1ヶ月程前になる。
田舎であるにも関わらず操業している近所の美術館から、
今度この近辺の芸術家達の作品展を開くから、 それに美術部の作品も出展してみないかという話が舞い込んできた。

とは言うものの、うちの学校の美術部は私以外には部員がおらず、話を聞いた私も、

「出すとしても一点しか出せないですし、やっぱりお断りしましょう」

と言ったのだが、先生はそれに闘志を掻き立てられたのか、

「絶対出す!、いや出そう!、一般の生徒も非常召集だ!」

という具合に、ものすごい勢いで準備を始めてしまったのだった。

先生がそうなのだから、美術部の私が手伝わないというのもなんだか良くない気がするし、
先生の様子に私もちょっとやる気になって来たので一緒になって急遽準備を始めたのだった。


さて先程の写真はというと

「遙はともかく、他の連中はただ写生に行かせたら途方に暮れるだろうからな、あらかじめ写真でサンプルを用意しとこう。
 写真を見て場所を決めた上で各人その場所に行って描けば時間を短縮できるし、良い物もできるだろ?」

との事で、 本当は先生が全部用意すると言っていたのだが、そういう事なら私も手伝わなければと言うことで撮ったものだった。
写真を撮るのは写真好きの母に多少手解きしてもらった事があったし、風景は偶に一人で写生やら散歩やらに出掛けることが多かったから探すのは楽だったけど、
準備を私と先生の二人だけでやるのはなかなか大変で、それで1ヶ月もかかってしまったのだが。

「あの、どんな人が来るんですか?」
「んーと……お前のクラスからは3人だな、刀簗(かたやな)と陣後(じんのうしろ)にあと…えーと、名前が珍しいってのは思い出せるんだが…ええと…」
「奏條君の事ですか?」
「そう、それだ、奏條時雨(そうじょうしぐれ)。あの3人はなかなかセンスが良いからちょっと楽かもな、後は……」

奏條君の名前を聞いて、私はなるほどなと思った。
やや珍しい名前の割には目立った所がない彼だったが、彼が美術の時間に作っている物はどれも丁寧に仕上げられていて好感が持てたからだ。
作る本人そのままに目立った所はなかったけれど……何故か気にかかっていた。

「なあ、聞いてるか?……遥」
「え!?…あ、はい」
「で、聞いてたのか?」
「ちょっと……聞き逃しました…」

私の言葉に先生は半眼から目を線のレベルまで落として腕組みをすると、そのまま言った。

「……まあいいよ。それよりもうすぐ昼休み終わるぞ、さっさと教室に戻った方がいい」
「すみません、失礼します」

言葉とともに一礼して、私は準備室を出る。
昼間でも少し薄暗い美術準備室を出たせいか、廊下の窓から差しこむ強い日差しに目を細めなければならなかった。
 
長い午後が始まる。

響時が言う『オニさん』というのは、うちのクラスの委員長である陣後恵子(じんのうしろ けいこ)さんの事だ。
彼女と響時の関係は起伏に富んでいて、穏やかかと思えば激しく、ふざけている様でとても真剣だ。

オニさん曰く、『最大のライバルであり、共に歩む人』。
響時曰く、『目標であり、原点』。

当人達が言う通り、二人がかなり特殊な関係であるのは間違いない。

別の一言で済んでしまうのかもしれないのだけれど、当人達が異口同音に言うには『何か違う』らしい。

「つまり、オニさんと一緒に南雲先生の恥ずかしい所を目撃した、と」
「そうだな」
「……何やってたの?」
「その質問を出すとはなかなかのワルだなオマエ」
「違うよ、先生じゃなくて響時達の方」
「あー、そっちな。えーと……トレーニング?」
「またデート?、相変わらず仲良いね」
「デートって言えるのかは微妙な所だと思うけどな」
「そうなんだ」

響時が微妙に顔をしかめた。
世俗的な悩みには無縁そうに見えるけど、そうでも無いのはここ2年で良くわかる様になった。

「まあ…お前には話しても良いかな」
「何を?」
「こないだの事さ。オニさんと『ふぃふするな』に居たんだよ。で、南雲先生が偶々そこにいてな、DDRやってたんだ。
 3曲目だったかなー、最初のステップをキチッと決めようとしたんだろうな、 同時踏みやるために軽く飛んだら、ステージがすべりやすくなってたらしくって、すってーんって、こう」

響時はそこで滑って転ぶ真似をした。

『ふぃふするな』というのは響時達がよく行くゲームセンターの名前だ。
田舎のゲームセンターであるにも関わらず、筐体の手入れも良く、雰囲気も客入りもなかなかのものである。
DDRというのは”Dance Drive Returns”というアーケードゲームの略称で、
専用の大型筐体が特徴的なこのゲームの操作方法は「ステージ」と呼ばれる専用のステップに設置されたセンサーパネルの内、
画面で支持されたパネルをリズムに乗って文字通り踊るように踏んでいくというこれまた特殊な物だった。
ただそれが若い層に受けて今では定番ともいえる人気ゲームになっている。

