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ひゃくとくきもの  ひゃくはぎ 2009/08/19  

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 百徳着物(百接ぎ,百所きもの,百軒衣装)

 縮緬や紅絹もみなどの絹織物, モス(モスリン)と呼ばれる薄い毛織物,様々な布地の寄せ集めで作られた着物です。
 虫食い穴からのぞく端布はぎれの布のなかには紙で裏打ちがされているのがありますが,これは掛け軸に使われていたきれのようです。

 端切れの種類を数えると数十余あります。
 表には木綿は無く,胴裏には,紅花で染めた美しい赤の木綿布が襟の下部と着物の裏の全面に使われています。
 その襟の上部はとびっきり綺麗な花の柄を持ってきています。
 身頃は,こま切れの小さい布を不定形のままに縫い合わせて,色鮮やかな色彩が,まるで花畑のように広がっています。
 運針の技術は上手ではなくとも,ひたすら丁寧に縫ってあって,一針,一針に作者のおしゃれ心が垣間かいま見えます。

 おそらくは,明治・大正時代に遡る昔に作られたものでしょう。
 こういう不思議な着物が,各地に残されていたりして,百接ぎ百徳着物百所きもの百軒衣装などと地方によってさまざまに呼ばれています。
 これは,
『百軒からもらい集めた布で着物を縫って,子供が丈夫に育つのをいのる。』
『子宝に恵まれますように願ってお寺に奉納する。』
と言い,布が貴重であった時代の着物と結びついた信仰によるものです。

 昔は,布が高価でしたから,
小豆あずき三粒ほど包める布は捨てるな」
と戒めあって,誰もがいとおしむように小さな布片をも捨てずに,大切に残しておきました。

百家衣
 もちろん,これは日本だけに限らず,世界中,布のあるところにはどこにでもある習俗で,お隣

の中国では百家衣と言い産育信仰とコラボレーションしている事もそっくり同じです。

 100個の小片の衣を着ることが安心の象徴となり,それぞれの家は一切れの布片を出すだけの負担ですみ,もらう方は寄せ集めることによって一着の衣服を得ることができます。
 
 先の着物も,つぎの着物も見ていただくと”小豆三粒”が大げさな言い回しでないと納得されるのではないでしょうか?
 布の数を増やすほど,子どもの災いや厄が少なくなると信じて一心に縫い込まれています。
 長寿の人,徳のある年寄りの人,健康な人,親切な親戚の家々などから小裂をもらい受け,その方の徳が授かりますように,たくさんの幸せに巡り合うことができますようにと祈り,幼子おさなごの幸福を着物に託しました。
 端裂はぎれには人知の及ばない力が宿ると信じ,村の子供の誰もを慈しみ,子を思う気持ちを一つの着物に”寄せ”あわせたのでした。
 布を所望された女達も,頼りにされたことが嬉しく,後輩をほほえましく想い,子育ての連帯が生まれます。
 布が寄せ集められて,次第に次第に美しい着物と変わっていきます。
 自分にゆかりの裂が,いのちを言祝ぎ,子どもの未来を輝かせることを想像していとおしく思い,関わった子のその後を気にかけて,知り合った母親に,折々声をかけるきっかけにもなりました。
 
 ”寄せ”とは,端切れをつなぐ糸で人と人をつなぐえにしを生みだすこと,心の集まりを作り出すこと,そうして子供の幸せの手がかりが結ばれていくことを意味しています。
 このままでは朽ちるしかない切れ端の寄せ集めを「富貴寄せ」と言いかえて,あでやかな着物に仕立て直し,凶事を吉に転換してしまう昔の人の言霊にハッと心を打たれてしまいます。
 
 次は,人形用に作られた百徳着物です。
 古来,日本には「人形に魂が宿っている」と信じてこれに願いを託す風習がありました。
 男の子には五月人形を飾って「勇ましくあれ」「強い子になれ」と人形に子どもの健康や成長を祈ることが行われ,女の子がだっこしたり,おんぶしたりしてあそぶ日本人形に,百徳着物を着せて,息災を願うことも良く行われてきました。
 

金沢市・真成寺 】 石川県金沢市東山2-25-73  п@076-252-6060
 真成寺に保管されている着物は,身体の弱い子供が丈夫に育つように,また,安全祈願などのお礼として奉納されたもので,お寺では鬼子母神像に着せた後,収蔵庫に入れて保管しています。最も古いものは天保10年(1839年)に奉納されたものからあります。
指定 : 重要有形民俗文化財
山号 : 妙運山   宗派 : 日蓮宗
開基 : 正保四年(1647) 正覚院日条上人
歴史 : 当山の『鬼子母神』は,加賀藩主三代目前田利常公が篤く信仰し,元小松城主丹 
      羽長重が城内天守に安置し信仰していたものである。

