水戸藩2代藩主徳川光圀公の命により、明暦3年(1659)に始められ、250年をかけて明治39年(1906)に完成した、 「大日本史」編纂事業を遂行する過程で起こり、発展した学問全体のこと。
特に有名なのは幕末、ときの藩主斉昭が強烈な攘夷主義を主張して、当面する社会の課題解決を目指し、 藩政改革を本格化させたころの後期水戸学。(藤田東湖・会沢正志斎らが有名)
斉昭はその激しさから【烈公】と称された。
「攘夷」とは、「夷荻」(外国勢力)を打ち払い神国日本を守ること。
外敵を打ち払うには天皇崇拝による国民の精神的団結が不可欠であることから 「尊王攘夷論」がうまれた。 水戸学が根底にながれる水戸の攘夷思想は、長州・肥後など各地の尊王の志士たちに多大な影響を与えた。 (吉田松陰・橋本佐内・高杉晋作・桂小五郎など多数)
その強烈な攘夷思想が、やがて倒幕の精神を育むことになった。
■根深い水戸藩内部抗争
8代水戸藩主 斉脩は生来病弱のため後継ぎがいなかった
藩内部では後継ぎをめぐって
改革派 門閥派が激しく対立

門閥派(家老 榊原照昌・赤林重興) 清水恒之丞(将軍家斉の23男で御三卿清水家を継いでいる)
改革派(藤田東湖・会沢正志斎) 斉昭(斉脩の異母弟)

●1830年(文政12)斉脩死去 遺言により弟の斉昭が家督を継ぐ
門閥派を一掃し大規模な藩政改革を行う
1.藩内総検地 天保11年〜13年にかけて実施
2.藩校・郷校の設置 藩校弘道館、郷校敬業館・興芸館・時雍館など
3.藩士の定府制の廃止 定府の江戸詰藩士を一年交代で水戸へ下向させることにする
4.軍政改革 那珂湊の海防対策・追鳥狩と称する大規模な軍事演習実地
5.社寺改革 神仏分離(日本は神道に基づくとし仏教的要素を排除した)
6.質素倹約の徹底 藩主自ら衣食住にわたり厳しい倹約に徹した
●1843年(天保14)斉昭藩政改革を幕府から賞される
将軍家慶から東湖へ縮緬を賜り、斉昭へ金装刀・黄金など下賜された

●1844年(弘化元)斉昭江戸藩邸で謹慎処分・新藩主擁立
(社寺の改革で仏教界からの強い怒りを買い幕府が体裁を取り繕うために斉昭を処分した)
藤田東湖・戸田忠敞らも処罰され改革派が一掃された
用達結城寅寿ら門閥派の擁立した斉昭の嫡子慶篤(13歳)が10代藩主となる
斉昭雪冤運動のため改革派は江戸へ何度も陳情に行く(武田耕雲斎や農民他)

●1849年(嘉永2)幕府が斉昭の復権・藩政関与を認める
門閥派の一掃

●1853年(嘉永6)ペリー来航・斉昭海防参与に任じられる
改革派 藤田東湖・戸田忠敞らも罪を解かれ海防御用掛として斉昭を補佐
斉昭は『海防愚存(かいぼうぐそん)十ケ条』を幕府に提出
国防強化@アメリカの要求は聞き入れないA大船建造・大砲鋳造・鉄砲の訓練


●1854年(安政元)ペリー再来
幕府は弱腰で日米和親条約に調印してしまう 斉昭怒って海防参与を辞任

●1854年(安政元) 斉昭今度は軍政参与にとりたてられる
全国的な毀鐘鋳砲で反対にあい辞任

●1855年(安政2) 安政の大地震(藤田東湖・戸田ら圧死)
阿部が老中を辞任・後任は反斉昭の堀田正睦

●1857年(安政4) 将軍継嗣問題激化
一橋擁立派(一橋慶喜) 水戸藩 尊攘激派(安島帯刀・茅根伊予之介・高橋多一郎・金子孫二郎ら)
福井藩主 松平慶永
薩摩藩主 島津斉彬
宇和島藩主 伊達宗城
紀州擁立派(徳川慶福) 和歌山藩家老 水野忠央
彦根藩主 井伊直弼