「それを二人で見てたの?」
「うん。クールダウン中にちょっとよそ見したらそういう事が起きたから、二人して見なかったフリしようかと相談してたんだが、 速攻気付かれてな。
 先生は先生で、俺達を見るなり澄ました顔で近寄ってきて『さっきのは、絶対に内緒にしてくれ』って言い出すしなー」
「……約束破るのは…」
「別に俺明確にうんって言ってないもんよ、『軽々しく話したりはしません』とは答えたけど」
「詭弁も良い所だよ、それ」
「そんだけお前を信頼してると取ってくれよ、口堅いだろお前?」
「確かに先生の為にも人には言わないだろうけどさ」
「じゃあそれで良いだろ」
「うん……」

なんか釈然とはしないけど、ここでそれについて議論しても仕方ないとも思うので、これ以上は追求しない事にした。
それはそうと、いつもどこかなげやりにすら感じられるゆるい調子で美術の授業をすすめる先生と、
常に冷静な響時達2人の普段の様子からは、想像される光景は当事者よりも傍から見ていた方が面白そうではある。
想像するだけでもそうなんだから、実際はどんなだったのだろうか……。
……しかし、それが原因なら僕まで先生に呼ばれるのはおかしいんだけど。

「そういう事だから、お前には関係ない気がするんだけどなぁ」
「僕もそう思うけど……他に心辺りも無いんだよね?」
「無いな……まぁいいや、行くか」
「え?……行くって、どこに?」

放課後の話だと聞いた直後なのに、早過ぎるんじゃないかと思って僕は驚く。
……が、響時はいつもの顔よりも少しだけ目を細めて、ちょっと驚いている。
その顔のままで、響時は口を開いた。

「教室に決まってるだろ」
「あ、ああ。教室ね……」
「しっかりしろよ、奏條時雨(そうじょう しぐれ)君」

さっき下の名前を呼ばれた時とは違う、揶揄するような響きで響時は僕の名前を呼んだ。
ぼんやりしがちな僕を注意するその呼び方は、出会ったばかりの頃は文字通りの注意だったのだが、最近ではそれで僕をからかっているのが良く解る様になった。

しかし、ただでさえ本格的な夏を目の前にして暑くなってきているのに、この晴天ではぼんやりするのも仕方ない気がする。
屋上でお弁当を食べた後、そのまま漠然と最近心に引っ掛かっている事に付いて考えていた訳だが、
流石に今日の天気は考え事には向いてなかったなと僕は反省した。

「…どうした?」
「ごめん、今行く」

考え事をしていてまた注意されたが、今度は驚いたりはしない。
しかし、これからの季節、考え事をする場所には気をつけようと心に決めて、僕は教室へと歩き出した。


タイトル

高い位置で結んだ髪は背中の中程まで伸びて、それが持ち主の歩みに合わせて左右に揺れる。

彼女が“オニさん”だ。

背筋を伸ばし、綺麗にのりが効いている制服に身を包んで規則正しく靴音を響かせる彼女の後を付いて、僕と響時は美術室へと歩く。
彼女は美術室の前まで来ると足を止めて、併せた様に響時も足を止めた。
だから僕も立ち止まる。

そのまま、響時は動かない。

「響時、どうしたの?」

前を見つめたままで動こうとしない響時に、事情を聞いてみる。

「いや、ちょっとな」
「何か驚く事でもあった?」

質問は先を行くオニさんからだ。
こっちをまるで見ていなかったけど、ちゃんと聞こえていたらしい。

「ああ、突然よそ見する人が居たんで何事かと思って」
「誰の事?………もしかして、私?、だったらあなたの方がどうかしてるわよ」
「……何で?」
「ここは美術室の前よ、中に入るから入り口の方を向くのがおかしな事なの?」

確かにオニさんの横には美術室がある。

「………成程」

ぼそりとそう言って、響時は再び歩き出した。
オニさんが先立って扉を開けて部屋の中へと入ってゆき、それに響時と僕が続く。

教室の中には、既にまばらに人がいた。
その間を縫って適当に開いている席に僕達は腰を下ろす。

僕達を含めて全部で8人の生徒がいた。
学年、性別はまちまちだったが、僕が顔を知らないのはその内3人だった。
男子生徒が1人に女子生徒が2人、
その内の2人、そこそこ長い髪を頭の高い位置で横に2つゴムで止めたいわゆる“ツインテール”状態の髪型の女子生徒と、
5分刈りくらいの坊主頭をした男子生徒は何か話しているみたいなので知り合い同士らしい。

彼らを遠めに見ていると、見知った顔の一人が近寄ってきた。

「おーす、美術室へようこそ!」

響時よりも頭1つ分高い背をした彼は、別に運動部でもないのに日焼けしている。
体格を反映した様な大声でさっきの台詞を発した彼はいつにも増して楽しそうだ。

「……元気そうだな、男前」
「ああ、俺は常に元気一杯腹一杯!、そしていなせな男前!!、あらゆる意味でバッチリだーッ!!!」
「そうだな」

『男前』と呼ばれた彼は勢い良く親指を立ててポーズを決めると、かなり嬉しそうな顔で響時の肩を叩き始めた。
叩かれている響時の方は真顔のままだ。

「なーに本当の事言ってるんだ、か〜た〜や〜な〜」

彼の名前は高木亮(たかぎりょう)という、クラスこそ違うけど響時と同じくこの学校に入学して以来のつきあいだ。
初対面の時からこの調子が変わらないという、かなり気さくな人だ。

