筑波山神社に立つ藤田小四郎
水戸天狗党の乱 概略
▼初期
藩内での門閥派(諸生派)と改革派(天狗派)の内部構想が根底にある原因。 水戸藩以外の参加者も多く、当初の目的は横浜へ上り夷人を襲って攘夷を実行することだった。 元治元年(1864)3月27日に筑波山で挙兵し、日光占拠をもくろむが失敗、栃木の太平山にしばらく布陣する。 再び筑波山に戻ると幕府追討軍との戦闘を繰り返した。 しかし水戸城を占拠した市川三左衛門ら諸生党が天狗党員の親族・関係者たちを投獄し始めたころから、水戸藩出身の者は藩内党争に、藩外出身の者はあくまで攘夷遂行に、と互いの挙兵の目的が違う方向へ進み隊が分裂していく。
▼幕軍との戦闘期
藩外出身者たちは挙兵の目的がズレたことにより去っていく。 彼らは筑波勢とは別に屯集し横浜へ向かおうとするが、幕府追討軍と各所で戦闘のうえ敗退し壊滅、ほとんどの者は戦死した。 肉親への思慕の情を断ち切れなかった筑波勢は、市川ら諸生党の支配下となった水戸城を攻めるがこちらも敗退。 幕府はついに天狗党追討軍を編成、水戸へ向かわせる。 また、藩主慶篤の名代として宍戸藩主松平頼徳率いる大発勢が内乱鎮圧のため水戸へ下向するが、 市川ら諸生党に入城を阻まれて使命を達せられず、一旦退いて那珂湊に布陣する。 彼等はそののち筑波勢同様に幕府軍から追討される立場となってしまう。 頼徳に従ってきた大発勢や武田耕雲斎ら武田勢と、筑波勢、潮来勢は一緒になり諸生党軍と闘う。 頼徳は自軍を救うため幕軍に投降するが奸計にあって処刑される。 また大発勢も幕軍に投降する。
▼西上期
大発勢が幕軍に投降したのと同じ日に、筑波勢、潮来勢、武田勢は那珂湊を脱出し水戸の北方常陸大子に集結する。 彼等は京都にいる一橋慶喜に市川らの暴政を訴え、自分たちの攘夷の素志を伝えることを決し、西上の途につく。 こののち彼等は天狗党と呼ばれた。 11月1日に常陸大子を出発した天狗党は、那須野ケ原を南下し、鹿沼、太田を経て、下仁田で高崎藩と戦闘、これを破り内山峠を越えて信州へ入る。 和田峠では高島・松本藩連合軍と戦闘に、これも破り下諏訪から天竜川沿いに南下する。 飯田から清内路峠を越えて中山道に入り、馬籠、中津川、太田、鵜沼と進む。 大垣から琵琶湖へ抜けるルートには幕軍が多数布陣しており、衝突を避けるため美濃から越前へ迂回することとなる。 根尾西谷川沿いに北上し、12月初旬に最大の難所であるクラミ渓谷から蝿帽子峠(越前・美濃国境)を越え越前大野へ入る。 今庄を経て木ノ芽峠を越えたところで加賀藩を先陣とする約1万の幕軍に包囲されており、これ以上進めないことを悟る。 そして幕府軍との降伏交渉のすえ、加賀藩の軍門に降り敦賀の3ケ寺に収容された。
▼終焉
天狗党が頼ろうとした一橋慶喜は、自らの保身のため彼等をを見放した。 慶喜は幕府追討軍総督田沼尊意に天狗党の処分を一任した。 田沼の手に渡った天狗党は、窓もない暗い狭い鰊倉へ押し込められる。 劣悪な環境の中で体調を崩す者や病死する者が多数出た。 2月初旬から審問が始まったが審理とは形ばかりのもので、天狗党側の言い分はまったく聞いてもらえず、武田、藤田ら幹部連はもちろん、農民でも戦闘に加わった者は全て斬首、他も遠島・水戸藩預けなどの厳しい処分がくだされた。 およそ一ヶ月の間に353名が処刑されるという日本史上例を見ない大量斬殺となった。
▼報復
武田耕雲斎の孫である武田金次郎は年少のため斬首されず、敦賀に幽囚されていた。水戸では相変わらず市川ら諸生党の支配が続いていた。天狗党処刑から3年後の1868年戊辰戦争が勃発し、諸生党の立場は一変、追われる側となる。京都本圀寺に詰めていた本圀寺勢、赦された武田金次郎らは諸生党追討のため帰還、水戸城を奪還する。市川らは脱出し旧幕軍と共に北陸を転戦するが、会津藩の降伏により奥羽旧幕勢力も鎮圧され、諸生党は再び水戸へ戻ってくる。弘道館を舞台に激しい戦闘となるが諸生党は敗退、下総へ落ちる。八日市場で諸生党は壊滅、生き延びて江戸に潜伏した市川三左衛門も捕縛され、水戸へ送られて磔刑となった。
こうして長きにわたった水戸藩の内乱は終わりを告げた。この内部抗争で藩の有為の人物のほとんどを失った。
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