天狗党の乱年表 3
元治元年七月〜大子集結まで
元治元年(1864)
7月3日 田中愿蔵が筑波勢から除名された。
7月4日 永見貞之丞・小出順之助(軍監)率いる幕軍3775名全てが結城に集結した。
7月5日 江戸では、鈴木縫殿・岡部忠蔵が執政に、三浦贇男を用人に、原田誠之介を奥祐筆頭取に任命され、諸生党は実権を失った。
結城の幕軍は二手に分かれて出発し筑波山へ向かった。
永見貞之丞、小出順之助(軍監)ら率いる一隊・市川三左衛門ら諸生党軍 ----→ 下妻へ
渡邊伊衛門(使番)、富田理介(先手物頭)ら率いる一隊・諸生党軍の残り ----→ 下館へ
7月6日 幕府追討軍は下妻に到着し多宝院に本営を置き、他は真福寺、光岸寺、林翁寺、光明寺、円福寺、観音寺、雲充寺、専覚寺などに分宿した。
7月7日 筑波勢と幕軍は、筑波山麓下妻口高道祖洞下の間の広野で初めて戦闘におよんだ。
数で勝る幕府軍の激しい砲撃に、筑波勢は抗しきれず洞下まで退却した。
勝った幕軍は悠々下妻の本陣へ引き揚げた。高崎藩兵の先手200名が下妻の雲充寺に到着した。
筑波勢は軍議を開き、下妻の幕府軍陣営を奇襲攻撃することを決した。
7月8日 日が暮れると、筑波勢は山を下り、隊を藤田小四郎・飯田軍蔵ら、竹内百太郎ら、西岡邦之介・昌木晴雄らの三隊に分けてそれぞれ下妻へ向かった。
夜半(9日未明午前4時頃)筑波勢は幕軍の布陣する下妻多宝院を奇襲。 幕軍は戦わず逃げ出す者が続出、全軍総崩れとなり退却した。
7月9日 未明午前4時頃、筑波勢は幕軍の布陣する下妻多宝院を奇襲。 幕軍は戦わず逃げ出す者が続出、全軍総崩れとなり結城まで退却した。筑波勢は続いて市川勢の宿所である新福寺を襲った。激しい戦闘の末市川を取り逃がした。 さらに高崎藩兵の宿所である雲充寺へ向かったが、彼等は戦わずして逃げた。
勝った筑波勢は大宝八幡宮の社前で隊伍を整え、戦勝報告をして筑波山へ引き揚げた。
7月10日 幕軍の去った後、下妻藩兵は自ら陣屋を焼き払い江戸へ逃げた。
7月15日 下妻で筑波勢に大敗し江戸へ向け退却途上の市川三左衛門らは、江戸を追われ水戸へ向かう朝比奈弥太郎・佐藤図書らと杉戸で再開、江戸での政変により激派が実権を握ったことを知らされた。
7月16日 幕府天狗党追討軍の先鋒が江戸を出発した。
7月18日 市川三左衛門・朝比奈弥太郎・佐藤図書ら諸生党軍が杉戸を出発し水戸へ向かった。
7月23日 市川三左衛門ら諸生党軍が水戸城に入った。それと共に激派や筑波勢の家族らの逮捕・投獄が開始された。
府中の筑波勢では諸生党の扱いに関し評議が行われ、藤田小四郎ら水戸藩出身者は「まず水戸城の諸生党を攻撃すべき」、他藩からの参加者は「藩内の内輪もめに参加する気はない、挙兵当初からの目的である攘夷を実行すべき」 との意見の対立が生まれ、筑波勢は両者分離して行動することとなった。
7月25日 長岡を出発した筑波勢は水戸城へ突入しようとしたが、市川ら諸生党の猛攻をうけ府中へ退却した。
7月26日 幕府天狗党追討軍(総督田沼尊意)が江戸を出発した。
幕府は水戸藩や近隣諸藩へ天狗党討伐の命を下した。
江戸の激派・鎮派は藩内鎮撫のため藩主慶篤の帰国を家老に嘆願した。
7月28日 野口の時雍館を出発した田中愿蔵ら田中隊が鯉淵勢と戦闘。
7月30日 藩主慶篤は、支藩宍戸藩主松平頼徳を自分の名代として水戸へ下向させる旨を幕府に申請し受理された。
8月4日 宍戸藩主松平頼徳率いる大発勢(水戸藩榊原新左衛門ら同行)が江戸を出発した。
8月8日 松平頼徳率いる大発勢が堅倉に到着、武田耕雲斎率いる武田勢が合流した。
8月9日 大発勢は暴風雨のため動けず、堅倉に滞在した。
大津村の勿来の関付近で、西丸帯刀らと諸生党が戦闘。
8月10日 松平頼徳率いる大発勢は堅倉から長岡を経て水戸城南の薬王院に入った。
8月11日 松平頼徳は薬王院から水戸城内の市川三左衛門ら諸生党に、自分たちを入城させるよう要請するが、 「頼徳公単騎入城しか認めない」と返答された挙句、諸生党から攻撃されることとなる。
