通行手形を持参しました。書状には居住地,宗旨,旅の用向きなどを紙に書きます。

 スポーツ文化史料情報館のHPに,次の内容の記述を見つけました。
明治四年(1871)七月二十二日:各府県に寄留,旅行する者に鑑札を渡す規定を廃止。旅行自由となる。
 右は木札の鑑札ですが,道中で何かあった時のためのIDカードとして持っていった物かも知れません。
 裏には,『万一,いづ方にても病死等仕り候とも,その節,国もとへ御通達に及ばず,その御所の御作法,御慈悲をもって,御葬ひ下さるべく候』などと書いてある 悲壮なのもあって,「捨て手形」と言ったりします。
 明治の頃まで続いていたようです。

 子どもたちはタダで泊めてもらって,おにぎりまでもらっている様子です。おさんは子どもたちと仲良くなったので今日もついて行くことにしました。どうも食べるのには困らないようです。
 
施行所
 道々,お茶はもちろん,にぎりめしや赤飯,粥,餅,団子をくれる所がありました。
 きれいなお姉さんが声をかけてきました。
「おや,きのうの犬がまだついてくるわ。おまえ家をわすれたの?」
「やー,やー。おまえもおかげ参りじゃのー」と,仲間の男の人が笑いながら言いました。
 おさんはただしっぽをふっていました。
 この先一体何があるのか見てみようと思いました。

 幾日も幾日も旅は続きました。途中,行く先々でひまつぶしに旅人たちが声をかけてきます。食べ物をくれる人もあります。

「これは偉い犬じゃ。お伊勢さんのありがたさをしっているとは」と,可愛がって首をさすったりその首にお金をくくってくれたりしました。
 道中には他の犬もいました。飼い主の連れている犬もあれ

ば,野良犬もいます。

石薬師で焼きめしをたべる弥次喜多

 犬でも大勢の人について歩けば食べるのには困りません。信仰の旅ですから,動物を虐待したり殺生をする人はいないのです。
 犬同士は信仰のことが分かりませんから,いがみ合ったり,吠えたりします。
 しかし,おさんは土佐で犬の喧嘩をみて育ちましたから,喧嘩は平気です。にらみつけると相手は目をそらしてすごすごと引き下が っていきました。
 おさんがいるとどの犬もおとなしくなるといって,おさんはほめられました。
 若い娘さんは,用心のためにできるだけおさんがそばにいるようにえさをくれるなどして,大事にしてくれました。

代垢離
 そうして,ようやく,宮川に着きました。
 大勢の人がここに集まってきます。泳いで渡っている人もあれば舟で渡る人もあるようです。
 ここでは川の水で体を清める習わしなのですが,お金を払って,代わりの人にやってもらう者もいます。近所の子どもたちのいい小遣い稼ぎになっています。

 おさんはザブンと川に飛び込み,泳いで渡りました。体の砂ぼこりもとれてすがすがしい気分でした。

参拝
 外宮鳥居から入って手水舎と御手洗で水を飲み人の流れに押されておさんも神殿の前にいつのまにか入ってしまいました。

 後ろからお金が飛んできて,頭に当たります。人が多くて前に来られない人がお賽銭を投げているのです。お金が体に当たるたびに首をすくめていると,神社の人が来ました。
「この犬は神前でちゃんと頭を下げて,賢い犬やな。」
 見ると首にお金がくくりつけてあります。
「おぅ,おぅ。代わりにお参りに来たのか。では,御祓いを付けてしんぜよう。」といって,御札を首にくくりつけてくれました。

帰宅
 家の者が心配してもうあきらめかけたころのこと,ヒョコンとおさんが帰ってきました。
 首には色々な物を付けています。調べると,伊勢の御札のほかに,代参を頼まれたらしくお参りの依頼の木札やお礼の手紙など,そして銀のお金までついているのです。銅のお金が多くなって重そうなので誰かが銀のお金に換えてくれたのでしょう。
 家族は驚くやら,喜ぶやらで御伊勢参りのすごさを知りました。

 それからしばらくして,店の奥さんと娘さんの姿がポツンと見えなくなりました。でも誰も心配する人はいなかったと言うことです。

《『御影参明和神異記』より再話》