東条城跡

―― 中世に吉良荘の東側を治めた東条吉良氏の居城 ――

復元された大手虎口の城門
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復元された大手虎口の城門
 
本丸内からの復元された大手虎口の城門と物見櫓
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本丸内からの復元された
大手虎口の城門と物見櫓
 鎌倉時代の貞応元年(1222)頃、足利義氏が三河守護・吉良荘地頭となった。
 その三男義継は吉良荘東条を譲られ、東条吉良氏の祖となった。

 以後、十四代義昭に至って滅ぶまで、吉良氏は足利一門として栄え、東条の地は三百余年、足利・吉良氏の三河・遠江支配の重要拠点であった。

 現在、城は独立丘陵に位置するように見えますが、本来は茶臼山(291m)から伸びる尾根の先端部にあたり、現在の剣道は尾根の掘り切り部分を通っています。
 城の東から南の沼田は藤波畷とよばれ、矢崎川と支流の炭焼川が自然の堀の役割を果たしていました。

 南北朝時代、四代貞家は奥州管領として東国に赴いた。
 その後裔が関東吉良氏である。

八幡社(二の丸)からの三の丸広場と大手虎口の城門
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八幡社(二の丸)からの
三の丸広場と大手虎口の城門
本丸広場
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本丸広場
 
 室町時代、応仁の乱(1467〜)では、十代義藤は山名宗全に味方して、細川方の西条(西尾)と骨肉相争う悲劇を味わった。

 十二代持広は、松平清康の妹を娶り、清康が尾張守山に不慮の死を遂げるや、清康の遺児仙千代(徳川家康の父・広忠)の親代わりとなり、松平一門の危機を救った。

 家康は、桶狭間合戦以後織田信長と結び、吉良・今川氏と戦い、永禄4年(1561)東条城を攻め、十四代義昭、降伏して東条吉良家は滅亡する。
 しかし、天下を掌握した家康は、十三代義安の子義定を旗本に取り立て、吉良家を再興した。
 これが江戸時代の高家吉良家の始まりである。

 落城後の東条城には、青野松平家の家忠が入って、東条松平家が成立した。
本丸からの八幡社(二の丸)
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本丸からの八幡社(二の丸)
本丸物見櫓からの三の丸広場
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本丸物見櫓からの三の丸広場

 家忠の伯父松井忠次は、これを補佐して武功をあげ、遠江牧野城代・駿河三枚橋城主となり、松平姓を与えられて周防守康親と名乗った。
 天正9年(1581)家忠が男子なく没すると、家康の四男忠吉を後嗣に迎えた。
 康親は、天正11年に没したが、子孫は多く、幕府の要職についた。
 忠吉は、関ヶ原合戦後、尾張清洲城主となるが、慶長12年(1607)に没し、後嗣なく、東条松平家は断絶した。
 また、ここには高名な文人・武人が多く訪れていた。
 室町時代に、歌人冷泉為和が立ち寄り、連歌師宗長はここで連歌の会を催した。
 武人では、信長・家康も鷹狩りにことよせて訪れている。

 東条城は、天正18年(1590)に家康が関東に移った後、廃城となった。
 それ故、現在の遺構は天正年間の姿を伝えるものである。

登城口と帯曲輪
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登城口と帯曲輪
城入口そば県道沿いの城址碑
城入口そば県道沿いの城址碑

( 東条城の鳥瞰図(復元図)と案内図へ (32kB+23kB) )

 平成元年のふるさと創生1億円でこの城は公園として整備され、本の丸の周囲には土塁が残り、大手虎口に城門がとその脇に井楼形式の物見櫓が復元(模擬?)されて、戦国時代の砦の雰囲気の様子がよく判ります。

 櫓の階段にはいずれにも、"きけん!登らないで下さい"との看板がありますので、注意してください。

  東条城跡                                    平成18年8月11日時点  
◇交通機関 ■公共交通機関の場合
・名鉄西尾線駅上横須賀駅から、北東に約1.5km(徒歩約20分)
■車の場合
・東名高速岡崎IC ⇒ 県道26号線 ⇒ 県道48号線 ⇒ 県道43号線 ⇒ 県道42号線5km程南下、
 あるいは、国道23号(知立バイパス)「西尾東インター」を下り、県道42号3.2km程南下し、
         「寺島」信号を左折して県道318号を焼く500m
 (駐車場)
   ・東条城古城公園の無料駐車場(約10台程度)を利用。
◇問い合せ ・吉良町教育委員会 教育部 生涯学習課 文化財担当(吉良町立図書館内)
    TEL:0563−32−3400(代表)
    ※ 吉良町のホームページ

参考文献 ・現地の解説板

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