岡崎城(別名・竜ヶ城)

―― 三河統一の拠点でもあった家康誕生の城 ――

再建された三層三階天守
再建された三層三階天守
 
 岡崎城は室町時代中期の享徳元年(1452)頃、三河守護職の西郷稠頼(つぐより、法名は清海)が岡崎平野の竜頭山に築城が始められ、北方を東西に掘りきって城地と、のちに清海堀と通称された空堀とし、康正元年(1455)に完成したと伝えられる。
 竜頭山は菅生川と沼地に囲まれた天然の要害で、ここはのちの岡崎城の本丸部分にあたるという。
中岡崎駅方面からの岡崎城遠望
中岡崎駅方面からの岡崎城遠望

 その後、戦国時代の大永4年(1524)に岡崎城は、松平清康(家康の祖父)に攻略されて、城地の拡張・整備などを行って、三河統一をめざす本拠となった。
 この段階で明大寺にあった館(以前の岡崎城)を竜頭山に移したとする説もある。

 天文11年(1542)12月26日、徳川家康は、ここ岡崎城内で誕生した。
 家康は、6歳で織田信秀(信長の父)、8歳で今川義元の人質となり、少年期を他国で過ごしたが、永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で、今川義元が戦死したことを契機に自立した。
 ときに19歳。以来、岡崎城を拠点に天下統一という偉業への基礎を固めた。

二の丸方面からの天守
二の丸方面からの天守
 
 元亀元年(1570)、家康は本拠を遠江浜松(静岡県浜松市)に移し、嫡男信康を岡崎城主とした。
 天正7年(1579)に信康が自刃したあとは、重臣の石川数正、ついで本多重次を城代とした。
 天正18年(1590)に家康が秀吉によって関東に移されると、秀吉の家臣田中吉政が城代となるが、家康が江戸に幕府を開いてからは、譜代大名にここを守らせた。
 江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏(康重系統)三代、水野氏七代、松平康福、本多氏(忠勝系統)六代をへて明治維新まで、家格の高い譜代大名が城主となった。
 石高こそ五万石前後と少なかったが、大名は岡崎城主となることを誇りとしたと伝えられる。

乙川とつながる堀
乙川とつながる堀
 西郷氏が築いた当初の岡崎城は、砦のようなもので、城域も現在の本丸程度であったろうと考えられるが、家康の頃までには近世の城郭としての原型ができあがった。
 田中吉政は、大規模な城郭の整備拡張を行い、文禄元年(1592)に、城を取り囲む東・北・西に総延長4.7キロに及ぶ総堀と内側に土塁を築き、この内に城下町を設けた。
対岸の岡崎市児童センター6Fロビーよりの岡崎城
対岸の岡崎市児童センター
6Fロビーよりの岡崎城
 また、元和3年(1617)本多康紀のときには、三層三階地下一階で、東に井戸櫓、南に附櫓をもつ複合天守閣が建てられた。

 城郭の整備にともない東海道が城下に引き入れられ、慶長14年(1609)には伝馬町ができて、岡崎は東海道有数の宿場町として繁栄するに至った。

 明治維新を迎えると情勢は変わり、新しい時代には不用とされた城郭の大部分は明治6年から7年にかけて取り壊されてしまった。
 このあとは、堀と石垣が昔日の面影をわずかに伝えるばかりであったが、岡崎の象徴である天守閣がないままではしのびないとする市民の思いは強く、昭和34年(1959)に、古写真等からほぼ昔どおりの外観の天守閣が復元された。

 いにしえ、東海道を往来する旅人が仰ぎ見たであろうその姿を、今我々も眺めることができる。

 家康が生まれ、天下統一の基礎を築いた城の破格に巨大な総構えの城の復元図に驚き。
 人道橋をわたっての対岸からの岡崎城の眺めもよし。


 岡崎城                                      平成10年8月13日時点  
◇交通 ・名鉄名古屋本線 東岡崎駅から徒歩約15分
・愛知環状鉄道 中岡崎駅から約10分
◇開城時間・午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
◇休場日・年末年始(12月29日〜1月1日)
◇入場料・大人:200円、小人:100円
  (三河武士のやかた家康館との共通券は、大人:500円、小人:270円)
◇お問合せ ・岡崎市観光協会
       TEL(0564)22-2122

参考文献 ・現地解説板、現地入手のパンフレット
・「復元イラストと古絵図で見る日本の名城」 全国城郭管理者協議会 監修 (碧水社 刊)

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