8月12日 平和入城したい松平頼徳は、諸生党との戦闘を避けるため薬王院を離れ、塩ケ崎長福寺を経て那珂湊へ向かおうとしたが、那珂川渡河中に諸生党から攻撃されて達せず、ひとまず磯浜の海防陣屋に入った。
磯浜を退却し岩船山願入寺に立てこもった諸生党を、立原朴二郎らが攻撃し敗走させた。
8月13日 松平頼徳ら大発勢のいる磯浜海防陣屋へ向け、那珂川対岸の日和山台場から諸生党が盛んに砲撃してきた。 立原朴二郎らが祝町下台場からこれに応戦した。
8月14日 藤田小四郎・飯田軍蔵ら筑波勢は小川館を離れ磯浜へ移動、大発勢に合流した。
8月15日 明日、藤田小四郎・飯田軍蔵・武田魁介・金子勇二郎らが先鋒となり那珂川を渡河し那珂湊へ攻め入ることを決めた。
8月16日 筑波勢・大発勢は那珂川を渡河し、対岸日和山反射炉イ賓閣等に布陣していた諸生党を攻撃、これを敗走させた。
8月17日 松平頼徳ら大発勢は磯浜海防陣屋を引き払い湊郷校に入った。
頼徳は助川陣屋の山野邊義芸に、水戸城入城につき尽力してくれるよう嘆願の使いを出した。
また、水戸城に近い神勢館を拠点とすべく、神勢館館長福地政次郎にその旨を命じた。
8月20日 田沼尊意率いる幕府追討軍が結城に入った。
松平頼徳ら大発勢の一部が水戸城城東細谷村の神勢館に入った。
8月22日 諸生党が神勢館を砲撃。
九丁目口で諸生党と福地政次郎・大発勢らが激しい戦闘。
幕府追討軍鳥居丹波守らは筑波勢が去って空になっていた筑波山を占領した。
8月23日 諸生党が新町口・蓮池町口から進軍、神勢館を砲撃。
新町口の戦いで大発勢は諸生党を破るが、十丁目口へ進軍中立原朴二郎が戦死した。
助川陣屋の山野邊義芸は松平頼徳からの書状を受け、頼徳入城交渉のため水戸へ向かった。
8月24日 山野邊義芸は水戸への途上石神外宿で、諸生党寺門登一郎らと戦い敗走してきた筑波勢大津彦之允・油田敬介らに遭遇。 合流して大和田村へ入ったところ民兵から攻撃された。石名坂までこれを追撃敗走させ、山野邊は助川陣屋へ戻った。
8月29日 松平頼徳は水戸城入城工作不可能とし那珂湊へ退いた。
9月3・4日 平磯にあった筑波勢・潮来勢は額田で二本松・宇都宮・壬生・福島藩および諸生党連合軍と戦闘。
9月5日 筑波勢・潮来勢は額田の戦いで二本松・宇都宮・壬生・福島藩および諸生党連合軍を敗走させた。
9月6日 二本松・平藩および諸生党寺門登一郎・菊池善左衛門らは助川陣屋を包囲。
山野邊義芸は二本松藩陣営に降伏した。
筑波勢大津彦之允らは諸般の包囲網を突破し脱出するが、追手の士兵に襲われ戦士した。
9月7日 額田へ逆襲してきた二本松・宇都宮・壬生・福島藩および諸生党連合軍を筑波勢・潮来勢が迎え討った。
9月9日 額田の戦いで敗走した宇都宮藩兵が田彦に駐屯しているという情報を得た筑波勢・潮来勢はこれを包囲攻撃し、敗走させた。 宇都宮藩兵は本国まで逃げ帰った。
9月16日 潮来勢は大場付近で幕府軍と衝突、これを撃退した。
9月17日 潮来勢は大貫で幕府軍を迎え討った。
9月18日 潮来勢は大貫富士山付近で幕府軍と戦闘。
9月18日 潮来勢は大貫富士山付近で佐倉藩兵と戦闘、潮来勢林五郎三郎戦死。
9月20・21日 潮来勢は林の弔合戦とし、大貫付近で佐倉・棚倉藩兵を破る。
9月22日 潮来勢は高崎藩陣営を攻撃しこれを壊乱させた。
幕府軍は大挙して磯浜に押し寄せた。
幕府軍陣営から潮来勢祝町陣所の松平頼徳宛に、手代田中_之助が講和使としてやってきた。
9月25日 笠間を発った田沼尊意率いる幕府追討軍が水戸に到着、弘道館を本営とした。
松平頼徳は一身をもって大発勢を救うため、随員30名を率い幕府軍陣営に出頭した。
9月26日 松平頼徳らは那珂湊を発ち、戸田五介の陣営へ連行された。
諸生党・二本松藩兵が助川城を包囲、田中愿蔵らは脱出し八溝山方向へ落ち延びた。
