国史跡 伊勢国分寺跡
 
国分寺の建立
奈良時代に入り各地で疫病や飢饉が頻発し、貴族や地方の反乱も相次いだ。聖武天皇は都を点々と遷都する中、そういった社会不安を仏教の力によって治めようと、天平13(741)年各国司に 対して僧寺と尼寺の二ヶ寺の建立を命じた。(国分寺建立の詔)正式には僧寺を金光明四天王護国寺、尼寺を法華滅罪の寺という。僧寺には20人、尼寺には10人の僧侶が配属された。「国分寺は国家の華であるので必ず好所を選んで建てよ」との命令で洪水等の自然災害を受けにくい土地に、また、里人の信仰心への配慮から「里から近からず遠からず」のところが選定されて、建立された。創建当時の国分寺は金堂を中心に講堂、七重塔(僧寺)、回廊、鐘楼、僧(尼)房等の主要伽藍を大きく築地(土塀)などで取り囲んでいた物と推定されている。

伊勢国分寺跡の発掘調査
伊勢国の国分寺は現在の鈴鹿市国分町に建てられ、鈴鹿川左岸の標高43m前後の丘陵上に位置している。この地に国分寺が営まれた理由としては次のようなことが考えられる。この鈴鹿川流域は畿内と東国を結ぶ交通の要衝の地にあり古くから開け、伊勢国内における先進地であったこと、奈良時代中期の伊勢国府跡は現在の広瀬町長者屋敷遺跡であったことが確認されており、国分寺からは西南約7kmの距離に位置しているため、古代の街道も鈴鹿関―伊勢国府―伊勢国分寺を結ぶルートを通っていたものと考えられることである。また、この地は『日本書紀』に登場する郡司級の豪族「大鹿(おおか)氏」の本拠地と考えられている。最近の発掘調査によって国分寺の南面に奈良時代前半期の河曲郡の郡衙遺構が発見されたことから、河曲郡の地方行政が郡司大鹿氏の権威に基づいて行われていたことがうかがえる。国分寺の造営にあたってもこの権威と財力が重要な意味を持っていたことが考えられる。
僧寺は大正11(1922)年、国分町字堂跡を中心とした約200m四方にわたり国史跡に指定されたが、尼寺跡についてはこれまでその正確な位置が不明なままであった。鈴鹿市教育委員会では伊勢国分寺の実態解明にむけて昭和63(1988)年から、継続的な発掘調査を行っており、これまで不明であった伊勢国分寺跡の実態が徐々に解明しつつある。

 

僧寺
国分集落の西方で、字「堂跡」「西高木」「西谷」地区に所在し、現在は畑や水田となっている。付近にはおびただしい瓦片が散乱し、戦前には西側に土塁(築地)が残存していたため、国史跡伊勢国分寺跡として指定されている。これまでの発掘調査では伽藍地の範囲を確定することを目的として昭和63年度から3カ年実施され、四周の築地跡と雨落ち溝を検出することによって東西178m×南北184mの規模であり、大正年間の指定範囲がほぼ正確であることを確認した。また、伽藍地周辺には庇付きの掘立柱建物や瓦をカマドに転用した竪穴住居など、国分寺に平行する時期の建物跡が広がっており、寺院の運営に当たる家政的な機関が存在したようである。また、将来の史跡整備に備えるため平成11年度には史跡内部の学術調査に着手した。平成11年度の調査では講堂の位置・規模を、平成12年度の調査では金堂の位置・規模を確認した。講堂は現在、石碑が建てられている土壇付近において確認された。講堂基壇地下の基礎地形は東西約33m・南北約21mをはかり、その平面形態から7間×4間の柱間を持つ建物が想定される。築造当初の基壇はほとんど失われているがせんによる基壇化粧の基底部が残存しており、平瓦・丸瓦で補修された箇所も見られた。講堂北西部では軒瓦が軒から落下したままの状態で並んで出土した。講堂の南で見つかった金堂はさらに基壇の残りが悪く、基礎地形の範囲から東西約28m・南北23mの基壇と5間×4間の建物が想定される。なおこの基礎地形は創建当初のものと見られ、その一部は瓦片を含む整地層によって壊されている。この整地層は改築に伴うものと考えられ、南辺部にはせんからなる改築時の基壇基底部が残されている。その他主要伽藍である塔・中門・南門については平成13年度以降、調査を行っていく予定である。

