| 【勝速日神社の祭礼】 |
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勝速日神社は,西町,中町,東町,山中町の氏子中でそれぞれが山車を持ち,春季例大祭に御輿と,山車が引き出される。五穀豊穣,家内安全,商売繁盛を祈る祭りである。 山車は,漆塗り,金箔仕上げで,豪華なつづれ織りの垂れ幕(見送りの幕)で飾られ,鈴鹿市の指定文化財となっている。 それぞれ『鷹に松』『唐獅子に牡丹』『竹に虎』『菊慈童』の図柄。 安政七年(1778)当時の各町内に住む豪商たちが寄進した。 中国では松竹梅を歳寒三友といい,寒さに耐え抜くそれぞれのもつ意味を人生にたとえた。 唐獅子は謡曲の「石橋」に基づいたもの。
菊慈童の題材は中国に求められ,能や歌舞伎になって江戸時代の人はよく知っていた伝説。
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さて,元禄の頃に江戸で流行した絢爛豪華な祭りの山車(屋台)は,ままたくまに日本各地に伝番した。 大津・水口・愛知方面などで祭の山車が発達し白子も時期的には同じく古い。 山車にはからくり人形がのるもの多いが,白子町は人間が乗って,山車の一番高いところで歌舞伎芝居などの演劇が行われた。 そうして,山車を牽き回す時は着飾った子どもを乗せたのである。 山中町の辺りは,当時は道路が細く山車をひくのに苦労があったという。 こういった大きい山車が白子の町にも登場したということは,とりもなおさずこれを牽きまわすことのできる道路をもつ町がその時代につくられていたことを意味する。 このことは,小さな地域共同体で神社の年間の経費がまかなえるようになったということであり,白子の町の経済が豊かになって ,大金持ちが現れ,人口が増え町の勢いが増したことを意味する。
廻船問屋,伊勢型紙の商人,富豪な農家などの寄付によって山車が建造され,東町のものは金線銀線を存分に使用して一寸作るのに一両かかったと言われる。
現在,経年の傷みが生じて,山車の修理が必要となっているが見送り幕だけでもその修理に1千万円,外の部分の修理も行うと1億円はかかるのでとうてい修理は望めず困っているらしい。 |
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御輿や獅子舞はいわば神様の家庭訪問。 小回りがきき,短い時間のうちに家々をまわり厄をはらい,家を清め,福をさずける神事をおこなう。 勝速日神社の御輿はなかなか立派なものだ。 共通の神を祭る氏子である事の認識を伝え,ていねいに各家庭から祝儀を集めることができる。 一方,山車はあらかじめ集めた寄付で行事が経営される仕組みである。 |
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御輿(みこし)にしろ,山車にしろそれらは神をのせて社領を練りまわるのであるが,当然,装置が大きくなれば移動できる範囲は狭くなり,大きさに比例して関わる人員は増やさなければならない。 山車の組み立ての風景。 組み立て作業も含めて祭礼は県の無形文化財として指定されている。 解体してしまってある地区は組み立てるのに4 |
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時間ほどかかり,結構手間がかかる。 最近は少子化で山車を牽く人が減って,高齢の女性(おばあさん)が牽いている。アルバイトを雇うとなると,日当を1人に1万円と見積もっても最低20万円は予算が必要である。 |
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の山車と,白子の町の山車との違いは,そのまま町の差を今に残していると |
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思われる。 白子は紀州藩の後ろ盾がある伊勢型売りの素封家が強力に後押しし,江島の祭りは時代がさがってからの江島神社を中心とする地域に住む氏子たちの自己主張の発露であると考えられる。 白子は優雅で,江島はまるで,喧嘩になりそうなぐらい鉦や太鼓を打ち鳴らし,やかましさを競う。 |
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【勝速日神社】 元は,寛永十一年(1634)に紀州藩の別邸と代官所を創設するとき時,久留真神社を移転したが,その氏子が南北の二派に別れた。 北側(白子駅に近い方)の住民が栗真にあった「八重垣神社」と「勝手明神」を遷して一社にし,現在の地に『勝速日神社』をつくった。 八重垣神社は素盞鳴尊すなわち牛頭天王を祀っているので,この土地あたりを牛天王(ごてんのう)と呼んだりするようになった。また,勝手明神の由来から神社を勝手さんとも呼ぶ。 勝速日神社の祭りに使われる用具と一緒に 二種類あり,一つは波間に漂う鼓の図柄で,『鼓ヶ浦伝説』でおなじみのもの。 そして,あと一つは『朝鮮通信使』をテーマにした物であった。 |
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【朝鮮通信使行列図 |