桜田門外の変
安政四年(1857)
10月頃〜 13代将軍家定継嗣問題勃発
紀伊徳川慶福擁立派 一橋慶喜擁立派
井伊直弼(彦根藩主)
水野忠央(紀伊和歌山藩付家老)
島津斉彬(薩摩藩主)
松平慶永(越前福井藩主)
伊達宗城(伊予宇和島藩主)
安政五年(1858)
4月23日 水戸藩をこころよく思わない彦根藩主井伊直弼大老就任
6月19日 日米修好通商条約無勅許調印
(7月にはオランダ・ロシア・イギリス、9月にはフランスとも同様の修好通商条約調印)
6月23日 一橋慶喜・田安慶頼、江戸城登城し違勅調印に関して井伊大老を詰問
6月24日 徳川斉昭・慶篤・徳川慶勝(尾張藩主)、違勅調印に関して井伊大老を詰問するため江戸城登城
(定例日外の登城だったため「不時登城」または「押掛登城」といわれる)
6月25日 諸大名総登城 14代将軍は徳川慶福に決定した旨公表される
7月5日 6月24日に不時登城した斉昭・慶篤らへの処分がくだされた
徳川斉昭 水戸駒込藩邸において急度慎
徳川慶勝(尾張藩主) 隠居・急度慎
松平慶永(越前福井藩主) 蟄居・急度慎
一橋慶喜 登城差控え
徳川慶篤 登城差控え(7月6日付け処分)
<井伊大老の処分に対する雪冤工作>
安島帯刀 水戸藩
鮎沢伊太夫
荻清衛門
平岡円四郎 一橋家
堀仲左衛門 薩摩藩
 →  日下部伊三治(薩摩藩士)を上京させる

公家間を周旋し、斉昭・慶勝らへの謹慎を解除させるための
勅諚降下を求める(京都手入れ)

梅田雲浜・頼三樹三郎・梁川星巖ら在京の志士も日下部を支援
8月7日 勅諚降下(戊午の密勅)
8月8日 鵜飼吉左衛門(水戸藩京都留守居)が伝奏万里小路邸で勅諚(副書付き)を拝領、息子幸吉に託し江戸へ向け出発させた
8月10日 先に水戸藩に下されたのと同文の勅諚が幕府にも下された(但し副書無し)
8月16日 鵜飼幸吉が江戸小石川藩邸に到着
8月17日 鵜飼幸吉は勅諚を慶篤へ呈上、慶篤は直ちに駒込藩邸で謹慎中の斉昭へこれを報告
鵜飼幸吉は武家伝奏宛請書を託され再び京へ向け出発
高橋多一郎(奥祐筆頭取)・亀井善継(奥祐筆)勅諚の写しを託され水戸へ向け出発
8月19日 徳川慶篤は尾張・紀伊・田安・一橋家に勅諚を伝達
徳川慶篤、幕府へ勅諚受領を届け出る(この日幕府宛の勅諚も江戸到着)

水戸城内では到着した勅諚に関して評定が行われた
鎮派(会沢正志斎ら) 勅諚の諸国伝達につき慎重論
激派(安島帯刀・高橋多一郎・金子孫二郎ら) 勅諚を奉じ諸国へ伝達すべきである
8月20日 間部詮勝・太田資始(老中)水戸藩邸を訪ね、勅諚の諸国伝達を見合わせるよう命令
幕命により、激派武田耕雲斎・岡田徳至・大場一真斎隠居させられる
三連枝、松平頼胤(四国高松藩主)・松平頼誠(奥州守山藩主)・松平頼縄(常陸府中藩主)が藩政関与
9月 幕府の処分に憤った水戸の士民らが奉勅雪冤のため南上、小金宿付近に屯集(第一次小金屯集)
9月7日 梅田雲浜逮捕(安政の大獄開始)
9月18日 鵜飼吉左衛門・幸吉父子逮捕、六角獄舎に禁錮
9月19日 三連枝の藩政関与解除
9月27日 日下部伊三治逮捕
10月〜 高橋多一郎・金子孫二郎は大老井伊直弼暗殺の支援要請のため、関鉄之介・矢野長九郎・住谷寅之介・大胡聿蔵を西国諸藩へ遊説に向かわせた
関鉄之介・矢野長九郎 福井→鳥取→長州(安政六年2月引上げ)
住谷寅之介・大胡聿蔵 北陸道→丹波→摂津→播磨→讃岐→土佐→宇和島(安政六年1月引上げ)
安政六年(1859)
