津は日本三ヶ津の一つで、古くは「安濃津(あのつ)」といわれ、伊勢大社の参宮街道の要衝、近世では伊勢、熊野への唯一の海路湊として、栄えた地であった。
平安時代、伊勢平氏の主流、平正衡の領地であり、室町末期の永禄年間(1558〜68)細野藤敦が安濃川、岩田川がつくった三角州を利用して「安濃津城」を築いたと伝えられる。
永禄11年(1568)織田信長が津を攻略し、弟の信包にこの地を与えた。信包は旧城地を改築、五層の天守を中心とする本丸、二の丸、三の丸の近世城郭を完成した。
文禄2年(1593)には富田知信が五万石で入封、関ヶ原の戦いのとき東軍に属し、西軍の毛利秀元三万の軍に包囲され城の建物は焼失した。
慶長13年(1608)藤堂高虎が伊賀・伊勢両国二十四万石(のち三十二万石)で入封すると城を大拡張して、旧来の中世的な面を一切壊して、今に見る大石塁と城郭の大改修を行い、本丸の北東と北西に三層櫓、南東に二層櫓が林立する威勢であったが、天守は建てられず、天守台を築くまでに終わった。
岩田川の流水を引き込んで外堀にし、東北方は堀川を浚渫して舟運路を開き、その土を利用して高々と土塁を積んだ安濃川、岩田川河口の平地に水よる防備の縄張りであった。
本丸、東の丸、西の丸を内濠で囲み、互いに連結しさらに二の丸、三の丸を外濠で囲んだ。
本丸南西隅に設けられた天守台は、東西約14m、南北16mの規模で、高さは約8mである。天守台の東側には櫓台が付属し、その東側には堀際の犬走りに抜ける埋門が設けられていた。天守台の北側には穴蔵に連結する石塁が伸びていたが、現在は撤去されている。そのため、現在は天守台への昇降路が存在しない。天守台の南側は犬走りを介して、水堀がめぐっていたが、現在は埋められて旧観を損なっている。
( 江戸時代終わり頃の津城の様子(現在の津城)へ )
藤堂高虎が大修築した城ですが、現在は公園となり、本丸と西の丸の一部が残り、復興の三層隅櫓、藤堂高虎を祭る高山神社、高虎の騎馬像がなどがあるのみで、無残にも都市に飲み込まれた感じでした。
公園の中心には、ぽつんと藤堂高虎の銅像がありましたが、ちょっと哀れでした。
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