講堂南西コーナー

講堂北面
金堂の調査
 

尼寺
現在の国分集落内に花木山光福寺があり、その境内に建てられた「伊勢国分寺陣跡碑記」には当地には「南院」(僧寺)と「北院」(尼寺)が存在したことを記している。この内容の真偽はともかく北院とされる字北条一帯と南院とされる字南浦の両者とも古瓦の散布地であることは間違いない。北院とされる北条一帯は現在の国分町の集落内であり、大規模な調査を実施することは困難である。しかし、平成5年の調査で集落のすぐ西から大規模な瓦溜まりが検出された。鬼瓦のほか僧寺とは異なる奈良時代中期の軒瓦が出土し、翌年の集落北側の調査で大規模な区画溝や柵列が検出されるなど現集落と重なるようにして尼寺跡が存在することは確実視されるようになりつつある。

伊勢国分寺陳跡碑記

尼寺跡北限の区画溝

南浦(大鹿)廃寺
「南院」の地はこれまで尼寺跡とも考えられてきたが、平成3年度からの調査によって大規模な瓦溜まりとともに伽藍地の東限を示すと見られる溝や掘立柱建物を確認し、調査担当者はおよそ100m四方の伽藍地を推定している。出土した瓦はその大部分が予想に反し白鳳時代(7世紀後半)に遡るもので、この寺院跡が尼寺跡ではなく、白鳳時代の寺院であることが判明したため南浦(大鹿)廃寺と命名した。この寺院はこの地方の豪族の氏寺として建立されたものと考えられ、史書にみられる「大鹿(おおか)氏」がその有力な候補と考えられている。出土した補修に使われたとみられる瓦には平安時代にまで降るものもみられ、10世紀代まで寺院として機能していたとみられ、奈良時代の国分町には3寺院が整然と甍を並べていたことになる。

瓦溜まりの調査

軒 瓦
               

河曲郡衙(かわわぐんが)
平成6年の冬、博物館建設に先立つ発掘調査において史跡伊勢国分寺跡の南方に東西に並ぶ柵列で区画され、整然と並ぶ掘立柱建物の倉庫群が存在することが発見された。翌年の範囲確認調査において最終的に10棟の倉庫が「コ」の字状に配置されていることが確認された。倉庫の中で最大のものは8.4m×6mの規模で、柱を据え付けるために掘られた穴は一辺が1m以上もあり、柱は30cmを越える太いものが用いられ、床を支える束柱を持つ倉庫である。この倉庫1棟で約140立方メートルの容量の稲穀を収納することが可能であった。このような倉庫は一般の集落に伴うものではなく、河曲郡から租税として納められた稲穀を保管する「正倉」と呼ばれる倉庫であり、河曲郡役所である「郡衙」に伴っていたものであろう。この正倉が機能していたのは7世紀末から8世紀前半にかけてとみられる。
またこの正倉の東150mの博物館進入路や駐車場からも方位を揃えた掘立柱建物群が確認された。床面積が75平方メートルと伊勢国分寺周辺で最大級に及ぶ高床式の建物も検出されている。この一帯は河曲郡衙の中心的な官舎であるか、あるいは郡衙の役人である「郡司」の任についていた豪族大鹿氏の居宅ではないかと考えられている。
律令国家の地方支配は古墳時代からその地域を支配していた有力な豪族を郡司として任用し、その権威を利用することによって行われていた。この地に伊勢国分寺が置かれたことから、古代の東海道に沿うといった地理的な条件のみならず、地元豪族の大鹿氏の権威や財力が国分寺の造営に欠くことができないものであったことがうかがわれる。伊勢国分寺跡周辺の近年の発掘調査の成果は、古代国家の地域支配の実態を知る上で欠かせない資料となりつつある。

調査区全景

正倉模型

ホームページに戻る