烈士の人物像
 其の壱    藤田小四郎
天保十三年(1842)生まれ  父:藤田東湖  母:土岐さき(妾) 場所:水戸市梅香
小四郎の母土岐氏について
ある年、烈公が質素を命じ絹布の衣服を禁じていた時に、土岐氏が絹の衣服を身につけ外出ようとしたのを、 東湖の母が「其の服は禁じられているので無用である。」と咎めたが土岐氏は従わず、ついに東湖の正妻里子が見かねてこれを放逐した。
東湖が土岐氏を迎えるに就いては、余程やかましかったので、兎に角女中よりも一段地位を高くして召抱えた。 ちょうど小四郎が二歳の時に母は離縁された。 其の頃敵対していた諸生党が、妾を置いて楽しんでいるようでは大抵東湖のやり方は知れた者だ、という評判が立った。 土岐氏は非常に勝気の人であったらしい。東湖の母は土岐が正妻を凌ぐようなことがないか、家庭に不和を来しはせぬかと常に憂えていた。 其の時、東照宮の例祭に、土岐氏が正妻里子と同じ帯を仕立てて出席したため世間の評判になり、我儘な振舞いだと東湖までもが批評された。一家に風波を起こしはせぬかということで、遂に土岐に暇を与えたのである。
東湖先生御妹婿久木直次郎いわく
小四郎が7、8歳の頃、東湖先生と話をしていると、彼が庭の入り口から入ってきて、「お父さん、今あの杉の木の下に雉子が一羽いる所へ三尺ばかりの蛇が出てきて、その雉子をぐるぐる巻きつけた。すると雉子が二つ三つ羽ばたきすると、蛇の身体がバラバラに斬れてしまったよ。」と真面目に言うと、東湖先生は、「あの通り親を馬鹿にする仕様のない奴だ。」と言ったことがある。

またある時、二、三人で東湖先生の所で酒を飲んでいて、先生が手を打ったのに奥さんが「何か御用でござりますか。」と出てくると、廊下で遊んでいた小四郎が、「お母さん、お手が鳴ったら銚子とさとれ。」と唄いだしたので、先生は腹を立て、「無礼な奴だ。」と鞭を取って追いかけ回したことがあった。

ある日、東湖先生と話をしていると、往来を豆腐屋が通る。すると小四郎は大きな声で、「岡部忠蔵が来た。」と言うので、先生も自分も顔を見合わせて苦笑いをした。その訳は、大和言葉で、”オカベ即ち豆腐”のことにて、岡部に豆腐というあだ名を付けていたから、小四郎は之を聞き覚えておったものだ。
〜常陽明治記念会「水戸幕末風雲録」より〜
史家田尻稻里いわく
東湖先生には四人の男子と五人の女子があり、長男は早世し、二男が健二郎、次が大三郎、その下が小四郎だが、小四郎は妾腹より出たものだけれど、天資英邁不羈(てんしえいまいふぎ)とでも言わんか、嫡出の二兄より人物がずっと勝れて、東湖先生も一番望みを託していた。成長するに従って、才気煥発でいつも餓鬼大将だった。

誰かが先生に、三人の子供の性格をどう思うかと問うたら、先生いわく、「例えばここに美人があって、それを一室に入れ鍵番をさせるとすると、健二郎はおとなしく鍵番をしているだろう。大三郎は食指が動いて、主人に同室さしてくれと頼むであろう。小四郎はいきなり錠を壊して室に乱入し、美人を手籠にするであろう。」と言ったそうだ。
〜常陽明治記念会「水戸幕末風雲録」より〜
紀州屋養女大久保たかいわく
小四郎が紀州屋へ来たのは文久三年の11月頃であった。山田一郎、長谷川勝七等の縁故であった。初めて紀州屋へ来たときは、黒木綿の紋附綿入の着物を着て、一見田舎書生のような服装で、風采はあまりあがらなかった。そのうち、土浦の呉服屋から仕度を取寄せ、柔い物を着るようになってからは、相当立派な年若な武士となったが、それにしても風采は上の方ではなかった。中肉中背で鼻が平たく、目が丸くて大きくて眉毛が太かった。口が大きく、自分の握り拳が口の中に入ると云って皆が笑っていた。

年齢は一般の書き物には23歳となっているが、新地で旗挙準備をしているときは、自ら19歳だと秘かに漏らしていた。 年少では部下の統率上具合がわるいので、殊更に年を秘していたとの話が残っているから、御参考までに述べておく。 旗挙の少し前であった。同志も大分集ってきた頃、ある日小四郎は紀州屋の女将と次のような対話をしていた。 「おふくろよ、おら今日から21になったよ。」「豆を食べずに年をとるのはおかしいな。」その頃紀州屋には竹次郎という美男子の料理番がいた。 藤田は、「竹次郎!貴公の首とおれの首をすげかえることができればよいな。」など云って彼をからかっていた。

