鯛の左洲さん
 右は,三重の画人で 「鯛の左洲さしゅうさん」 として広く親しまれている中村左洲の「群鯛図」です。
 昭和34年(1959)の伊勢湾台風の時にに水害に遭い絵が一度水没しましたから,まさに伊勢湾を泳ぐ鯛の図なのです。
 
 中村左洲は,家庭の事情から,小学校中退という経歴だったようですが,漁業に従事するかたわら,四条派の画家・磯部百鱗について絵を学びました。
 美術学校にも通ったことはないといいますが,全国に通用する画技を持つ日本画家で,大正6年(1917)の文展に《群がれる鯛》を出品し,入選しました。
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文展《「文部省美術展覧会」の略称》  
  大正8年(1919)帝国美術院展覧会
  に改組,いったん廃止ののち,昭和
  21年(1946)に日本美術展覧会(日
  展)と改称。
 絵は,真珠王・御木本幸吉が気に入り,購入したという話がエピソードとして伝えられています。
 彼の絵には,家業が漁師であったことで,伊勢の海に親しみを持ち,海や魚を多く画題として取り入れ,さらに,伊勢地域の内宮や外宮,山岳などの風景にも秀作を残しました。 
 作風は故実を重んじ,また,おごらず,飾らない画面構成からは誠実で理性的な人物であったことがうかがえます。
一枚の絵
 私が最近手に入れたのは,この中村左洲の「きぬた」という掛け軸です。
 また,この絵をヒントにそっくりの切り株のような砧台と槌を手に入れることもできました。
 河原のススキの繁みのそばに,むしろを敷いて,月のあかりの下で,砧打ちをしている女の人が描かれています。
【絵の仕立て】
  堅い丸太を輪切りにした台の上に,水に浸けて半乾きの状態で折りたたんで,砧を打ちます。
 秋になると,夕暮れに「ドンドンドン」,「トントントン」田園の家々から,あるいは作業小屋から,また絵のように屋外の庭や河原から衣をうつ音がしていました。
 砧を打つことは,古来より農村女性の夜鍋仕事でした。
 布がはやく乾かないように,水辺で,夜に仕事をしました。    
 燈火の節約にもなり,また家人の眠りを妨げないためにも,この様に月下の屋外で独り作業をしたのでした。
…という風な絵の仕立てになっていますが,これは後述する中国の詩『子夜呉歌』に故事にあわせて,水の流れ,月,秋の野草,かりと秋の風物を描く常套の画法でありましょうか。
 岩手県の歌人が、白子・鼓ヶ浦にきて詠んだ句に
というのがありますから、私の地元である白子・鼓ヶ浦でも砧打ちが行われていたのでしょう。
 
 さて,古くは 源氏物語 の夕顔の帖に http://www.aozora.gr.jp/cards/000052/files/5019_9762.html
白い麻布を打つ砧のかすかな音もあちこちにしました。空を行くかりの声もし‥‥
 と出てきます。
 源氏物語は平安時代中期に成立する京都を舞台とした長編小説ですが,この頃の宮中の女性の衣装は十二単衣と言われるものです。
 白小袖に厚手の張袴はりはかまをつけ,ひとえ五衣いつつぎぬ打衣うちぎぬ表着うわぎを重ね,その上に唐衣からぎぬと沢山の着物を重ねて着ました。
 その,十二単衣を構成する衣装の中で「打衣」と言うのは,読んで字のごとく衣にのりをつけ,砧で打ち,光沢を出した着物です。
 もともとは紅色の綾織物を砧で打ったことから,「打衣」の名前がつきましたが,必ずしも,紅色とは限りません。
 打衣はごわごわとしてやわらかでなく,水もよくはじいたので夏季などにも用いました。
 そしてまた,布を打つ砧の音や,かすかに衣の擦れる音の記憶が,私たちの耳の底に残っているのです。

   私たちは,千年にさかのぼった我が国の王朝の衣服がそのまま今に伝わっていることをもっと驚嘆しなければなりません。
 そして私たちの文化を誇りに思わなければなりません。
 
 世界広しといえども,この様な千年も前の宮廷の正装(ロイヤル・コ
スチューム)が博物館以外の日常の庶民の生活空間に,今なお生きて存在する国は日本だけなのです。
日本和装師会会長 市田ひろみ

 源氏物語とくれば,もう一方,清少納言の枕草子についてもあげないといけませんね。(^o^)/~
 和歌では鎌倉時代初期の有名な歌人である式子内親王

 と歌を残しています。
 
 百人一首の中にさがすと,

があります。
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【歌意】 その昔,天皇の行幸もあった吉野だが,いまはそのようなことも久しく絶え,山から吹きおろす秋風の中,夜も更けた吉野の古い里に,衣打つ砧の音が寒々と聞こえてくる。
◆藤原雅経(1170~1221) 和歌・蹴鞠の飛鳥井家を興した。『新古今集』の撰者の一人。
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 また江戸時代では松尾芭蕉の俳句のなかに,
  (…秋の夜空に冴え冴えと光を増す北斗星まで届くかのように,砧の音が澄んで響きわっている…)  
  (…ある宿坊に一夜を借りて,宿坊の妻よ,秋の夜のしじまに,哀愁を帯びた,かの砧を打つ音を響かせてはくれまいか… )  
などの作品を見ることができ,探せば更に多くの人が歌や句に詠んで,いかに砧が日常的なものであったか知ることができます。
 当時,麻や木綿の生産が発達した江戸時代には,砧の音がそこかしこに聞こえ,秋の風情にいっそうの趣を添えたのでした。
『千戴和歌集』巻六より

