猫美ちゃんの館

 第19話 努努不可疑
ユメユメウタガウコトナカレ


   夜

「はぁ、はぁ……」
 ……。おそらく、当面は逃げ切ったはずだ。
 始めは手下の些細なミスからだったが、遂にわたしと行動を共に
する者は居なくなってしまった。だからと言って別に心が痛むわけ
ではない。脚を引っ張るヤツが居なくなっただけのことだ。ただ、
それに付随して、大きいことが出来なくなっただけだ。尤も、組織
自体の作戦実行能力は、一月前の検吏のアタックから無いも同然だっ
たが。
 逃げるにしても、街から離れれば、おそらく、しばらくは組織と
しての活動は可能だっただろう。おそらく、散り散りになった幾人
かは、山奥か、他の街へ落ち延びたに違いない。
 わたしは……、わたしにはそんなことは出来ようもなかった。こ
の街から逃げる!? それこそ、敗北だ。わたしはまだ負けたつも
りではなかった。負けを認めるわけにはいかなかった。死ぬまで認
めるつもりもなかった。認めたとき、この不公平な社会に埋没する
ことを意味するからだ。
 自分の思想が正しいとも、行動が正義とも思ったことは無かった。
しかし、道端で野垂れ死んでいる死体に脇目も振らない世界が普通
だと思ったことは無かった。ただ慣れただけだ。工場で18時間働
いても食えない者が居るのに、夜な夜な遊んでいる金持ちが居る世
界も正しいと思ったことは無かった。ただ、生まれたときからそう
だっただけだ。
 それでも、わたしについてくる者達にこの世の間違いを吹き込む
と面白いように踊ってくれた。それが、彼、彼女らを、そうなさし
めている証拠でもあった。
 ――どん。
「きゃん!」
 角を横切ろうとしたとき、出てきた人影にぶつかった。
「静かにしなっっ」
 手に馴染んだナイフはその瞬間に星明りと、二つの欠けた月明り
を相手の目前で反射させていた。
 頚動脈に行かなかったのは、逃げ切ったはずだからだ。中流住宅
地に近い商店街の裏道の角だからだ。モノ漁りの名無しかも知れな
いからだ。
 ナイフが閃いたのは……、荒んだ生活の所為か……。相手が検吏
でも無い限り、追われてる自分の正体に気付く可能性はほとんど無
いのに。
「!」
 その顔は数年振りの顔だった。右耳先の黒毛を忘れるはずは無かっ
た。
「猫美!」
 その名を口にするのも同じく数年振りだった。そして……。
「マ、マリ姉……」
 そう呼ばれるのは何年振りだろう。
 少なくとも、上級徒養園を飛び出してからそうわたしを呼ぶもの
は居なかった。
 そういえば、あいつらが「姉御」とわたしを呼ぶようになったの
はいつだっただろうか? まだ、組織の呼び名も無く、無計画に、
上流階級の住宅を荒らしていた頃はまだ、「真理呼」とか、「真理
呼さん」とか、「真理呼姉」とよぶヤツも居たが……。
 いつの間にか、そう、いつしか、立ち去った後に、「真」の字を
残す様になって、新聞やラジオで、「真団」と呼ばれる様になった
頃には、もう、わたしの名前を呼ぶものは居なくなっていた。
「真理を呼ぶ」という意味の名前は嫌いではなかった。そう付けて
くれた、徒養園の養師は、物心ついたときにはもう死んでいたが、
彼女に感謝した。真理に向かって進むつもりだった時期もあった……。
 真理へのレールを外れたわたしには、どうせ、本名を呼ばれるこ
とは耐えられなかったに違いない。そしていつしか、わたしは自分
の名前を忘れていた……。
 ……意外な程、その数年来の出会いにわたしは驚いていない。
 猫美がこの辺りに住んでいることは知っていた。彼女が上級徒養
園を出て行く姿をわたしは覚えている。一週間もせずに、わたしも、
その上級徒養園を出た。彼女は柳ヶ丘修園の奨学生として、わたし
は、自分の意志で。行き先もなく。
 ――わたしがこの街を捨てられなかったのは、猫美が居るからだ
ろうか……?