4月 安島帯刀・鮎沢伊太夫・茅根伊予之介らに評定所出頭の命が下る
5月〜 幕府の処分に憤った水戸の士民らが再び南上、小金宿付近に屯集(第二次小金屯集)
8月27日 幕府は水戸藩に対し、さらなる厳しい処分を下す(第二次安政の大獄開始)
徳川斉昭 水戸国許永蟄居
一橋慶喜 隠居・謹慎
徳川慶篤 差控え
安島帯刀 切腹
茅根伊予之介・鵜飼吉左衛門 死罪
鵜飼幸吉 獄門
鮎沢伊太夫 遠島
9月 大場一真斎が勅諚を密かに江戸から水戸へ移し、城内祖廟に収めた
10月 小金屯集勢追々解散
水戸藩から、さらなる処罰者が出る
金子孫二郎・野村彝之介 逼塞
高橋多一郎 遠慮
10月7日
頼三樹三郎・橋本左内 死罪
10月27日
吉田松陰 死罪
大久保要ら(土浦藩士) 永押込
大竹儀兵衛(水戸藩) 押込
黒澤止幾子(水戸藩女流勤皇家) 中追放
11月12日
高橋多一郎・金子孫二郎・関鉄之介 蟄居
野村彝之介・大胡聿蔵 左遷
12月15日 大老井伊直弼は慶篤に勅諚返納を命じた
12月16日 安藤信睦は小石川藩邸を訪ね、慶篤に勅諚返納を迫った
12月20日 勅諚返納問題に関して水戸城内で大評定が行われた
激派 断固返納反対、勅諚を諸国に伝達すべし
鎮派 どうせ返納するならば、幕府ではなく朝廷に直接返納すべし
12月24日 水戸での評定の結果、勅諚は朝廷に直接返納することに決定した
12月26日 24日に決した評定の結果を幕府に報告すべく、太田資始・肥田政好(家老)が水戸を出発した
長岡に屯集していた激派の面々が、江戸へ向かう両家老を押しとどめようとしたが、なんとか通過
12月28日 江戸に到着した太田資始・肥田政好(家老)は安藤信睦を訪ね、仔細を報告するが断固返納をと迫られる
12月29日 太田資始・肥田政好(家老)は再び安藤信睦を訪ね勅諚返納猶予を願い出るが、聞き入れられず
万延元年(1860)
1月4日 高橋多一郎・金子孫二郎の命を受けた木村権之衛門・畑弥兵・内藤文七郎は、井伊大老暗殺につき薩摩藩有志(有村雄助・次左衛門兄弟・田中直之進ら)と協議するため、水戸を発ち江戸へ向かった
1月9日 安藤信睦が水戸藩邸を訪ね、勅諚返納を迫り威嚇した
1月15日 安藤信睦は登城した慶篤に、勅諚返納期限を1月25日とすること、期限までに返納されない場合は御家取潰しも有り得ると迫り威嚇した
1月27日 慶篤は、藩の情勢により返納できない旨安藤信睦に報告した
1月23日 木村権之衛門・佐野竹之介・黒沢忠三郎は薩摩藩有村兄弟と再度協議のため、水戸を発ち江戸へ向かった
1月28日 安藤信睦は興津勝五郎・尾崎豊後(家老)を呼びつけ、勅諚即返納を迫った
1月28日 安藤信睦は興津勝五郎・尾崎豊後(家老)を呼びつけ、勅諚即返納を迫った
2月18日 高橋多一郎・住谷寅之介・関鉄之介・矢野長九郎・浜田平介らに評定所出頭命令が下った
住谷・矢野・浜田は出頭、獄に投じられたが、のち浜田は出獄、閉門
高橋多一郎は嫡男庄左衛門・黒沢覚蔵・大貫多介と脱藩、薩摩藩有志と行動を起こすため大坂へ向かった
金子孫二郎は嫡男勇二郎・稲田重蔵・佐藤鉄三郎・飯村清介と脱藩、江戸へ向かった
関鉄之介も脱藩し江戸へ向かった
2月19日 森五六郎が水戸を発ち江戸へ向かった
2月21日 大関和七郎・斎藤監物・海後磋磯之介らが水戸を発ち江戸へ向かった
2月22日 長岡勢討伐のため弘道館教職・諸生から成る約400名の追討軍が水戸を出発したが、現地へ到着すると既に事前に察知した長岡勢は解散したあとだった
