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レセプトも積極的に
日本医師会は「不正請求や過剰請求はごく一部の医療機関の問題」という。実際、不正とは縁のない良心的な医師が多いと思う。
ただ、医寮費が審査機関だけでなく当局、患者にも十分にチェックされない現状では実態がわからない。
診療情報に3種類
患者が受けた診療の情報は、大きく分けて三種類ある。いずれも患者にはほとんど手に入らなかった。
費用面だと@レセプトA窓口で患者に渡す領収書や医寮費明細書。また、医療内容の面ではB医師の診療録(カルテ)や看護記録といった診療関係の記録だ。
情報開示の決め手は、保険者に提出されるレセプトだといっていい。費用だけでなく投薬や検査など医療行為の異体的な内容もわかる。
それが今夏から患者本人のほか、弁護士や遺族も保険者からレセプトのコピーを受け取れるようになった。いまは全国で開示例が相次いでいる。
ただ、レセプトも万能ではない.診療の翌々月以降でないと保険者に回ってこず、開示を求める手間もかかる。
そこで診療窓口の医療費明細書が意味を持つ。患者がこれを保存していれば、レセプトとつきあわせ、医療機関の請求もチェックできるからだ。
特に、不正請求や過剰請求の対象にされがちといわれる高齢者は、窓口で明細書をもらうべきではないか。窓口の負担が二割、三割といった定率のサラリーマン本人やその家族と違い、定額負担の高齢者の場合は医療機関がどれだけ保険請求したか、本人には分からない。
発行経費の負担も ところが、この明細書を出す医療機関はそれはど多くない。
厚生省は一九八一年の通達で、患者負担分の領収書の発行を徹底させ、医療費の明細書も可能な医療機関から実施するように求めた。ところが、約二百二十ある国立病院のうちで明細書を発行するのは約八五%。ほとんどの珍繚所は領収書どまりといわれる。
しかも、明細書といっても投薬、注射、検査といった診療行為の項目ごとに費用を書いてある程度。患者に必要なのは、レセプトの右側に記載される具体的な薬品や検査名、処置の内容などの情報なのに、それが欠落している。
実際、レセプト並みに詳しい明細書を出す病院はほとんどない。「どんな商売でも希望があれば詳しい領収書を出す。医療機関はカネをもらってサービスをしている意織が低すぎる」。そんな反省が医療界からも出ている。
医療機関が詳しい明細書を出せば、発行経費分の診療報酬を出すようにし、会計事務のコンピューターソフトを切り替える費用もみてもいいのではないか。
一方、カルテなどを開示する範疇や方法は来春までに厚生省の検討会で結論を出す予定だ。
請求の実態不透明
不正請求や過剰請求の実態については明確ではないが、例えば、こんな例がある。厚生省が製薬メーカーの出荷額に医療機関の得る薬価差益などを加えた薬剤費の推計総額が、九五年度で約七兆円余。それよりも保険から支払われた総額のほうが約五千三百億円多かった。国民医療費約二十七兆円の約二%。医師会は「統計の誤差」というが、「架空請求の影響」との見方もある。
今年になって東京都内の主婦が近くの医院を相手取り、「不正請求」だとして提訴した。区の無料の健康診断でたまたま訪れたのに患者負担をとられたことに疑問を持ち、レセプトの開示を受けたケースだ。医師側が記者の取材に対して「ミスかもしれない」と示唆したレセプトの項目は、投薬など請求総額の半分近くに及んだ。
厚生省が九一年に約百病院を調査したところ、老人病棟を中心に入院費を出来高制から定額制に切り替えたことで、患者一人に対する一ヵ月平均の薬剤費が四〇%前後減った。この部分は過剰だったといわざるを得ないのではないか。
持ちつ持たれつの厚生省や医師団体、大学の医局、製薬業界には、なかなか仕組みを変えられない。
可能性があるのは患者だと思う。レセプトや同じぐらい詳しい窓口の医寮費明細書、カルテの情報を得れば、医療機関を選ぶときの目安になる。患者が専門知識を持っていなくても、情報開示が進めば医療機関を評価するコンサルタント業も成り立つだろう。
また、そうなれば医療機関も不正請求や過剰請求を自制し、医療技術の高さで患者の獲得を競うようになる。そのうえで医師の技術料が低いというならば、国民も理解し、負担増も納得できるのではないか。
(1997年10月05日朝日新聞よりtxt化しました。)
私もまったく同感です。もう少し、善良な商売をしなくてはいけないですね。また、我々も、良い医療サ−ビスには、それなりの報酬を払う義務も忘れてはいけないことですね。
医療のさまざまな問題は、医療側だけでなく医療を受ける側の双方の意識改革がまず大事だと思いますが皆さんはいかがですか。
1997年07月29日