※検吏:けんり
  警察。組織的には軍の一部。
 名無し
  名字無し。親が不明の孤児。一般的。
 養師:ようし
  先生みたいな、シスターみたいな……。
 徒養園:とようえん
  0〜12歳の孤児を養う施設。主な都市にある。
  勉強も教える総合孤児院。10%ぐらいが国家補助のある上級
  徒養院に進む。
 上級徒養園
  8〜14歳の孤児を養い、より上級教育を行う施設。
  数年前に特に優秀な生徒が修園に行けるように、
  財団補助がでる制度ができた。猫美は初代。
 修園
  上級階級向けの高等学校。単位制。
  規模にも依るが中学校〜大学レベルと幅は広い。
  入園、卒園等の規定は特にない。
  柳ヶ丘修園は中でも名門で、規模も大きい。
 月
  この惑星には月は3つある。


   昼

「来てない!?」
 猫美が来てないとは珍しい。
 涼子のトコかしら? 久し振りに時間が取れたのにィ……。
 涼子のトコに泊まりだとしたら、変な成分が検出されて、データ
が乱れるから困るのよねェ。
 桜音琴は、猫美が居るはずだった教室を後にして、これからのコ
トを少々思案していた。
「桜音さん!」
 後から引き留めるその声は、明らかに琴を非難していた。
「探してましたわっ。猫美さんをどうしたんですの!?」
 二人とも忙しい身なので、本来あまり顔を合わせることはないし、
もともと、貴族端の涼子と、彼女らに言わせれば成り上がり者の琴
は、住んでる社会が違う。猫美のコトでもなければ、涼子から声を
掛けることは普通は無い。しかし……。
 !?
 涼子じゃないの?
 ますますおかしい。
 奨学生である猫美が、猫美だけでなく、奨学生はみなそうだが、
理由もなく修園に来ないと言うことはない。彼ら、彼女らは、人生
を変えるチャンスを掴んだ者達たのだ。多くの名無し達が、今日、
明日だけを心配して生きている中、1年後、10年後、さらには、
次の世代のコトを考えられる人生を歩む機会を得た者達なのだ。少
なくとも、狭き門をくぐり抜けてきた彼女らの、その実力は疑いよ
うもない。のうのうと、十年一日の様に生きてきた楼閣なる貴族階
級を当たり前としてきた連中とは目的意識も違う。
 幾ら、貴族制度が廃止されたといえ、厳然たる社会合意と大衆意
識はそうぬぐいさり得るものではなかった。しかし、奨学生の存在
は、少しづつ前進しつつある社会を表していた。今はまだ取るに足
りない勢力ではあるが、いつか上流階級と底辺階級がぶつかる日の
始まりであるのかも知れない。
 ま〜そりゃそうと、やはり、涼子のトコじゃないとなると、一体
どうしたんだろう。
「おあいにく、あたしじゃないよ」
「あ、ちょっと!」
 兎も角、もう涼子から得られるものは何もない。あんまり薮蛇ら
ないうちに退散しよう。
「もー……」
 涼子のそんなつぶやきも無視して、わたしはその場を辞した。


※桜音:さくらね
  桜音 琴
  工業系社長令嬢。古代工学の権威。マッドサイエンティスト。
 涼子:りょうこ
  緋ノ宮 涼子
  製薬会社オーナー社長。細瞳科の貴族系。


   昼

「ええっ!? 今日も来てない!?」
「はい。桜音さま」
「そ、そお…。あ、ありがとね」
 ……。真に唯事ではない。猫美が何もなく三日も休むハズはない
し…。風邪でもひいたのかしら……?
 病気だとしたら……病院には……行ってないわよねぇ……。そん
な余裕が有るはずないし。

 ゴソゴソ。鞄に電池を内蔵した電話を取り出す。もっとも、屋敷
にしか繋がらないが。
『はい。岳夜です』
「あたしだけど、猫美が来てないの。病気かも知れないから、見て
きて。もし、居なかったら、至急探し出して」
『はい。了解致しました。猫美さん宅に着いたら一旦連絡致します」
「じゃ、お願いね。岳夜」
 ――嫌な予感がする……。