藤田は弁舌が爽やかで、談判事などは凡て彼が引き受けていた。 ある日紀州屋の裏二階で志筑藩の士を集めて滔々と説き聞かせて鉄砲借用の談判をしていたのが今でも眼に残っている。 酒はなかなかいける方で、呑むときっとごろ寝をする癖がある。 女中が心配して起こすと、「大丈夫だよ、今考え事をしているのだ。」というのが常であった。 口八丁、手八丁という性質で、撃剣もやれば弓も引く、槍もつかう、書もよくし、篆刻などをしていた。 風呂から上ると褌一つで行燈へ楽書きをするのが好きであった。あるときは、出刃庖丁を研いでいる絵をかいて、それに『北條時之助』と賛をかいた。 北條時之助という人が当時天狗の仲間にいた。仲居の者などが、「藤田さんのいる間は障子や行燈の貼り替えが忙しい。」 などど戯言を云っていた。あるときは、煙草盆の灰吹へ千枚透しで刻り物などをしていた。少しの間もじっとしていることのできない質で、 雪が降ると隣の稲荷の境内で仲間を集めて雪合戦をし、雪達磨などをこしらえ、風呂が熱過ぎるといっては、雪達磨を抱いて入って温度を加減する、 というようなことをやっていた。剣舞をよくした。なかなか上手であった。 しかしながら半面なかなか用心深く、紀州屋にいるときなども、心から女共に戯れるようなことはなかった。 敵を背負っているので非常に警戒をしていた。

小山に「小よし」という顔なじみの女があった。筑波へ立籠る少し前、上州方面を廻って来て帰ってきたとき、 「おふくろよ、小山で小よしに泣き別れをしてきたよ。」というような戯言を女将に語っていた。

酒は好きであるが、甘いものも好きであった。女将との間に次のような対話のあったことを記憶している。 「今日の御茶うけは何にしましょう。」「豆煎り(豆と餅と米とを砂糖でかためたもの)にしてくれ。」「甘くしてくれ。」 「酒が好きで甘いものも好きで仕末のならない人だね。」「どこへ行ってもこんなうまいものを食わしてはくれないよ。」揚げ餅なども非常に好きであった。

照光寺に集まるときは、紀州屋から弁当を運んだ。照光寺では炊事が玄米であって、堅くて食べられないから、 との注文であったためである。弁当のおかずは、鯛、かまぼこ等のうま煮に沢庵、奈良漬、味噌煮などの香の物を添えた。 「たまには新漬をご馳走してくれや。」などの注文もあった。藤田は煮付けが好きで、 非常によく煮込んだものを『親切煮』と称して、「親切煮にしてくれ。」という注文がよくあった。 鯛の煮付けなどを出すと残りの骨に煮湯をかけ、その汁を吸うのが好きであった。女中共がこれを見て、 「藤田さんはこんなことをしますよ。」と噂をし合ったが、そのうちに女共も好んでそれを真似するようになってしまった。

藤田は自分のことを、「小っちゃん」と称えていた。「小っちゃんの下駄をだれがはいた?」など言って台所で下駄を探していることがあった。紀州屋の女将なども普通には「小っちゃん」という敬愛的な呼び名を使っていた。 あるとき、『正六』と変名をしたことがあった。「おふくろ、今日から名前を変えたよ。」「何んと?」「正六。」「ひょうろく?おかしいね。」 「ひょうろくじゃないよ、しょうろくだよ。」というようなことを女将と語り合っていた。 その後一時、紀州屋でも、「正六さん」「正六さん」と呼んだことがあった。

藤田は御存知の通り、東湖先生の庶子であった。東湖が地震で死んだ後は本妻の方へ引き取られ、とにかく遠慮がちの生活をしてきた。 「遠慮だっぺい。なぁおふくろ、輪切れの大根二切れをもらうのにも、一々あたまを下げなければならないのだから。」というような苦労を女将に語っていた。

或る時、紀州屋女将が、病気で寝込んでしまったことがある。藤田は非常に心配して、 『われわれが何とかならないうちに死んではだめだぞ・・・』などと云って、親切に女将をいたはって呉れた。

舊八月の末頃であったか、天狗が落ち目になって、幕府の手先きがそろそろ廻って来た頃、藤田等は府中から小川街道を経て、湊の方へ立つこととなった。 紀州屋女将は一行を見送りして別れを惜んだのであった。(中略)その時、小四郎は『おふくろ、また対面します』・・・と云ったところ、 『またの対面はあてがないね・・・』・・・と女将は云って、両人は別れを惜み、小四郎は、丸い大きな目から涙をぽろぽろこぼしていたそうだ。
〜西村文則「藤田小四郎」より〜
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