「おおっ、良く見れば委員長もいるじゃないの、奇遇だねえ」
「……私はあなたのクラスの委員長じゃないって、この前も言ったわよね?」
「いいじゃん、細かい事は。それより、何やってんの?」

オニさんの結構冷淡な言葉にもまるで動じていない、このマイペースさは見習うべきだと思う。

「……私達は南雲先生に呼ばれて来たの」
「なんだってえ!?、俺と同じじゃないかっ!」
「3秒で気付け」

突っ込みはオニさんからではなく、響時から出た。
こういう時も仲が良い。

「3秒はは妥当な時間なのか?」
「それ以上時間掛ける奴は芸人として失格だ」
「芸人として失格なのか!?」

高木君は凄く驚いた顔をしながらそう言った、芸人を目指しているとは聞いていないけど、向いてる気はする。

「多分な。それはそうとオマエ芸人じゃないだろ?」
「ああ、そう言えばそうだった。しかし将来的にそうなる可能性は無くもない」
「どの程度だ?」
「ん〜?、スイカの種が芽を出す確率よりは高い気がする」
「そうか……まぁ妥当な判断だな」

何かの本で読んだけど、スイカは土壌の病気にかなり敏感らしいので、
芽を出させるには種がどうこうと言うよりは蒔く場所の方が問題らしい、たぶんどうでもいい事だから黙っておくけれど。

僕が黙った事が影響したのかどうかはわからないけど、そこで一度会話が途切れた。
そしてそれに合わせるように美術室内にある美術準備室の扉が開く、 姿を現したのは南雲先生だった。
 
指折りこっちの人数を数える先生の後ろに、先生より頭一つ小さい人影がある。
顔は見えなかったが、足音のテンポになんとなく覚えがあった。

「よし、全員そろってるな」
「はい先生!」

高木君が威勢良く返事をし、先生がそれに応える。

「絶好調みたいだな、男前」
「やだなぁそれほどでもないっすよ」

最後の一言に対しては何も言わずに一つ頷くと、先生は教卓へ向かって歩き出す。
そして僕は、さっき先生の影にいた足音が、誰の物だったのかを知った。

何故か気になる女の子だった。
霊曜遥(れいようはるか)という名前の珍しさもあるけれど、それ以外の何かが気になっている女の子。
「なんでここにいるんだろう?」と考え始めた矢先に、 霊曜さんは僕達の前方に空いていた席の1つに座り、南雲先生は僕達を集めた理由を説明し始めていた。



「……そう言う訳で、ここに集まって貰った理由は解ってもらえたと思う。解らなかった者はもう一回説明するのが面倒なんで後で質問するように。んで……」

秋に近隣の美術館で開かれる展覧会の話に始まり、 そこに特別企画的に近隣の学生の絵が展示されると言う事と、その絵を僕達に書いて欲しい、という風に進んだ先生の話はそこで一時停止した。
響時の心配(本人はしてないのかもしれないが)は、杞憂に終わったらしい。

僕はというと、先生の話を半分聞きながら考え込んでいた、霊曜さんの事をだ。
彼女がここに居る理由は、美術部の部員だからだと思う、何度か話した時に確かそんな事を言ってた気がするし。
でも、気になった理由は、彼女がここに居たからという事じゃない。
教室の中で見かける時には見せない、少し憂いのある表情がここでは見えて、しかもそれに見覚えがあるからだと思う。

思い出せないのはそれをどこで見たかという事だ。
教室の中ではないし、美術の授業中でもない。
街中で出会った覚えなんて無いし、
僕と彼女の接点は高校に入ってからの1年と3ヶ月くらいの間しかない。
けれども、見覚えがあるという感覚だけは妙にはっきりしている。
覚えが無いのに覚えがあるなんていう矛盾も良い所の感覚は酷く気持ちが悪かった。
魚の小骨がのどに刺さった時みたいだ。
 
「……えーと、最初にやってもらうのは、この中から道具と写真を選ぶ事だ、道具はどれも大して変わらないんで適当に取るよーに」

……そんな事を考えている内に、先生の話は随分進んでいた。
話半分にしか聞いていなかった部分で、絵のテーマが風景画というのはなんとなく理解していたが、
今話しているのはその風景を書くにあたって、いきなり風景を探しに行くのは効率が悪いので先生が準備した写真でまず場所を選ぶということ……のはずだ。

「写真をどれにするかは……えーと、決め方考えてなかったからとりあえず全員ここ来て」
「とりあえずとか言うの止めましょうよ」
「刀簗うるさい」

響時からのツッコミなのかからかいなのか判断に迷う一言を、先生は苦笑いしつつ返した。
とりあえず、というのは確かに良くないのかもしれないけれど、僕も内心でとりあえず道具を選ぼうとひとりごちて、席を立った。



「霊曜さん」
「あ、はい」

声の方を見ると、私の名前を呼んだのはクラス委員の陣後さんだった。
こちらは椅子に座ったままで、彼女は立っているので見下ろされている形になる。
今はクラス委員としてここに居るわけではないのだけども、こうして名前を呼ばれると妙な緊張感がある。
彼女の雰囲気のせいだと思うのだけど、普段話さない分自分が意識し過ぎているのかもしれない。