※岳夜:たけや
  琴付きの執事の一人。


   夕

「あいかわらず、良い声で喘(ナ)いてたじゃない」
 真理呼は、愛用のナイフを玩びながら、いそいそと服を着る猫美
にそう声を掛けた。
「修園に、いい姉サマでもいんのか?」
 下世話な台詞だ。自分でもそう思いつつ、どうしても訊かざるを
得ない自分を真理呼は内心卑下した。今に始まったことではないが……。
 まさか、そんなことが有るはずはない。有って欲しくない……。
 真理呼にとって猫美との関係の時間は猫美が修園に行ったときか
ら止まっていた。もっとも、真理呼のすべての時間はそのときから
止まっているようなものだったが……。
 猫美もそうであるからこそ、以前と同じ様に自分に抱かれたはず
だった。少し成長した胸もなつかしいものだった。
 ただ、少なくとも、猫美の肢体(カラダ)はここ数年ご無沙汰だっ
た反応ではなかった。それ自体は別に驚くことでも裏切りでもなかっ
た。おそらく、そうすることは、猫美にとっては生きる智恵なのだ
から……。
「あ、あたし、バイトだから……」
 しかし、こちらを見ずにうつむきながら言った猫美の台詞は、真
理呼にとって明らかに裏切りを意味した。猫美にとって、真理呼は
過去になっていることを明らかに意味した。
「きょ、今日も遅くなるから」
 猫美は、そそくさと目を合わせずに出て行ってしまった。
 カツーン。
 猫美が今し方出て行ったドア横の柱に真っ直ぐ飛んできたナイフ
がつき立つ。
「ケッ」
 わたしに以前の様に抱かれたのも、生きる手段でしかなかったの
か……。
 不意に涙が出てきた。止まらない……。
 時計の進んでいる猫美に。時間の止まってしまった自分に。
 生きている猫美に。死んでいる自分に。
「――……。あんたさえいなけりゃ……」


   夜

 たったったっ…。
 猫美は食材でいっぱいの袋を抱えて、内へ急いでいた。普段なら
とても手を出さない様なものも……。それは、マリ姉が同居人では
なく、客であることを意味していた。
 マリ姉、寝てるかな?
 時間的にはとっくに寝てておかしくない。それでも、マリ姉がま
だ起きてる確率は高かった。
 小走りで、アパートの門に前に来たとき、その前に人影が有るの
に気付いた。
「琴…」
 門に背をもたれさせてそこに居るのは琴だった。横にはお付きが
二人。
 ……。ここに琴がいる。それは良いニュースで有るはずは無かっ
た。琴の表情もそれを肯定していた。
 誰かから逃げてる風のマリ姉を匿ったときから、覚悟はしていた
が、それは思ったより早かった。マリ姉が今まで何をしていたか……。
それは猫美に訊けることではなかった。少なくとも、その資格がな
いと猫美は思っていた。
「琴…、あの…」
「居ないわよ。検吏に通報したわ」
 覚悟はしていたが、検吏に連れて行かれたという事実は、やはり
ショックだった。
「猫美に迷惑は掛からないようにしといたから、心配するコトはな
いわ」
 琴にとって心配なのは猫美であって、指名手配中の窃盗団の首領
たる真理呼に気を回す理由は何処にもなかった。
「あの、マリ姉は…」
「磔でしょうね」
 ! 覚悟はしていても、一瞬息を飲まざるを得なかった。
 マリ姉が何をしてきたかは知らない。しかし、琴がそう言う以上、
それなりのコトをしてきたのだろう。それは、猫美にとって、もう
どうにもならない事態になっていることを意味していた。
 そんな事態にも関わらず、自分の為に手を回してくれた琴のやさ
しさは身に染みた。
「―そう」
 そう答えるのが精いっぱいだった。
 ゴソゴソ……。
「琴…、あげる…」
 バイト先のさざや氷菓子店から店長に頼んで安くしてもらったア
イス二人分だった。それは、猫美のような暮らしの者が普段食べる
ようなものではなかった。無理をして買ってきても、今や、それを
食べられる自信は猫美にはなかった。食べる理由も無かった。
「猫美…」
 落ち込んだ猫美に掛ける言葉を琴は持たなかった。