 『千戴和歌集』は藤原俊成の編纂した第七番目の勅撰和歌集。平安時代末期のものです。
 大阪府高槻市玉川二丁目(摂津国三島)にある「玉川の里」は市内の南部にあり,そこに咲く「うのはな」は,平安時代から古歌の歌枕となり,江戸時代にも俳句や川柳の題材になりました。

 この玉川は,別名「砧(きぬた)の玉川」と呼ばれています。摂津は木綿の有名な産地でした。
 「うのはな」の和名は「ウツギ」といい,「砧」は「打つ木(ウツギ)」なので,「うのはな」と掛けられます。

 ちなみに,歌枕に詠まれる玉川は6つあり,「六玉川むたまがわ」と呼ばれて,それらは地域ごとに,それぞれ詩歌に詠み込まれる風物が決まっていました。
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 この玉川は東京の多摩川のことです。砧にちなむ砧村が大変古くからの地名としてあります。
 正岡子規が内藤鳴雪と共に高尾山に吟行に出かけたとき(明治25年12月)の作品。…
高尾紀行
 子規
は,砧を秋の季語にして,多くの句を詠んでいます。
   ↓ クリック
http://www.webmtabi.jp/200911/shiki_kigo/fa_p_kinuta.html
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 話は長くなりますが、正岡子規は,数え23歳の時,吐血し結核と診断され,鳴いて血を吐く鳥
ということから,子規(ほ
ととぎす)にたとえ,「子規(しき)」と号するようになったそうです。
  ホトトギスには,徳富蘆花の小説にある「不如帰」と書くのがよく知られていますが,その他に「杜鵑」「時鳥」「子規」「杜宇」「蜀魂」「田鵑」など多くの漢字表記があり,「卯月鳥(うづきどり)」「早苗鳥(さなえどり)」「魂迎鳥(たまむかえどり)」「死出田長(しでのたおさ)」など異名があります。
 鳴き声が,「ケッ,ケッ,キョッ,ケッ,ケッ」と,肺を病んだ人が喀血して苦しそうな呼吸をするのに似ていることから,泣いて血を吐くと形容されたのでしょう。
 
   
 子規はしばしば喀血かっけつし,結核はそのころ不治の病とされていましたので,「自分の一生が決して長くないであろう」という思いがあったようです。
 明治二十四年,川越に宿をとったとき,旅館の薄い蒲団に身を包んだ彼の耳に,砧の音が寒々と聞こえてきたのでした。
 
 川越市の郷土史家・岸伝平氏は,この時の宿屋が「今福屋」であり,その南隣りに異国洗張業の「吉田屋」があったと明らかにしています。
 その句碑が、 建てられて川越のそのお宅にありました。
 子規の句碑 (埼玉県川越市大手町5)
 子規の去った後,明治二十六年三月,川越に大火がありました。
 そうして,今福屋,吉田屋とも類焼してしまいました。
 
今福屋はただちに再建がなされ,大正末年まで営業を続けましたが,のちに廃業します。
 いまは碑だけが残されており,通りに面して道行く人に見えるようにしていただいてあります。
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 江戸時代には,歌川豊国が摂津を流れる玉川を背景にして,砧を打つ女性を描いています。
 三枚綴りの力作です。絵の下の黒いバーを動かして見て下さい。
 この絵に出てくる右端の人は,砧打ちを商いにして,頼まれた布を打っていると思われます。
摂津国擣衣とういの玉川】 歌川豊国画
  ー スクロールさせてください ーーー  ー  
 擣衣は砧で衣をうつことと同じ意味です。
 俳句では秋の季語,「砧」は“秋”の季節に打つもの,紅葉の名所の玉川の風景のなかに,砧打ちを入れています。
   砧はもともとは中国から伝わったもので,中国では擣衣とういといい,古くから詩にうたわれています。
          『 子夜呉歌  李白 クリック

     長安一片月    長安一片の月
     萬戸擣衣聲    万戸より衣を擣(う)つ声がして 
     秋風吹不盡    秋風吹きて尽きず
     総是玉関情    総て是れ 玉関の情
     何日平胡虜    何れの日にか胡虜を平らげ
     良人罷遠征    良人遠征を罷(や)めん
子夜呉歌』は子夜(当時の売れっ子歌姫)の作ったものといわれ,もとは呉(江蘇省一帯)の民歌です。
 晋の時代(220年の後漢の滅亡から,589年に隋が統一を回復するまでの,約360年間)から歌われ,すこぶる哀調をおびています。
 後の人びとが四季にあわせて子夜四時歌を作り,李白の詩も春夏秋冬と四首あって,この詩は秋のものです。
 李白は,江南の風土で育った歌を,北方の都に舞台を移し,玉門関へ遠征する夫の留守をまもる女の歌に仕立てました。
    玉門関 : http://iseki.travel-way.net/dunhuang8.htm
 
 李白のしみじみとしたこの詩が,日本でもこよなく愛されよく知られるところとなり,歌を読むときに,また絵画や,さし絵に描くときに『月・秋・砧』をセットにして表現するのを習わしとしました。
北尾重政 (元文4年~文政3年〈1739-1820〉の人=浮世絵師)

 この様に,全国至る所の木綿や麻の生産地で砧打ちが行われていたようですが,現在では砧打ちは無くなりの砧の音の風情を味合うことはありません。
 ここでは,今は途絶えてしまった布を打つ文化,砧の風物詩について,
探してみることにします。