東条城跡
―― 中世に吉良荘の東側を治めた東条吉良氏の居城 ――
その三男義継は吉良荘東条を譲られ、東条吉良氏の祖となった。 以後、十四代義昭に至って滅ぶまで、吉良氏は足利一門として栄え、東条の地は三百余年、足利・吉良氏の三河・遠江支配の重要拠点であった。 現在、城は独立丘陵に位置するように見えますが、本来は茶臼山(291m)から伸びる尾根の先端部にあたり、現在の剣道は尾根の掘り切り部分を通っています。 城の東から南の沼田は藤波畷とよばれ、矢崎川と支流の炭焼川が自然の堀の役割を果たしていました。 南北朝時代、四代貞家は奥州管領として東国に赴いた。 その後裔が関東吉良氏である。
十二代持広は、松平清康の妹を娶り、清康が尾張守山に不慮の死を遂げるや、清康の遺児仙千代(徳川家康の父・広忠)の親代わりとなり、松平一門の危機を救った。 家康は、桶狭間合戦以後織田信長と結び、吉良・今川氏と戦い、永禄4年(1561)東条城を攻め、十四代義昭、降伏して東条吉良家は滅亡する。 しかし、天下を掌握した家康は、十三代義安の子義定を旗本に取り立て、吉良家を再興した。 これが江戸時代の高家吉良家の始まりである。 落城後の東条城には、青野松平家の家忠が入って、東条松平家が成立した。
家忠の伯父松井忠次は、これを補佐して武功をあげ、遠江牧野城代・駿河三枚橋城主となり、松平姓を与えられて周防守康親と名乗った。 天正9年(1581)家忠が男子なく没すると、家康の四男忠吉を後嗣に迎えた。 康親は、天正11年に没したが、子孫は多く、幕府の要職についた。 忠吉は、関ヶ原合戦後、尾張清洲城主となるが、慶長12年(1607)に没し、後嗣なく、東条松平家は断絶した。 また、ここには高名な文人・武人が多く訪れていた。 室町時代に、歌人冷泉為和が立ち寄り、連歌師宗長はここで連歌の会を催した。 武人では、信長・家康も鷹狩りにことよせて訪れている。 東条城は、天正18年(1590)に家康が関東に移った後、廃城となった。 それ故、現在の遺構は天正年間の姿を伝えるものである。
平成元年のふるさと創生1億円でこの城は公園として整備され、本の丸の周囲には土塁が残り、大手虎口に城門がとその脇に井楼形式の物見櫓が復元(模擬?)されて、戦国時代の砦の雰囲気の様子がよく判ります。 櫓の階段にはいずれにも、"きけん!登らないで下さい"との看板がありますので、注意してください。 |
| 東条城跡 平成18年8月11日時点 | |
| ◇交通機関 |
■公共交通機関の場合 ・名鉄西尾線駅上横須賀駅から、北東に約1.5km(徒歩約20分) ■車の場合 ・東名高速岡崎IC ⇒ 県道26号線 ⇒ 県道48号線 ⇒ 県道43号線 ⇒ 県道42号線5km程南下、 あるいは、国道23号(知立バイパス)「西尾東インター」を下り、県道42号3.2km程南下し、 「寺島」信号を左折して県道318号を焼く500m (駐車場) ・東条城古城公園の無料駐車場(約10台程度)を利用。 |
| ◇問い合せ |
・吉良町教育委員会 教育部 生涯学習課 文化財担当(吉良町立図書館内) TEL:0563−32−3400(代表) ※ 吉良町のホームページ |
| 参考文献 | ・現地の解説板 |