「写真の残り、返すわね」
「あ、はい」

差し出された写真の束を受け取って、逆にこちらからちょっと気になった事を聞いておくことにした。

「えーと、道具の方、問題ありませんでしたか?」
「んー、見た感じ大丈夫だったけど…使ってみたらまた見方変わるかもしれないのかな…。あの絵の具とか普段授業で使う奴とはちょっと違うみたいだし」
「あ、そうですねー」

この件の為に、先生は美術部の活動用に使っている絵の具を放出している。
先生の私物……というか、なんでも近くの画材メーカーが倒産した時に個人的に貰って来た物なのだそうだ。
授業の教材として使ってる物より良い物らしいのだが、私の見た目にはその差が良く判らない。

「普段使ってる物に比べるとムラが出にくいんで、そこだけは注意した方が良いと思います」
「ムラが出にくいって事は……普通に塗ったら平坦な色になっちゃうって事?」
「そうですね、でもそんなに意識しなくても良いと思いますよ。加減さえ判れば普通に使えるはずです」
「後でもうちょっと詳しく聞かせてくれない?」
「いいですよ」
「ええ、よろしく」

座席に戻る陣後さんを見送りつつ、戻ってきた写真を確認する。
別に戻って来なくても問題は無い代物なのだが、皆がどの写真を選んだのかというのは興味があった。

写真裏に書いておいた通し番号と、写真を撮るとき地図に書き込んでおいた番号を照らし合わせて、どこが選ばれたのかざっと見てみる。
写真は大雑把に学校の北と南で取っていて、北が私で南が先生の受け持ちだった。
さっき返却された写真は大半が南で撮った物だったので、その中で無い物を探す。

「どの辺が売れてるんだ?」
「あ、えーと……森の近く、ですね」

私の手元を覗き込みながら聞いてきた南雲先生に確認作業を続けながら返事をすると、先生は満足そうに首を縦に振った。

「なかなか良い感じの風景が一杯あったからなぁ」
「南の方の写真はまだ戻ってきてないんですけど…」
「ああ、それなら今私が引き取ってきたよ。えーとな……」

先生はそう言うと、パラパラと何枚か捲って首をまた縦に振った。

「想定通りの所が売れてる」

そう言って、にやにやという形容しかできない笑みを浮かべている。
とても楽しそうだ。去年の冬に落ち葉を集めてこっそり焼き芋をやっていた時もこんな顔をしていたのを思い出す。

「じゃあ、遥は北側の写真を選んだ連中を案内してやってくれ、私は南に行くから」
「え、そこまで今日中にやるんですか?」

急な話だったので驚きつつ、今日の予定をそらで確認する。

「駄目……だったら無理にとは言わないんだが……その、早い方が良いしな…」

ちょっとトーンが落ちた先生の顔を見て、逆に今日やろうという気になった。
今日中に行った方が良いのは間違いないのだ、なら今日行く方が良い。

「私は大丈夫ですよ」
「よし!、流石は私の一番弟子!」

私の両肩を叩くように置かれた手の暖かさを感じながら、いつ弟子になったんだっけ、と考える自分に気付いて思わず頬が緩んでいく。
先生の相手はいつも楽しい事ばかりだ。



「こっちの方が人数多いんだな」
「別に多くて良いじゃない」

響時の呟きにオニさんが答える。
……制服姿の二人が気安く話しているのは珍しいので、やっぱり仲良くなってるんだなぁと、自分の事の様に嬉しくなった。

「いやそうなんだが、引率が着いたのが人数少ない方だったからさー」
「あ、それは向こうの人たちが選んだ写真を撮ったのが先生だからです」
「あ、そなんだ」

響時の疑問に前を歩いていた霊曜さんが振り返って答えた。
驚いているんだかいないんだか良く判らない表情で”へー”と言う響時と対照的に、
いつもよりも大きく目を見開いて驚きを表したオニさんは、彼女へ次の質問を放つ。

「じゃあ、こっちの写真は霊曜さんが撮ったって事?」
「そうですよ」
「全部……そうなのよね?」
「そうです」
「全部で何枚くらい撮ったの?」
「え?、えーと、皆が見た物に加えて10数枚って所ですけど」
「それだけしか撮ってないの?」

ちょっと声が大きくなった。

「あ、す、すみません」
「ひでぇなぁ」
「違う!、私は責めてるんじゃなくて、驚いたから…」

ぼそりと呟いた響時の声にちょっとあわてた様な声が跳ね返った。

「驚いたって……何に?」
「あの写真、どれもピンボケとかにじみとか、画面が暗くなったりとか全然してなかったじゃない」
「……言われてみればそんな気もするな」

響時はそう言うなり上着のポケットから写真を取り出して眺め始めた。

僕も自分が選んだ写真を良く見てみる。
確かに変な影とかのない綺麗な風景写真だ。

「写真撮るのって結構難しいじゃない、手ブレ補正とか付いてるデジカメとかって高いし…カメラも先生に?」
「あ、自前です。私のはお母さんに貰った物なんですけど…手ブレ補正とかは……付いてたかな…?」

