苗木城址(別名・赤壁城)
―― 岩盤上に巧みに築かれた奇観の城砦 ――
加藤景廉を祖とする遠山氏は室町時代に恵那郡内で勢力を拡げ、七遠山、遠山三人衆などと呼ばれた。このうち三人衆と呼ばれたのは岩村、明知、苗木の遠山氏であった。 戦国時代の城主遠山直廉は、織田信長の妹を娶り、信長方に属していた。 ところが、天正10年(1582)の本能寺の変で信長が討たれると、直廉の養子友忠は徳永家康方となり、豊臣秀吉方の金山城主森長可と反目し、長可は同年苗木城を攻め落した。 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、西軍(豊臣方)に属する川尻直次の守る苗木城を、友忠とその子友政が奪取する。 戦後、遠山友政は父祖の地苗木城を徳川家康から賜り、一万余石、以後苗木城は遠山氏十二代の居城として明治を迎えた。
標高426mの高森山は木曽川に突出しており、まさに天然の要害と呼ぶにふさわしい。 ただし、その山は岩盤が露頭しており、近世城郭を築くには極めて不利であり、そうした自然状況が他に例をみない城郭を築かしめたのである。 山頂の本丸は、わずか400平米に過ぎず、そこに天守、台所、居間、次の間、千畳敷などが構えられた。 天守は岩盤そのものを天守台とし、懸造による三階建てであった。 最下層の一階は二間X一間の天守床下で、板縁がついていた。 二階は三間四方で玉蔵と呼ばれ、ここが事実上の一階で天守の入口となり、三階は四間四方で懸造とし、柱穴が岩盤に穿たれている。 享保3年(1718)の苗木城絵図によると屋根は板葺、壁も板張であったようだ。
二の丸にはこのほか御朱印蔵や勘定所などがあった。 この二の丸と三の丸を仕切っていたのが二階建て櫓門の大門である。 三の丸は三代藩主友貞の時に設けられた。戦国時代は堀切であったところを埋め立てて三の丸とした。 三の丸には厩、中間部屋、薪材木小屋、作事小屋などが置かれ、西辺には大手門に相当する風吹門と、これを守る大矢倉などが連なっていた。 風吹門は二階建ての櫓門、大扉は横四尺、高さ一間一尺で潜り戸付きの巨大な城門で、二階は飼葉蔵となっていた。
最下層は穴蔵となっていたため、外観は二階建てに見えた。 二階、三階ともに五間四方の規模で、外観は土壁で、丸狭間や土戸付きの窓などが備えられていた。 井戸は大門脇と三の丸下、二の丸下、本丸下にあり、特に本丸下の井戸は千石井戸と呼ばれていた。 城内の建物はすべて板張で切妻造という特異な姿で、まるでアニメ映画の「もののけ姫」に登場する山上の砦のような城だった。 明治初年に建物はすべて解体されたものの、岩盤と巧みに組み合わされた石垣はほぼ完存している。
日本三大山城の岩村城とはまた違った巨石群を巧みに組み合わせた魅力のある山城で、私個人としては苗木城の方が好きです。 石垣の芸術品のような大矢倉跡はどこの天守台跡よりも立派ですし、整然と礎石群の残る二の丸跡や、各所に残るすごい巨石群など、要所に建てられた門と櫓の再現図をみながら、其の地で想像しても、当時の城は頑健にして勇壮であったと思われます。 標高721メートルと日本一の高さにある天守跡のすぐ下の大きな岩「馬洗岩」や南側の断崖下の木曽川の眺めは素晴らしいです。 |
| 苗木遠山史料館 平成17年5月3日時点 | |
| ◇交通 |
・JR中央本線中津川駅から北恵那交通バス「苗木」下車 徒歩20分、苗木城址まではさらに徒歩約5分 ・中央自動車道 中津川インターチェンジから城山大橋経由 車で10分 <案内図はこちら> |
| ◇開館時間 | 午前9時30分から午後5時まで(入館は午後4時30分まで) |
| ◇休館日 | 毎週月曜日、毎月第3水曜日、12月27日〜1月5日 (月曜日が祝日等にあたる場合は翌日の火曜日) |
| ◇入館料 | 一般 310円、小中学生 100円 |
| ◇お問合せ |
・苗木遠山史料館 TEL:0573-66-8181 ・中津川市役所農林商工部商工観光課 TEL:0573-66-1111(内線274・275) 公式ホームページ http://www.city.nakatsugawa.gifu.jp/ ・中津川駅前観光案内所 TEL:0573-66-2277 |
| 参考文献 | ・現地の解説板 ・歴史群像シリーズ よみがえる日本の城#16 (学習研究社) |