天狗党の乱年表 1
文久三年慶篤上洛〜挙兵まで
文久三年(1863)
2月16日 藩主徳川慶篤が将軍家茂に随行し上洛するため江戸を出発
弟昭訓、山国兵部ら1000余名(藤田小四郎は山国兵部配下で参加)が同行
3月5日 慶篤ら京都到着、西本願寺の北にある本國寺を屯所とした。
3月25日 将軍目代として江戸へ戻ることになった慶篤が本國寺を出発した(4月11日江戸帰還)
昭訓は藩士たちと引き続き京都に残ることになった

<昭訓補佐役>
武田耕雲斎松平頼位(宍戸藩主頼徳の父)
<他在京藩士→本國寺勢(総勢約120名)>
原市之進(奥祐筆頭取)山口徳之進(目付)梅沢孫太郎(小十人目付)
岩間金平(徒目付)下野隼次郎(軍用掛手添)梶清次衛門(小十人目付)

・藤田小四郎も滞京
長州藩士桂小五郎・久坂玄瑞をはじめ、各藩の尊攘志士と交流をはかった。
また、姻戚関係にある鷹司家など公卿の間も周旋し、攘夷の策を建言した。
5月3日 一橋慶喜の命を受けた武田耕雲斎らが江戸に帰着(小四郎も同行か)
5月8日 朝廷と約束した攘夷実行期限5月10日が目前に迫ったため、一橋慶喜が江戸に帰着

攘夷期限5月10日を過ぎても幕府は何の行動も起こさなかった。
更に小笠原長行(老中)が『生麦事件』(文久二年(1862)8月)の賠償金44万ドルを朝廷に黙って勝手に英国に支払ってしまった。
(一連の幕府の措置に世論沸騰)

期限を過ぎても攘夷実行を果たせない責任を取るため、一橋慶喜が将軍後見職、徳川慶篤が将軍目代の辞表をそれぞれ提出(慶喜の辞表は不受理・慶篤の辞表は受理された)
6月以降 水戸藩でも藤田小四郎ら激派が一連の幕府の行動を非難、朝廷に訴えるため上京しようと画策
(山国兵部の勧告により上京を思いとどまる)

江戸で八木良蔵(鳥取藩)や千葉重太郎らと謀り、水戸の姻戚である因幡・備前両藩の兵を以て攘夷を実行しようと画策
桂小五郎ら長州藩士とも密議、東西呼応して挙兵する計画をたてる。
上記計画を武田耕雲斎に告げ協力を求めるが、軽挙妄道であると戒められ断られる。
水戸へ戻り、斎藤左次衛門に話したところ賛同を受け、共に府中へ行き紀州屋を拠点に同志集めが始まった。
8月17日 天誅組(吉村寅太郎・中山忠光ら)挙兵 大和五条代官所襲撃
<水戸からも参加者>
岡見留次郎(水戸藩士・東禅寺事件参加者)渋谷伊豫作(下館藩士)
8月18日 八一八の政変
三条実美ら七卿の都落ち、長州藩の勢力が京都から一掃された。
(八一八政変で幕府に攘夷実効を上げさせようとしていた水戸藩本國寺勢も孤立、藩士の中には個人的に攘夷運動に挺身する者も出てきた)
10月7日 一橋慶喜に上洛命令、次いで将軍家茂にも上洛命令が下った。
10月26日 一橋慶喜が鈴木縫殿(大番頭)らを率い江戸を出発した。
11月23日 京都に在った徳川昭訓が病死(16歳)
11月26日 一橋慶喜一行が京都に到着、本國寺に入った。
6月以降 水戸藩でも藤田小四郎ら激派が一連の幕府の行動を非難、朝廷に訴えるため上京しようと画策
(山国兵部の勧告により上京を思いとどまる)

江戸で八木良蔵(鳥取藩)や千葉重太郎らと謀り、水戸の姻戚である因幡・備前両藩の兵を以て攘夷を実行しようと画策
桂小五郎ら長州藩士とも密議、東西呼応して挙兵する計画をたてる。
上記計画を武田耕雲斎に告げ協力を求めるが、軽挙妄道であると戒められ断られる。
水戸へ戻り、斎藤左次衛門に話したところ賛同を受け、共に府中へ行き紀州屋を拠点に同志集めが始まった。
12月 幕府から武田耕雲斎に、水戸へ下向して激派を取締るよう命が下った。
(八一八政変後、京を追われた諸国の攘夷派志士が多数水戸藩内に潜伏、小川・玉造・潮来などの郷校を拠点に決起集会を開いたり、周辺で強引な金策を行っていたため)
文久四年(1864) 2月20日に元治元年改元
1月28日 徳川昭武が三木陸衛門(用人)らを率い京都に到着、本國寺に入った。
2月15日 参与会議
メンバー:一橋慶喜・山内豊信・伊達宗城・松平慶永・島津久光
議題:長州藩に対する措置、対外方針、横浜鎖港問題
(一橋慶喜→横浜鎖港主張、伊達宗城・島津久光→鎖港あきらめ派)
会議はまとまらず、3月9日にメンバーは辞任し参与会議は崩壊する
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