考え込んでいる。
手振れ補正がどうだこうだと言われ始めたのは最近の事だから、古めの物なら付いてない気がする。

「あ、デジカメじゃないですね、思い出してみたら現像に持って行ったのはフィルムだったし」
「じゃ普通のカメラなんだろうな……結構なお手前で」

響時が華道の先生みたいな感想を漏らして何やら考え込み始めたらしい。
霊曜さんとオニさんはそのまま写真の話を続けていた。

僕はもう一度、自分の写真に目を向ける。

緑ばかりの木々に囲まれた中で、その中心部分に1つだけ色づく木が立っている写真だ。
……木の種類は、多分金木犀(きんもくせい)だと思う。
回りは林だか森だか解らないが沢山の木に囲まれた場所の中で、その木だけ離れて立っているらしい、微かに写っている地面の部分でそれが解った。

変な感じがする写真だと思った。

風景が、ではない。
この風景を見た時、体の中で何かがざわめくような妙な感覚がする、それがだ。

既視感みたいな漠然とした印象ではなくて、何か…良く言い表せないがひどくもどかしい感じがする。
凄く気になる風景だけに今日中に見に行けるのはありがたい事だと思った。


「あ、ええと一回集まってもらって良いですか」

全員が選んだ地点までだいたい同じくらいの距離になったので、ここからは個別に移動してもらった方が良いと判断し、私はそう宣言する。
近くの陣後さん達には集まってもらうまでも無い気がしたけど、ちょっと離れた所を歩いていた2人に対しては必要だった。

「場所はだいたいここの近くですけど、ここからは各自写真の場所を目指した方が良いと思うので、もう一回地図を確認して下さい」

私は自分の地図を取り出し、それをみんなに見える様に広げて見せた。

「……地図に書いてある番号って写真裏の番号と対応してるって事で良いの?」
「はい」
「そっか……うん、おっけおっけ」

刀簗君は真顔で何事か頷くと陣後さんに「近くだから途中まで一緒行く?」と聞いている。
陣後さんは「そうね」と一言言って歩き出した。

「私は……向こうね」
「うん、朔美ちゃんの所は多分そこの道をちょっと行ってみればすぐ判ると思うよ」

さっきまで離れていた二人の内、一人は良く知っている。
徳永朔美(とくなが さくみ)、家が近くでよく遊んでいた中だ。
私には兄弟も姉妹もいないけど、お姉ちゃんがいたら多分この人に似ていたと思う。

「長野君、場所わかる?」
「ああ、うん……大丈夫。途中までは一緒みたいだね」

『ナガノ』と呼ばれたその人は、朔美ちゃんとは知り合いらしい。
話し方から察するに朔美ちゃんとは同級生みたいだけど、
穏やかで優しい顔つき人なのに表情に影を感じる人で酷く疲れている様にも見えて、朔美ちゃんよりも年上に見えた。

「場所を確認した後はここへ戻ってくれば良いの?」
「あ、いえ。そのまま帰って大丈夫」
「そうなんだ、じゃあまたね」
「うん」

歩き出した朔美ちゃんとナガノさんを見送って、残ったのは私と奏条君だけになった。
奏条君は地図を見入って何やら考え込んでいる。

「場所、わかり辛い?」
「え?、いや、そんな事は無いんだけど、ちょっと気になった事があって」
「気になったっていうと…」
「うーん、ちょっと説明しづらいんだけど…」

彼とはクラスこそ一緒だけど、あまり話す事も無い。
でも、あまり遠い感じがしない人だ。
物静かな刀簗君と話しながら笑っている姿が妙に印象に残っているせいかもしれない。

「この写真の奥の方…、何か広場みたいな場所があったりする?」
「え?、えーと…」

聞かれた内容を脳裏で反芻して、写真を良く見てみる。
……『あの場所』へ行く途中で撮った写真だ。

「え、あ、……あると言えばある、かな」
「本当!?」

かなり驚いた様な反応に、思わず体が強張った。

「え、うん。その広場っていうのとはちょっと違うかもしれないけど、建物があって、その周りはちょっと開けてる…かな」
「そうなんだ……どういう事なんだろ…」
「どういう事って…どういう意味?知ってる場所じゃないの?」

彼があそこを知っているとしたら、色々と気になる点がある。
ただそれを確認する前に、一番の基本事項は確認したかった、即ち、本当に知っているのかどうか。

「ああ、いや…この辺には全然来た事無いんだけど、その場所は知ってるっていうか、なんかそういう風になってるっていうのがわかったんだ、変な話なんだけど」
「来た事ないけどわかるって……誰かに聞いたとか?」
「いや、全然そういう心当たりも無いし……変だよね、こういう話。霊感とかそういうの薄い方だと思ってたのに」

そう言って笑って見せる彼は、それでもちょっと戸惑っている様だった。
『もしかしたら』と私は思い、どうするべきかを考える。

「実際にそこまで行ってみる?私の選んだ場所、さっき話した所だし、そんなに離れてないから」
「え、あ、うん。じゃあお願いする、正直このままほっとくのも気味が悪い話だし」
「じゃあ、行きましょう」

地図をたたんで鞄に戻すと、奏条君に背を向けて歩き出す。
先を急ぐ気持ちと、彼と何を話すべきなのかを考える事に集中したかった。

もしも『そう』なのだとしたら……あの時言われた『時期』が来たという事なのだろうか?


