
二ノ丸堀をはさんで 南東方面からの巽櫓
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二ノ丸堀をはさんで北東方面からの東御門
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今から650年ほど前の室町時代に今川範国が駿河国の守護に任じられ、以後駿河国は今川氏の領土の一つとなります。
今川氏全盛期9代義元の時代に、徳川家康(幼名 松平竹千代)は人質として19歳までの12年間、駿府で生活しています。
後に戦国大名、そして天下人へと成長していく過程で臨済寺の住職太原雪斉などから種々の教えを受けており、家康の人間形成の上で非常に重要な時期を駿府で過ごしています。
戦国争乱の中、永禄11年(1568)10代氏真は甲斐の武田信玄に攻められて掛川に落ち、駿府の町は焼き払われます。
さらに、天正10年(1582)駿府の武田勢を攻め、追放した徳川家康は遠江以東五ヶ国の大大名となり、駿府に入り城の造営を始めた。

発掘され一部顔を出した本丸堀
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大手御門方面の二ノ丸堀
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同17年工事は完成をみたが、慶長12年(1607)には隠居城として城域拡張と天守・御殿の新築工事にとりかかり、翌年には天守、御殿が完成した。
家康は元和2年(1616)に没するまで、駿府城で大御所政治を行ったのである。
家康の死後は徳川頼宣、徳川忠長が城主となった期間もあったが、以後は天領となり駿府城代が置かれ幕末を迎えた。
◆東御門(ひがしごもん)
東御門は、駿府城二ノ丸の東に位置する主要な出入口でした。
この門は二ノ丸堀(中堀)に架かる東御門橋と高麗門、櫓門、南および西の多聞櫓で構成される桝形門です。
桝形門は要所に石落し、鉄砲狭間、矢狭間等をもつ堅固な守りの実践的な門で、戦国時代の面影あを遺しています。

東御門橋からの東御門 (高麗門と多聞櫓)
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桝形内高麗門方面からの 東御門櫓門
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東御門の前が安藤帯刀の屋敷であったことから「帯刀前御門」、また、台所奉行であった松下浄慶にちなんで「浄慶御門」とも呼ばれ、主に重臣たちの出入口として利用されました。
慶長年間に築かれた東御門は寛永12年(1635)に天守閣、本丸御殿、巽櫓などと共に焼失し、寛永15年に再建されました。
今回の復元建物は、この寛永年間再建時の東御門・巽櫓の姿を目指し、日本の伝統的な木造工法によって復元したものです。
◆巽櫓(たつみやぐら)
巽櫓は、駿府城二ノ丸の東南角に設けられた三層二重の隅櫓で、十二支であらわした巽(辰巳)の方向に位置することから「巽櫓」と呼ばれました。

二ノ丸跡(三段堀方面)からの 東御門桝形
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二ノ丸堀をはさんで 北東方面からの北御門跡
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駿府城には二ノ丸西南の角に「坤(未申)櫓」もありました。
櫓は戦闘時には戦闘の拠点になり、望楼、敵への攻撃、武器の保管などの役目をもっていました。
焼失後、寛永15年に再建された巽櫓は幕末近くの安政大地震によって全壊してしまったと考えられています。
全国の城の櫓建築でも例の少ないL字型の平面をもち、駿府城の櫓の中で最も高く、"勝れた"櫓であったと言われています。
三重の堀のうち、二の丸堀の全部と三の丸の大部分が残っており、当時の駿府城の広さに感動ものです。
本丸堀も一部発掘、復元して往時を偲ばせますが、残念なのは天守台跡が影も形もないことですか。
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