 

 前田利常は伯父の日条上人(滝谷妙成寺の十五世)に深く帰依し,この『鬼子母神』を上人に託したのです。
 そうして,上人はこの地に真成寺しんじょうじを建立し,『鬼子母神』を祭りました。

 利常(祖・前田利家の四男)は治世の間,常に徳川将軍家の強い警戒に晒されながらも巧
みにかわして,120万石の家領を保ちます。

内政において優れた治績を上げ,治水や農政事業(十村制,改作法)などを行い,
「政治は一に加賀,二は土佐」
と,名将・ 山内 一豊よりも上に讃えられるほどの盤石の態勢を築きます。
 また御細工所を設立するなど,美術・工芸・芸能等の産業や文化を積
極的に保護・奨励し,加賀文化の基礎となりました。
 時がたって,現在の鬼子母神堂は明治三十八年に再建,本堂は昭和七
年に改築されたものです。
 金沢市の真成寺に奉納されている百徳着物は「産育信仰資料」として,その他の絵馬やよだれかけ,履物,提灯,人形,千羽鶴などとともに国の重要有形民俗文化財に指定されて知られています。

【山門】
 門前には『子安 鬼子母神 真成寺』の石柱(左)と『妙運山・真成寺』の傍示杭(右)が立てられて,石の段を登る途中に大きく石榴ザクロの木が枝を伸ばして花を咲かせています。
 お寺の家紋も伝説にちなむザクロの果実です。
 伝説は,  http://www.ne.jp/asahi/osaka/100ju/Zakuro/Zakuro.htm にリンクしています。
吉祥果きちじょうか

 ザクロの実には,沢山の小さな実が入っていて,その1つ1つがそれぞれに小さな種を持っています。
 そのことから,古来よりザクロは子孫繁栄をあらわす縁起の良い果物と言う意味で「吉祥果」と呼ばれる様になりました。
 鬼子母神様が右手にザクロの枝をお持ちになられているのは,子供を守り,子孫繁栄を願う意味が込められているのです。

 
歌舞伎
 山門を入ってすぐ右手に,歌舞伎の中村歌右衛門のお墓がありました。(中央の奥)
 初代・1)中村歌右衛門(1714〜179
1)
は加賀金沢の医師・大関俊庵を父として金沢に生まれました。
 大阪に出て活躍し寛政三年に没し真成寺に菩提ぼだいを弔われています。
 屋号は加賀屋。狂言作者としては中村嘉七を名のりました。
 墓地の瑞垣に名を記す六代目・2)中村歌右衛門は,生涯を通じて歌舞伎に専念し,戦後の歌舞伎界における女形の最高峰と呼ばれ,娘形から姫,片外し,傾城,世話女房に至るまで,あらゆる女形の領域をこなしました。
片返し : 『伽羅先代萩』の乳母政岡,『鏡山旧錦絵』の岩藤など,お家物演目に登場す 
      る武家の女房がこの片外しの鬘をつかうことから,歌舞伎でこうした役柄の女形
      のことを「片外し」と呼ぶようになった。
 
御本尊
 本堂が二堂に分かれ,一堂は鬼子母尊神,もう一堂は日蓮宗で別々に祀られています。
 本尊は「十界受陀羅」左右に多宝如来・釈迦牟尼仏が祀られています。
 一段高いところに,鬼子母神堂があり,鬼子母神をはじめとして,四天王,十羅刹女等二十数体の仏様が祀られています。
 願をかける時に奉納された百徳着物は,ご神体の鬼子母神様にしばらく着せておくのだそうです。
 隙間なく奉納された千羽鶴が左右に吊られて,祭壇には子供の写真や,その他もろもろの子供の関わる小物が祀ってあって,近頃流行の心霊スポットの雰囲気が漂っています。
 奉納の提灯にも石榴の絵が入れられています。
 右の写真は,子供を授かる様にと願い,願掛けに奉納された柄杓です。
上は,見ざる言わざる聞かざるの三サルに奉納されているよだれかけ。
 災いを除ける(去る)という庚申信仰にもとづくものです。
 江戸時代からの産育信仰の奉納
品は,国の重要文化財に指定されているため,湿度や温度などをきちんとコントロール出来る別棟の宝物殿に収蔵保管されています。
 百徳着物の年代のわかる古いものには天保十年(1839年)に奉納されたものがあります。(見せていただくには,国の許可が必要)
 