2月24日 家老肥田政好が勅諚返納不可能とする諌書を斉昭に提出
水戸藩士斎藤留次郎は諌書を認め水戸城中大広間の廊下で自刃した
3月1日 金子孫二郎は、木村権之衛門・斎藤監物・稲田重蔵・有村雄助らを日本橋の茶屋に集め、決行日は3月3日、要撃は井伊直弼一人とすることを伝えた
また、金子が京へ潜行する際の同行者として佐藤鉄三郎が選ばれた
3月2日 品川の稲葉屋で訣別の宴が開かれた
参加者:野村彝之介・木村権之衛門・関鉄之介・斎藤監物・佐藤鉄三郎・黒沢忠三郎・大関和七郎・佐野竹之介・広岡子之次郎・森五六郎・稲田重蔵・山口辰之介・鯉渕要人・森山繁之介・海後磋磯之介・岡部三十郎・杉山弥一郎・蓮田一五郎・広木松之介
3月3日 芝愛宕山集合
桜田門外で待ち伏せ、登城してきた井伊直弼の行列に斬り込み首級を揚げた
黒沢忠三郎 脇坂邸に自訴、後細川邸、九鬼長門守家来方と移され、文久元年(1861)7月12日死亡(32才)
有村次左衛門 大老の首級を揚げた後重傷のため自刃(23才)
増子金八 義挙の後現場を脱出、維新後まで存命、明治四年(1871)病死(60才)
山口辰之介 重傷のため自刃(29才)
杉山弥一郎 細川邸に自訴、後堀邸に移され、文久元年(1861)7月26日刑死(39才)
鯉渕要人 重傷のため八重洲河岸で自刃(51才)
蓮田一五郎 脇坂邸に自訴、後細川邸、本多邸、柳沢邸と移され、文久元年(1861)7月26日刑死(29才)
広木松之介 義挙の後現場を脱出、諸国流浪ののち相州鎌倉上行寺に寄宿していたが、高橋・金子ら同志の刑死を知り、文久二年(1862)3月3日自刃(25才)
佐野竹之介 脇坂邸に自訴するが、重傷のため死亡(22才)
大関和七郎 細川邸に自訴、後京極飛騨守家来方に移され、文久元年(1861)7月26日刑死(27才)
森山繁之介 細川邸に自訴、後田村邸、戸田邸と移され、文久元年(1861)7月26日刑死(26才)
森五六郎 細川邸に自訴、後稲葉伊予守邸、片桐邸と移され、文久元年(1861)7月26日刑死(24才)
海後磋磯之介 義挙の後現場を脱出、維新後まで存命
稲田重蔵 斬り込み中に戦死(47才)
広岡子之次郎 重傷のため辰の口酒井雅楽頭屋敷前で自刃(19才)
斎藤監物 脇坂邸に自訴、後細川邸に移されるが重傷のため3月8日死亡(39才)
関鉄之介 現場を見届けた後西国へ移動、諸国を潜行するが、越後湯沢温泉で水戸からの捕吏に捕らえられ、江戸へ送られ、文久二年(1862)5月11日刑死(39才)
<襲撃にあたっての規約5ケ条>
一、武鑑を携え諸家の道具鑑定の体をよそおうべし
一、四・五人ずつ組になり互いに応援すべし
一、最初は先供にうちかかり駕籠脇の狼狽するを見て「元悪」を討ち取るべし
一、「元悪」を十分討留めたと考えても必ず首級を揚げるべし
一、負傷者は自殺または老中方へ赴いて自訴すべし。それ以外の者は京都へ潜行すべし

この日は季節はずれの大雪で、井伊家の徒士たちは一様に雨合羽を着用し、大小にも油紙などで柄袋が かぶせてあり、しかも折からの雪、突然の敵襲にすぐに刀を抜くことができなかった。 好条件のうえ、水戸脱藩士たちは敵一人に対して4・5人ずつで斬りかかる戦法をとったため、小人数にも関わらず大老の首級をあげることができた。 襲撃開始から大老暗殺まで、およそ数分のできごとである。
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