私事ですが、生まれてはじめて、入院生活というものを経験しました。約1週間でしたが、今まで、蚊帳の外でしかなかった世界が、内側から見ることによって初めて気がつくものがありました。(入院患者さんと共に患者の立場として医療従事者を見ることが出来ました)
正直入院生活の長い患者さんは、確かに医師を頼りにしてはいますが、もっとも頼りになる(生活の支え)のは、看護婦さんのようでした。しかし、思っていたより、医師も特に若手の医師は、空き時間に自分の担当の患者さんの様子を見にきていました。この心がけは、ベテランになっても、ずっと忘れないでほしいと思います。
しかし、私自身も痛感したことですが、何気なくいった、患者さんへの言葉が、患者さんを不安にさせたり、猜疑心をまねいていたりするものです。とくに、大きい病院ですと、一人の患者さんに何人かの担当医がつくと思います、その一人一人が、皆違った説明を患者さんにすれば、患者さんは混乱します。医師は患者さんに勇気づけのつもりで、気軽に答えたことが、患者の立場からは、どの言葉が正しいのか疑問になり、だんだん信用を無くしてしまいます。
また、入院患者さんは、医療従事者の情報を意外にしっかり持っています。(誰は何はうまいが、何は下手とか。)残念ながら、誰も同じ技術レベルということは難しいので、医療従事者は常に謙虚であるべきだと思います。(特に技術が劣り口先だけの方、患者さんは口に出さなくともしっかりわかっています)
今回も思ったことですが、医療従事者は、確かに職種によっては想像以上に大変ですが、病気を治すこと、これが自分たちの仕事であり。決して、病気を治してやるのではないことを肝に銘じなければいけないと思いました。最後に、病棟看護婦は、本当に激務だと思います。(看護婦さん体に気をつけてがんばって下さい)
1997年04月20日
このホ−ムペ−ジもだんだん活発にかつ、有意義な内容になりつつあると思います。
医師にも善玉悪玉の二面性があることが、日増しに強く感じられます。
おそらく、悪玉の医師は、このような、ホ−ムペ−ジは見ていないと思いますが・・・・。
本来は、悪玉医師を何とかしなければ、意味がないので、自分でも、このような形態で良いのかと自問自答することがあります。
しかし、最近、直訴状で、患者さんに対し医療従事者がコメントするといった形になってきました。
面と向かっては、なかなか本音で聞けない、ということは結構実際の現場でありますよね、そんな関係がそれぞれの距離を広げてしまうことも多々あると思います。
このペ−ジが、その距離を少しでも縮められればと思っています。
これからも、医療従事者と患者さんの距離がなくなるよう工夫と努力をしたいと思いますので、ご意見などありましたら、どしどし、お寄せください。
1997年03月05日
和歌山医大の事件を見て、また医療過誤の隠蔽かと思われた方は多いと思います。
ではなぜ公の病院であの様なことが起こるのでしょうか。
病院には二面性があると思います。
一つは高度医療の提供、もう一つは利lじゅんの追求です。
もし、病院が高度医療の追求だけで成立するのなら、今回の状況は少なからず変わっていたかもしれません。事実、和歌山県立医大の中にも家族に誤注入の事実を伝えるべきだ、との意見が出ています。しかし、経営者側としての立場から、評判を恐れ事実を隠したのではないかと思います。
私はこのホ−ムペ−ジを開設し、中立的な立場で色々な意見を見てきました。
医療行為を受ける側からすれば医療過誤などあってはならないことです。
逆に医療行為を行う側の立場は、医療過誤をいつ起こすか不安を抱きながら医療行為を行っている。
にもかかわらず、医療過誤は起きてしまう。
ある医師から「医療従事者は、常に医療過誤を起こしてしまうことに、不安を感じていなければならない、そう思う事が事故を防ぐ」という意見が出ています。私もそう思います。
医療過誤を起こすことは、もちろん、問題ですが、むしろ問題なのは、起きてしまった後の、対処に問題が多いようです。医学の患者さんに対する誠意が疑われることが多いのではないでしょうか。
そんなことを感じている中で、平成9年3月2日の日本経済新聞につぎのような寄稿がのっていました。
最近の医学部の学生は、いわゆる偏差値エリートではあっても、本当に医師にふさわしい人間性を持っているのか、という指摘が多い。文部省の寺脇研・医学教育課長に医学教育が抱える間題点などを寄稿してもらった。