孝明天皇の勅許を得られないまま日米修好通商条約を強行に調印
将軍継嗣問題は紀州慶福を推すことに決定


戊牛の密勅(ぼごのみっちょく)>孝明天皇から幕府だけでなく水戸藩へも同様の勅定が降された(水戸藩への降下が先)
1、 日米修好通商条約が勅許を得ないで調印したことは不都合である

2、 水戸・尾張・越前家への処罰がどのような罪によるものか理解しがたい
3、 大老・老中は御三家・諸大名の意見を十分尊重し朝廷と連携して国を治めるべきである
尊攘派(改革派)の分裂
激派…勅定をすぐに全国諸大名に伝達すべし
(安島帯刀・高橋多一郎・金子孫二郎ら)
鎮派…慎重にすべし
(会沢正志斎ら)
幕府からは一刻も早く勅定を返納すべしとの催促が来る、水戸藩では返納をめぐる内部争いがおこる

徳川斉昭:国許永蟄居 慶篤:差控え 一橋慶喜:隠居謹慎

■大獄による水戸藩士犠牲者■
安島帯刀(切腹)
茅根伊予之助・鵜飼吉左衛門(死罪)
鵜飼幸吉(獄門)
鮎沢伊大夫(遠島)

●1859年(安政6)12月〜 激派長岡屯集
密勅返納を阻止するため江戸への街道要所長岡宿に激派が屯集しはじめる

●1860年(万延元)2月 消魂橋事件
長岡屯集勢と水戸藩家老鳥居らの兵が衝突
長岡勢は2月中には解散

●1860年(万延元)3月3日 桜田門外の変
関鉄之助ら水戸脱藩士18名
(尊攘激派)
・薩摩藩士1名(有村)の計19名が登城途中の大老井伊直弼を襲いこれを殺害した

●1860年(万延元)6月19日 成破同盟成立(丙辰丸の盟約)
品川碇泊中の長州藩軍艦丙辰丸上で結ばれた
水戸藩が老中暗殺など活動をし長州藩は事後収拾をはかる、というもの
水戸代表:西丸帯刀・岩間金平・園部源吾---長州代表:桂小五郎・松島剛蔵

●1860年(万延元)8月15日 斉昭死去
井伊の死後、幕府は安藤老中を中心に公武合体策を推し進める
慶篤の登城禁止を解き斉昭の永蟄居を免除する
さらに水戸藩では
尊攘激派 を抑えるために激派
に信頼の厚い3家老(武田耕雲斎・大場一真斎・岡田徳至)を再登用する

●1861(文久元)5月27日 東禅寺事件
水戸藩士たちが英公使オールコック暗殺を企て東禅寺を襲撃

●1861(文久元)6月 武田・大場・岡田ら3家老を謹慎処分
変わって
鎮派 の興津所左衛門を用達に登用(これ以降鎮派 が力を持つようになる)

●1862年(文久3)1月15日 坂下門外の変(成破同盟の実行)
水戸脱藩士6名が登城途中の安藤信正老中を襲う(軽傷)

●1862(文久2)7月 一橋慶喜が将軍後見職・松平慶永が政治総裁職に

●1862(文久2)8月 
激派(改革派) 3家老復職
水戸藩主慶篤は「戊午の密勅」を奉承し諸大名へ布告することにより勅定問題に決着をつけた
安政の大獄で投獄されていた鮎沢伊太夫ら釈放される

●1862(文久2)12月 慶喜は武田耕雲斎・魁介父子ら他を引き連れ上京

●1863(文久3)3月 慶篤が弟昭訓と共に上京(藤田小四郎も上京)
西本願寺近く、柿本町本圀寺が水戸藩の屯所になる
慶篤はすぐ江戸へ戻ることになるが、弟昭訓と、これに従う原市之進・山口徳之進ら藩士たちはそのまま滞京することに
(のちの
本圀寺勢:天狗党西上時には助命運動に奔走)

●1863(文久3)8月18日 八月十八日の政変
会津・薩摩軍が中川宮を担ぐ長州勢を京都から追い出す(七卿の都落ち)
これ以降水戸藩内では
激派たちが郷校に集結しはじめる
●1863(文久3)年末 幕府の命により武田耕雲斎は激派取締りのため水戸へ下向

●1864(元治元)3月27日 天狗党筑波山挙兵(田丸稲之衛門・藤田小四郎ら)


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