無言で先を進んでゆく霊曜さんの後について歩いてゆく。
相手が結構な早足なのと、僕が道順を確認しながらという条件が合わさって、油断すると霊曜さんを見失いかねない。
呼び止めれば良いのかもしれないが、わざわざ案内してくれてるんだし、油断しなければ問題ない訳ではあるのでその気にならなかった。

周囲は既に鬱蒼とした森の中になりつつある。
といっても足元は規則的に平たい石が置かれるぐらいには整備された歩道なので、歩く事に不自由はない。
木漏れ日が斜めに差し込んで来る道を歩いていると、やっぱり変な感覚に襲われる。

光る何かを目指して歩く映像が不意に浮かんだ。
目の前の風景に似ているけど、ちょっと違う気がする。

「あ」

自分でも間が抜けていると思える声が出た。
先の方でこちらを振り返って止まっている霊曜さんが見えたからだが、彼女の表情はややこわばっている様に見える。
ぼんやりしているとでも思われたのかもしれない。

「ごめん、ちょっと考え事してた」
「あ、ううん。こっちこそ歩くの早過ぎたみたいで」
「あ、それは良いよ、気にしなくても。僕がちょっとゆっくり歩き過ぎただけだし」

そう言って、僕は霊曜さんを促して歩き出した。
普段だったらというか、ついていくことに集中すれば遅れる訳が無いと思う。
歩幅の差とか、身体能力の差とか考えればそんな事になるはずがないのだ、
教室での動きとかを見る限り霊曜さんはそんなに運動神経が良い方じゃないみたいだし。

「あ、あのね、奏条君」
「え、何?」
「この辺りの風景にも、覚えがある?」
「え?、ああ、うん。覚えがあるっていうかなんか知ってる様な感じがする」
「そうなんだ」

そう言うと、霊曜さんはまた黙ってしまった。
さっきまでとは違い、僕達は横に並んで歩いている、霊曜さんが先に行かない理由は道が一本道だからだと思う。
先導しなくても進む方向は一つしかない。

…が、しばらくして僕は足を止めた。
止めた足元に小枝が落ちていたらしく、枝が割れるやや大きめの音がした。
そして目の前には分かれ道がある。

「どっち…」
「…に行くと思う?」

聞こうとした僕の言葉に霊曜さんの声が添えられて戻ってくる。
機嫌を損ねたのかなと思って見返した彼女の表情にはそういう暗さは無かった、真剣というかただ真顔で僕を見ている。

「え、えーと……」

何と答えれば良いのかどうか考えて、聞かれたままに正しいと思う道を答えるのが一番無難だろうと判断する。
どっちに行くべきだろうか、と改めて考えた時、また映像が脳裏を過ぎった。

「こっち…かな?」

指差した方向を見て、彼女は一度首を縦に振ってから歩き出した。
合っていたらしいけど、それをわざわざ僕に聞く理由は見えない。
ただ面白がっている様には見えないけど、そうでないなら何故なのかは、どうにも良く判らない。
やっぱり、さっき真顔に見えたあの表情は怒りだったのかもしれない、そう思うとちょっと気が滅入るのだった。


途中、何度か道を尋ねてみたが、奏条君は正しく『そこ』への道を選んだ。
事前に地図は見せたし、元から知っている可能性もある。

でもそれだと、「知らない」と言っている意味が判らない。

可能性は3つある。
1つは並外れた勘で当てているというもの。
……でも何か、そういう偶然みたいな事で片付けてしまうにはちょっと気味が悪い、当たり過ぎている気がする。

そうでないとしたら残りのどちらかだ。
どちらなのだろう?
知っていることを知らないと言っているのか、知らないはずの事を知っているのか。

なんとなくだが、私達が目指している場所で答えが明かされるのではないかと思う。
それこそ夢みたいな出来事だろうと思うが、全ての事情を知っている人がそれについて説明してくれるのだ、
それこそ当たり前の様に、……あそこでだったら、そういう夢みたいな事でも起きそうな気がするし。

「霊曜さん」
「はい」

名前を呼ばれて歩きながら振り返ると、奏条君がちょっと決まり悪そうな顔で聞いてきた。

「もうすぐ……だったりする?」
「ええ」
「やっぱりかぁ……」

彼もなんとなく気味が悪いと思っているのかもしれない。
辺りが木立でちょっと薄暗いのも気味の悪さを浮き上がらせていた、行って帰ってくるだけなのだから、さっさと用事を済ませてしまった方が良いだろう、日も暮れるし。

そう考えながら前方に目を向けると、一際光っている場所が目に入ってくる。
同時に黒い人影が見えた。

「え……!?」

『黒い影』に重なるイメージの人の記憶が脳裏を過ぎって消える、目を凝らしてもそこには何も無かった。

「どうかした?」
「え、ううん……見間違いで驚いただけ」

暗い所から急に明るい場所を見たせいで妙な見え方をしただけなのだろう。
ここは人なんて全然来ない場所らしいから、まず見間違いだと思う。
それよりも良い機会だから奏条君に説明しておく事にする。