9月27日 戸田五介に率いられた松平頼徳一行は江戸へ向かったが、堅倉の手前の西郷地まで来たとき、 田沼尊意・市川三左衛門の命を受けた追手に捕まり、水戸へ連行されて下市町会所に拘禁された。
9月28日 松平頼徳は水戸城内の同族松平頼遵邸内に拘禁された。
頼徳に随行した大久保甚五左衛門・鳥居瀬兵衛・山中新左衛門・丹羽恵介・片岡為之允ら家臣は投獄され、ことごとく処刑された。
頼徳の近習頭小幡友七郎ら7名は主君を救えなかったことを恥じ自刃して果てた。
10月1日 幕府は松平頼徳とその父頼位の官位を剥奪、頼位を新庄藩邸に幽閉した。
頼徳の子息と宍戸藩の家臣40名は江戸の高松藩邸預けとする処分がくだされた。
田中愿蔵は八溝山八溝嶺神社の社頭で自隊の解隊を宣言した。
10月2・3日 幕府軍は大発勢・筑波勢・潮来勢の残る那珂湊・和田砲台へ向け猛烈な攻撃をしかけてきた。
松平頼徳が拘禁されたことを知らぬ那珂湊では、停戦の約束を守り反撃できずにいた。
10月4日 八溝山を下り真名畑へ現れた田中愿蔵が塙代官所の捕吏に捕らえられた。
10月5日 松平頼徳が水戸城内において切腹させられた。
峯山が幕府軍の手に落ちた。
10月10日 筑波勢・潮来勢・大発勢は部田野で幕府軍と大規模な戦闘のうえ、これを撃退した。
10月16日 田中愿蔵が久慈川畔で斬首された。
10月17日 筑波勢・潮来勢・大発勢は部田野で幕府軍と戦闘のうえ、これを撃退した。
10月18日 筑波勢・潮来勢・大発勢は部田野で幕府軍と戦闘のうえ、これを撃退した。
幕府軍平岡四郎兵衛と結託した鎮派(戸田銀次郎・藤田健次郎・久木直次郎・笠井権六ら)岩船山陣中から、日和山本営の大発勢榊原新左衛門宛に 富田三保之介を岩船山へ遣わして欲しい旨の書状が届いた。
10月20日 鎮派(戸田銀次郎・藤田健次郎・久木直次郎・笠井権六ら)岩船山陣中から、日和山本営へ榊原新左衛門自身に岩船山へ来て欲しいとの書状が届いた。 富田三保之介を岩船山へ遣わして欲しい旨の書状も再度届いた。
10月21日 富田三保之介は那珂川辰ノ口渡船場で幕軍都築鐐太郎(歩兵頭並)・小山金之介(歩兵指図役)と面会、 幕軍は大発勢を戦う気はなく、敵はあくまで筑波勢なので、幕軍を那珂湊へ引入れ筑波勢を追討することに協力して欲しいと求められた。
富田は日和山本営へ戻り榊原新左衛門らと評議、23日に幕軍を日和山に引入れることを決めた。
10月22日 榊原新左衛門は同志の面々に明日幕府軍に投降することを決した旨通知した。 山国兵部・田丸稲之衛門・藤田小四郎ら筑波勢は館山浄光寺の武田耕雲斎陣営を訪ね、一同の進退につき協議。 幕軍と最後の決戦の末討死覚悟の武田らを藤田が諌め、ここで死ぬは犬死である、これより京の一橋慶喜のもとへゆき攘夷の素志を訴えるべきだと説いた。 これにより武田耕雲斎一族、筑波勢、潮来勢、鮎沢伊太夫・浅田富之允・三木左太夫・黒澤覚蔵らは降伏に反対し那珂湊を脱出することにした。
潮来勢は和田台場の陣営を脱出し北方へ向かった。
10月23日 早朝、幕府軍が日和山本営へ入り榊原新左衛門ら大発勢が降伏した。
武田勢・筑波勢は館山浄光寺を脱出し北方へ向かった。
南酒出村で武田勢・筑波勢・潮来勢は合流し、互いの無事を喜び、これより一隊は一千余名の大部隊(天狗党)となり北上、大宮に宿営した。
10月24日 大宮を発した天狗党は大澤村まで進んだ。
10月25日 大澤村を発した天狗党は常陸大子に入った。
10月26日 23日に降伏した榊原新左衛門ら大発勢は塩ケ崎長福寺に護送された。
10月27日 天狗党は追撃してきた諸生党・新発田藩兵と月居山で戦闘。
10月28日 天狗党は追撃してきた諸生党・新発田藩兵と月居山で戦闘。
10月末迄 天狗党は常陸大子に滞在。西上準備をすすめた。
※11月1日以降は『天狗党西上を追う』へ
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