日蓮宗
 もう一つのお堂は,日蓮宗のお堂で,「南無妙法蓮華経」の扁額が掛けられています。
 日蓮聖人は御書のなかで
「十羅刹女と申すは10人の大鬼神女,四天下の一切の鬼神の母なり。また十羅刹女の母なり,鬼子母神これなり。」
と述べられて,鬼子母神を重視しました。
 もともと鬼子母神信仰は平安朝の昔から一般的な信仰としてありましたが,法華信仰に生きる者,日蓮宗に属する人にとっては,鬼子母神はただ単に子供を守る神であるばかりでなく,信者・宗徒の外護神として崇められています。
日蓮宗ではご祈祷をする際には,鬼子母神を法華経信者の守護神のひとつと位置づけ勧請するので,ほとんどの日蓮宗寺院では鬼子母神がお祀りされています。
 
絵馬
 絵馬も多く奉納されて,飾られています。(マウスをのせると,拡大写真を表示します。)
 明治第八年乙亥(1875)とある古い絵馬ですがなんだか分かりますか?
 「ふき」とはあわせの着物や綿入れの袖口や裾の部分で,裏地を表に折り返して,表から少し見えるように仕立てる部分のことをいいます。
 表地の端の傷みや汚れを防ぐためと,裾がめくれないようにするおもりの働きをさせるためのもので。袖と裾のところにつけられます。
 江戸時代に流行し,ふきの所に綿を入れるので「ふき綿仕立て」と言われました。
 ふきに綿を入れて重みや厚みを持たせることで,裾がばたばたしなくなるという実用面の他にも,ふっくらと柔らかな美しいラインが出て,重厚な感じや着物の豪華さを引き立てます。
 このため,武家や富裕な商家の女性に好まれていました。
 ふきの分量は流行で変化もあり,江戸時代
 
の中期には1寸以上の幅や厚みを持つものもあったといいます。
 裾をすらりと美しく見せるにはここの作りが一番むずかしく,下手だとデコボコしてよく目立ちます。
 ですから,ふき額の絵馬は,女の人が着物の仕立ての上達を願って,奉納したものに違いありません。

押し絵
 前田家加賀百万石の政策は文化振興に力を入れていた関係で,あらゆる物作り分野の第一人者を金沢に招きました。
 そのため,建築造園焼き物茶器はもとより染め物から,金箔木目込み人形和菓子あられ,せんべいなど,また魚釣りの針に至るまで,伝統工芸,食文化芸能など様々な文化が発達していきました。
 羽子板によく見られる「押し絵」で制作された絵馬は,贅沢な布地を使った大変丁寧な造りでさすが前田藩・工芸の城下ならではの見事な作品群です。
 鬼子母神の伝説を絵解きにして,十数枚もの歌舞伎芝居の場面にしてあります。
 画像をクリックすると,大きい写真を表示します。
 この鬼子母神も,はじめから良母であったわけではありませんでした。
 お釈迦様のおさとしによって女は仏法に帰依し,母子の苦しみを救う護法神となって,鬼子母神という神様になったのでした。
 この押し絵は,そのことを伝えたいと願う女性達の手で作られ,奉納されたものです。
 このほか,明治三十五年に奉納された,押し絵による「子供の花車引き」の巨大な作品は圧巻です。(天井が暗くて,私のデジカメでは上手く写せませんでした。) 
 お寺には,鬼子母神のあらたかな霊験を思わせる不思議な話が伝えられています。
■ 医師の診断により,お腹の子が呼吸していないと告げられたご夫婦があった。
 あまりのことに気落ちし,堕胎を覚悟していたが,その前にと,祖父母にあたる方々が鬼子母神にお参りした。
 そうしたら,驚くなかれ,後日,胎児の無事が確認され,家族揃ってお礼の参詣があったという。
■ 和紙の袋にお米を入れて水引で結ぶ。これをお乳袋と呼んでいる。
 これを鬼子母神にお供えしたあと,その米をお粥にしていただくと,母乳が出るようになったという信仰がある。
 そのことで,お礼参りに訪れるお母さんは多い。
■ 不妊に悩んで寺を訪れた若いお母さんたち四人が友となり,その全員にお目出度があったという喜ばしいお話もあったそうだ。

 ここは,お寺の産婦人科と言えばよいでしょうか,女の願いを聞き届け,叶えてくれるところ,女性をいやしてくれるところです。