「あの光ってる場所が目的地ね」
「ああ、うん。……なんか明るい所だね」
「開けてるせいでそう見えるの。光源になるような物は何も無いし」

自分でそう言って、一方で確かにそうだったのかと思う。
あの日、確かに私はそこで光を見た。
『あの子』が倒れたのはその後だ。
もしも彼が『あの子』なのなら……それを忘れているはずはないと思う。
やっぱり、違うんだろうか。

隣を歩く彼の様子を窺ってみたけど、普段からそれほど変わりの無い表情からはその辺りはわからなかった。

あきらめて視線を前方へ戻すと、そこには社が見え始めていた。


そこに近づくにつれて、妙なざわつきが体の内側を満たしてゆくのにはっきりと気付いたのはその社の外形とかがはっきりと見えてきた頃だった。
嫌な感じではないが、気持ちの良い物でもない。

そういう状態だったせいなのか、歩いていた道と社周辺の広場が接続する辺りで思わず立ち止まる。

「奏条君?」

僕が立ち止まったせいで一人だけ広場に入る形になった霊曜さんが、こちらを振り返ってそう言った。

「あ、ちょっと……凄いなって思っただけ」

答えるの同時に僕は再び歩き出し、そして「それ」を聞いた。
笑い声の様にも聞こえる、その音を。

「何これ?」
「そう……ね。何かしら」

笑い声にも聞こえるが、なんだか良く判らない言葉みたいな物も聞こえる。
外国語のリスニングテープとかで聞いた様な、自分の話す言葉とは明らかに違う韻律に、思わず身構えてしまう。
どこから聞こえるのか、周囲を見回してみると、霊曜さんと顔を見合わせる形になった、思わず一歩彼女に近づく。

同時に彼女もこちらに寄ろうとして、僕達はぶつかりかける。
衝突をお互いに避けようと思わず前に出した手が触れ合った瞬間、音量が一気に上がった。

驚きと同時に、周囲から光があふれ出す。

「奏条君!」

どこか遠くから霊曜さんの声が聞こえる。
光のせいか、周囲には何も見えない。
いや、何も見えないのではないらしい。

自分の指先が、指先だけでなく体のどこも見えない。
目を開いているはずなのに何も写らない、目が機能しているのかどうかがわからない。
自分が立っているのかどうかも、何かに触れているのかもわからない。

あの音だけが、止む事無く続いている。
徐々にだが、それがはっきりとした言葉として聞き取れる様になってゆく。

はっきりと聞き取れるようになるにつれ、ただ意味不明だった音の連なりだった物が、
言葉としてなんとなく意味が判るような気がしてくる。

”名前は?”

響きの一つにそう問われたような気がして、僕は自分の名を告げた。
告げた名を、その声が反芻する。

”ソウジョウシグレ”
”ソウジョウシグレ”
”ソウジョウシグレ”
"シグレ"
"シグレ"
"シグレ"
"シグレ"
……

徐々にだが、僕の名前だけが響くようになっていた。
遠くから、近くから、ただ名前だけを呼ばれている。
そこで、光が晴れた。

「時雨!」
「え……あ、響時」

目の前に響時がいた。
そして、自分の背中に地面の感触があり、自分が仰向けになっている事に気付く。

「何で…?」
「そりゃこっちが聞きてえ。お前ら何やってたんだ、2人して」
「2人?」
「ああ、……霊曜さんもあの通りだ」

そう言って響時が指差す方向を見るために、僕は体を起こす。
見れば霊曜さんがオニさんと、解散するまで一緒だった女の先輩に介抱されている。
傍らでそれを見守っているのは知った顔だった。

「悟(さとる)君も……どうして…」
「は?……もしかしてお前も何がどうなったのか良くわからないのか?」
「良くわからないって言うか、ここは……お社の周りか……」

周囲を見渡して、記憶にある光景と照らし合わせた結果、ここは僕と霊曜さんが目指していた場所に間違い無さそうだとはわかった。

「ここまで来た事は覚えてる、でもここに足を踏み入れたらさ、周りが光って変な声みたいな物が聞こえ始めて…気が付いたら響時に起こされてた、そんな感じ」
「なんだそりゃあ?」
「大雑把だけどそうとしか言えないんだ、何がなんだか僕にもさっぱりだよ」

僕に聞けば何かが解るかと思っていたのかどうかは知らないが、響時はいつもとは微妙に差がある表情で釈然としないらしい気持ちを表しているらしい。

「そーか……とりあえず立てるか?」
「うん、大丈夫だと思う。頭痛とかもしないし」
「そいつは良かった、向こうはそうでもないらしいんでな」

霊曜さんの方を見ながら響時はそう言って、ちょっと眉をひそめている。
その響時に一つ確認したくて僕は口を開いた。

「響時はなんでここに?」
「ん?、ああ、いやな、何かお前らが行った方向が光ってるなーとか思ってたら、変な音が聞こえてな。
 なんつーか、滝が流れるみたいな音だった。それで何事かと思ってきたらお前らが倒れてたと。
 お前は死んじまったみたいに静かに寝てるし、霊曜さんは意識はあったけど倒れたままぶるぶる震えてたし……
 本当に何があったんだ?、ここで」
「それは……僕も知りたいよ」