医師の育成は、医療の量、質を保証するため、従来から計画的に行われているところである。明治から戦前までは、医師を「国家が国家のために」育成する時代であったが、現在では、納税者意識、コスト負担意識の高まりとともに、「国民が国民のために」育成するという認識が高まってきている。この認識こそ在るべき医師育成の姿勢と考えるが、一方、その思いにこたえるべき現状は深刻な問題点を抱えており、抜本的な教育改革が求められている。卒業生の能力が低下現在の医師育成には、大きく二つの問題があると考える。第一に、若年層の医師たちに、看護婦(士)などの他の医療スタッフと協力体勢がとれない者や、患者さんとうまくコミュニケ一ションを持てない者がかなり増えてきているとの指摘がある。医療現場からも、廊下で同僚とすれちがっても会釈もしないとか、患者さんを物体のようにしか扱えないとかの例を聞く。今後チーム医療が不可欠とされ、また患者へのインフォームド・コンセントが義務づけられる医師が、社会性を欠き他人とのコミュニケーション不全というのでは医療を任せられない。 もう一つもっと重大な点は、そもそも医師としての能力が落ちてきているの
ではないかということである。近時の医学部学生は勉強はできても、実はそれは受験学力であって、本当に医師として身につけねばならぬ知識技術は乏しい。日本の医学部を卒業した者が諸外国でどれだけ通用しているかなどを考えると、世界の水準と比較してはなはだ心もとない状況にあると認めざるを得ない。この原因はひとえに、日本の医学部学生が大学で勉強しないからである。講義出席率ひとつをとってみても、驚くほど低い。欧米の医学生の半分くらいの勉強量しかないと言われているのだから、能力が落ちるのも当然だろう。受験技術学ぶだけ これらの問題を生みだしたのは、われわれの社会が長らく信奉してきた学歴偏重の受験至上主義である。幼いころから塾通いに明け暮れるなど偏差値、受験競争にどっぶりつかり、学校序列の頂点とされる医学部に合格した受験生は、その時点で輝かしい勝利者になったかの錯覚に陥る。これでは、国民から育成してもらっている責任感も国民のために働く使命感も意識できるわけがない。医学部に入学する努力はあくまで「手段」であり、「目的」は入学後、医師になるための知識技術や社会性、コミュニケーションを身につけることであるはずだ。な
のに、それが本末転倒、本来の「目的」がないがしろにされている。ひどい場合には、受験学力だけで入学し、入学後は医師国家試験に合格するための受験技術の習得のみで終わってしまっていることすらある。文部省に設けられている「二十一世紀医学・医療懇談会」では、昨年六月、二十一世紀に向けて医学・医療を取り巻く状況が大きく変化する中での在るべき医療人育成について議論をとりまとめ公表した。この報告書の眼目のひとつは、偏差値秀才イコール医者という硬直化した現状を変えることにある。このために、入学者選抜の改善やメディカルスクール制度(高等学校卒業後医学部以外の学部で四年間幅広い教養教育を修了した者が、その後四年間集中的に医学を学習する制度)の導入など、医学部への入り口の在り方を変えることを提言している。試される全人的な力 これらの提言を受け、現在、各大学では、入学者選抜における推薦入学枠の拡大や面接、論文の実施、メディカルスクール構想を実質的に先取りする学士入学(大学卒業者の偏人制度)の導入などについて検討が進められている。九八年度からは、医学部志願者全員に面接を行う大学がさらに増加する予定である。また、現
在国立大学で学士入学を実施している大学は一大学であるが、新たに十三大学で九九年度以降の導入を検討中であり、門戸が大きく広がる予定である。 推薦入学や面接、論文などによる入学者選抜が行われれば、医師になりたいというモチベーションが高く、自分の考えを相手に伝えることができるコミュニケーション能力をもつ生徒が医学部に進む可能性が広がる。また、学士入学制度によれば、今のように高校時代に受験偏差値が高い人間だけが十八歳の段階で医学部に入学するのではなく、大学で他の学問を勉強して知識と教養の核を形づくり、その基礎の上で医学を勉強したいという明確な意思を有する者が医学部に入れるようになる。面接や論文が重視される学士入学者の選抜試験では、それまで何を勉強したかのトータルな成果が問われ、社会性などの全人的能力が試されることとなる。医学部に進むため高校時代の偏差値に一喜一憂することは意味がなくなる日も近い。 国民の思いと学生の現状とのギャップを埋め、真に国民の生命と健康を守る医療人を育成するために、医学部入試改革の動きは確実に始まった。日本の偏差値社会の頂点を形成している医学部の入試方法を変えることで、ひい
ては大学入試全体の在り方に一石を投じることができるのではないかとも考えている。
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以上のようなものでした。
文部省がやっと、医学の現状を自覚したのかと思ったのですが、医師の管轄は厚生省です。