   一ヵ月後

   夕

「バイトにはちょっと早いなぁ…」
 4コマ目が休講になった猫美は、しばらく図書館で時間をつぶし
ていたのだが、それでもバイトまではもうちょっと時間があった。
「猫美〜っ」
 頭の上から声がする。それは琴以外に有り得ない。両足になんだ
かごついモノを着けて、琴はほぼ自由に空を駆ける。ほとんどは、
先人類の遺産だそうだが、古代工学の権威の琴にも、根本原理が分
からないと言ってるものを、ただの人な猫美が詮索してもしょうが
ない。ただ、少なくともこの街で、おそらく国内でも、空を飛ん
でる生身の人間は琴だけだろう。世界中でも他に居るかどうか……。
「今日、お願〜い」
 いつものように、琴が降りてきながら、データ取りを猫美に頼む。
「ごめん、琴…。明日早いんで……」
 普段なら、特に断る理由はないのだが……。
「河咲に行くの?」
 ちょっと考えて琴は猫美に訊いた。
 一月前に捕まった、あの窃盗団の頭が思い当たった。彼女の磔が
河咲の磔場で執行されるハズだった。彼女以前に捕まっていた数人
は既に磔執行されていた。
 猫美はもう彼女のしてきたことを知っているはずだ。真団の略奪
した経済的な犯罪を考えても、虐殺した人命を考えても、彼女が許
される理由は何処にもないし、そして、なにより、彼女は猫美に会
うことを望んでいるだろうか……?
「うん…。やっぱりあたしぐらいは……」
 彼女のしたことを踏まえて、猫美はそう言う。猫美にとって、彼
女は、マリ姉とはそこまで重いものなのだろうか? あんな女にそ
の価値があるのか!? 猫美をあんな目に合わせた女に……。
「どうして……」
 ガサガサ……。ひとしきり風が強く吹き、並木の葉を掻き鳴らす。
「それ程の仲なの!?」
 琴は声を強くした。どうしても納得行かなかった。

 人に聞かれるのもなんなので、市(マチ)の見渡せる修園の敷地外
れに二人は移動した。
 日はもう一時間もあれば沈んでしまいそうだった。西の空は赤く、
東の空は少しずつ暗くなってきていた。夕焼けが悲しく見えるのは
気の所為だろうか……。
「マリ姉は徒養園のときから、あたしの面倒をみてくれてたんです」
 ベンチに座った猫美が、そう呟く。
 わたしの方からは猫美の表情は見えない。だが、特に懐かしげに
喋ってるでもなく、悲しげでもなく、淡々と事実を述べてるだけの
ように聞こえる……。猫美の本心にわたしの理解は全く手が届かな
い。
「それなのに、あたしの所為で修園に進めなかったんです。マリ姉
の方が頭良かったのに…」
 ――違う。それは違うのよ、猫美! 彼女が修園に進めなかった
のは、と言うより、猫美が修園に来ることになったのは、わたしと、
そして理由は不明だけど涼子が手を回したからだ。元々、奨学生の
制度自体が、猫美の為だったと言ってもいい。猫美が居なければ、
制度実現はまだ先だったに違いないのだから……。
「あたしが居なかったら、マリ姉はあんなコトにならなかったんで
す」
「――……]
 わたしには返せる言葉がない。何か言えばボロが出そうだった。
「あたしが居たばっかりに……」
 誰に聞かせるでもなく、何かを噛みしめるように猫美はもう一度
呟いた。
「……よしょ。あたしバイトだから……」
 ベンチから猫美が立ち上がる。
 寂しげな後ろ姿……。わたしは猫美の立ち入ってはいけない場所
まで、入ってしまったのかも知れない……。しかし、猫美はだまさ
れている。あの女は、猫美がそこまで気に病む価値はこれっぽっち
もない。
 世の中には知らない方が良いことは幾らでもある。しかし、死刑
当然の輩に彼女の信頼が値するとはどうしても思えない。思いたく
ない。思うべきでない。
「猫美!」
 わたしは決心した。
「ずっと黙っておくつもりだったけど、やっぱり言っておくわ」
 わたしは取り返しのつかないことをしようとしているのかも知れ
ない。
「あの事件のとき、あなた達を売ったのは彼女よ!」
 わたしはあの時のあなたの赤く染まった手を忘れない。血の涙を
流す鬼神の姿を忘れない。
 あなたはそれでも行くの? 猫美?
「――…」
 うつむいて黙っている猫美……。
 猫美は河咲に行くのを止めてくれるだろうか。猫美の受けるショッ
クよりも、わたしには、そちらの方が気になっていた。わたしも猫
美にはふさわしくないのかも知れない……。
 ゆっくり猫美が顔を上げて振り向く。
 逆光になって、猫美の表情はよく見えない。
 真っ赤な沈み行く太陽の光が眼に染みる。
「知ってます」
「え!?」
 ちょ、ちょっと、今、なんて……。
「琴、また今度付き合うから。それじゃ」
 それだけ言うと、猫美は前の階段を駆け降りて言った。
 わたしは一人、そこに取り残された。

   終

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