言葉が口からこぼれるっていうのはこういう事なんだなと、言ってから気付いた。

「だよなぁ」

仕方無いという響きを混ぜてそう言って響時が、霊曜さん達の方に歩き出す。

深呼吸を一つした。
頭のふらつきとかは無い、あの変な音も聞こえない。
だが、あれが全て夢か何かだとは思えなかった。

「やっぱりまだ辛い?」

静かに響く風の音の中に混じって、オニさんが霊曜さんを案じる声が聞こえてきて、ようやく僕は我に帰る。
まだ終わった訳ではない、霊曜さんは具合が悪いままなのだ。

「霊曜さん…」
「奏条……くん」

近寄って声をかけると、搾り出すような声で霊曜さんは返事をした。
オニさんに背を支えられる様にして座り込んでいる彼女はぶるぶると震えているが、寒いのだろうか。

「具合はどうなの?」
「寒気とかは無いけど、震えが止まらなくて気分が悪いって」

僕の質問に答えたのは本人ではなく、その背を支えているオニさんだった。

「頭は打ってないみたいだけど、立つのも辛そうなのよね」
「そうなんだ……」
「大丈夫……だから、心配…しないで」

辛そうな様子で霊曜さんが口を開く、
その眼前に響時が座り込んで、半ば睨む様に彼女を見つめた。
ただ、響時の気持ちとしては睨んでいないと思う、多分顔の問題だ。

「全然大丈夫そうに見えねえって、どうにか家まで運んでかなきゃなー」
「そんな……悪いよ」
「いーからいーから、遠慮しないで。俺と時雨がいればなんとかなるでしょ。な?」
「うん」
「そういう事なら僕も手伝うよ」

いつの間にか悟君もこちらに寄ってきていた。
最近話す機会が減ってたけど、いつも遊んでくれたお兄ちゃんのままの表情だった。
その表情に、胸の奥が暖かくなった気がして僕は思わずもう一歩踏み込んでいた。

「じゃあ僕からかな、案内のお礼もまだだし」

言ってから霊曜さんの近くに背を向けてしゃがむ。
彼女を背負って歩くのは楽ではないだろうけど、そんなに大変じゃないと思う、軽そうだし。

「だそうですから、どうぞこやつめの背にお乗りなさい」
「でも……」
「いいから乗っときなさいって、歩くのも辛いんでしょう?家の場所だけ案内してくれれば良いし、私も付き添うから襲われたりする心配も無いわ」
「……ひでぇ」

割と辛辣なコメントに響時がぼそっと呟く。
いつもよりもオニさんからの扱われ方がぞんざいな気もするけど、仲の良さの表れな気もするので気の毒とは思わない。
僕も信用されてないのならそれはちょっと残念だけど、仕方無いとも思う、僕だって男なんだし。

「付き添いなら私の方が良いわよ、遥の家の近くだし」
「そうなんですか、じゃあその方が良いかな…なんだか皆で帰る事になりそうですね」

上級生の女子生徒に向かって返事をしたオニさんは、どうも付き添う気は満々で、どうにかなりそうだから自分は先に帰るとかそういう発想は微塵も無いらしい、流石だ。

「……ありがとう」
「気にしないでいーから。じゃあ行きますか、みんなで」

響時がそう言って、霊曜さんに手を差し出したのを見て、僕は前に顔を向け直した。
すぐに霊曜さんが立つ気配があり、僕の方に手が触れるような感触が続く。

背筋に震えが走ったのはその時だった。
驚く間もなくそれは収まったが、同時に周りに驚く気配が生まれる。

「どうしたの?」

振り返った所に、霊曜さんが立っていた。
酷く驚いた表情で、どこか呆然とした様に僕を見つめる彼女と目があって、でも何の返事も無い事に僕は何かしたのかと考える事になる。
しかし原因らしい事には思い当たらなかった。

「震えが……、止まった」

呟くような霊曜さんの言葉に、僕も彼女の足取りがさっきよりも確かになっている事に気付いた。
だが……さっきまでの態度が嘘だった様にも思えないのだ、あまりに真に入り過ぎていたし、
それが演技だとしても、そこまでする理由が見えない。

「本当に、大丈夫なの?」
「う、うん。嘘みたいなんだけど…」

オニさんの問いかけに、本人も驚いた様子で答えている。
それはやはり嘘には見えなかった。

「一体なんで……?」

呟いてから、さっきの背筋の震えの事、その直前の事、そしてここに入った時の事、それらが連鎖して思い出される。
可能性に過ぎない仮説が浮き上がった事に、僕は思わず唾を飲み込んだ。
霊曜さんと目があったのはその直後で、彼女は自分の右手を何かから庇う様に左手で覆っていた。

「まぁ良いじゃないの。何はともあれさっきまで倒れてた二人を送って帰った方が良いんじゃない?」

普段と変わらないトーンで、響時の声が聞こえた。
彼の表情を確認する気にはなれない。
何故なら、霊曜さんがこっちを見ている。
僕の動きを確認する様に見ている。

だから僕は、しばらく動けなかった。