厚生省が腰を上げなければ何も変わらないと思うのは私だけでしょうか。
まだまだ、医療の問題は無くならならなそうですね。
1997年01月19日
新年になってから直訴状の投函が、活発になってきたことを喜んでいいのか複雑な気持ちですが、現場の正直な意見が、寄せられ、開設者として、このペ−ジの必要性を改めて感じています。
直訴状も数が増えてきましたので、近いうちに、整理し、より直訴状がわかりやすくなるように、工夫したいと思います。
また、直訴状への双方向性を持たせるよう、目安箱の投函フォ−マットを変更するつもりです。
皆さんも、この直訴状を最大限に、有効利用する方法がありましたら、遠慮なくお知らせ下さい。
1997年01月03日
明けましておめでとうございます。
このホ−ムペ−ジを御覧になっている方には、決してふさわしいご挨拶ではないかもしれませんが、お許し下さい。
本年もがんばって、ホ−ムペ−ジの継続をしたいと思います。早く、こんな、企画はもう必要ないと、いわれる時がくるまで。
皆さん宜しくお願いします。
1996年12月29日
本年最後の更新になるかと思います。
このホ−ムペ−ジを開いて、医療の問題は深刻なものが多いことを痛感しました。
医療過誤に関しても、報道されている内容はごく一部である事実も見えますし、かなりの数でどうにもならないとあきらめている方もいれば、裁判で勝つ見込みがないと、弁護士にいわれても、医師を制裁したいという強い意志で望んでいる方もいました。
また逆に、医師の中にも、医療に疑問を感じている方がいることも知りました。正直、医師の方にこの様なホ−ムペ−ジは無視されるかと思っていました。しかし、実際は、医師による直訴状も多く、医療問題を真剣に考えている方も多くいることを知り、少し安心しました。
とはいえ、深刻な医療の被害を受けているのは、やはり患者の立場であることは、明白です。
どうか、この様な問題をどのようにしたら解決できるか皆さんご意見宜しくお願いします。
また、これからも医療現場の真実の声を語っていただけることを期待します。
1996年12月7日
最近アクセスカウンターを設置してから,1日約何名の方にこのホームページを御覧いただけているのか見ていましたら,平均約17名前後でした。この数字が多いのか,少ないのか私には,なんともいえませんが? 1日平均数がほぼ同数と言うことは,固定された方のみにしか見ていただけていないのだろうか,などと悲観的になってしまう今日この頃ですが。やはり,多くの方に,直訴状を見てもらってこそ,ここのホームページの意義が出てくるものと考えています。(このページを御覧になった方で,もし,知り合いに医療従事者がいましたら,宣伝して下さい)
しかし,目安箱に投函される内容は,軽視できないものばかりです。 医師による苦悩の姿を見ることもできるし,医療過誤の現実を知ることもできました。
先日,看護婦さんと思われる方から直訴状をいただきました。その中に,医療過誤を受けた方へのコメントとして,こんなところにメールを送っていないで自分で裁判所に手続きをしなさいといった内容をいただきました。確かに最終的には裁判で白黒つけるしかありません。私は,これに関して,少し意見を述べさせていただきたいと思います。
多くの方は医療に関し,医師やその他医療従事者へ個人的な不快感を持ったことはあると思います。(お互い人間ですから)しかし,医療過誤を受けた患者さんや家族の方の気持ちや現状をどれだけの方が知っていますか。私を含めてそうですが,正直いってこのような立場の方へは,他人事でしかないのではないでしょうか。当事者の悲痛の叫びを聞かなくてはいけないのではないでしょうか。
私は,新聞等に載る記事は,現実の氷山の一角にすぎないと考えます。新聞や報道ではわからない現実を知らなくてはいけないのではないでしょうか。 AIDSが全国的に問題となったのも国民のみんなが現状を知ったから,国も動いたと思います。 まして,医療の環境は封建的なところが強く,問題を積極的に改善しょうといった動きは,少ないと思います。むしろ,面倒なことにはできるだけ関わり合いたくないといった方が強いでしょう。だからこそ,現場の声を、多くの人たちに聞いていただく場所が必要だと思います。
私の周囲にも、この開設に関して,批判的な方もいます。
今これが、私にできる医療問題に対する,行動として、精いっぱいの事です。
この様な考えに賛同される方、是非ご連絡下さい。 徐々では,ありますが,賛同のメールをいただき,このホームページを開設して良かったのだと,これからも,周囲の批判にも負けずにがんばらねばと勇気づけられる今日この頃です。
西島 洋憲
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