桑名城跡(別名・扇城)
―― 徳川・四天王の一人、本多忠勝が築いた城 ――
戦国末期、桑名地方は織田信長に平定され、信長の家臣滝川一益の支配を受けました 豊臣秀吉の時代、天正19年(1591)に一柳右近が桑名を領し、築城をはじめ、文録4年(1595)、伊勢神戸城(現在の鈴鹿市神戸)の天守閣を移したといわれています。 桑名に本格的な城郭が築かれたのは、慶長6年(1601)です。 徳川家康は関ヶ原の戦いの翌年、徳川四天王の一人で腹心の本多忠勝を桑名に配置しました。 忠勝は東城があった所を中心に縄張りを行い、近世城郭を造りました。 本丸・新城(城主御殿)・二之丸・三之丸・内朝日丸などを堀にて区画し、同時に城下町の整備も行い、大山田川・町屋川の流れを変えて外堀に利用し町の守りとしました。忠勝の行ったまちづくりを「慶長の町割り」と呼びます。
桑名城は揖斐川を利用した水城で、城内から船で川に出ることができました。 元和2年(1616)に忠勝の孫である忠刻は徳川家康の孫娘である千姫と結婚し、千姫は桑名城内に住みました。 しかし翌元和3年に本多家は姫路城に移封となり、松平(久松)定勝が11万石の桑名城主となり、吉之丸・外朝日丸などを拡張しました。 天守閣は四重六層の勇壮なものでしたが、元禄14年(1701)の大火で焼失し、以後は再建されませんでした。 門や露地門などを合わせて六十三ヶ所、櫓は九十五ヶ所とあります。 その後寛永12年(1635)に松平(久松)定綱が11万3千石の城主となり、宝永7年(1710)には松平(奥平)忠雅が10万石の城主となりました。
しかし、幕末戊辰の役(1868)の時、桑名藩は旧幕府方に付き、藩主松平定敬は東北地方を転戦し、最後は五城郭で降伏しました。 その間に国元は新政府軍に降伏し、無血開城して市内は兵火を免れました。 新政府軍は天守閣の代わりとなっていた三重の辰巳櫓を焼き払い、桑名城落城のしるしとしました。 その後桑名城の石垣は取り払われ、四日市築港の資材とされました。
明治維新以後荒廃していましたが、昭和3年(1928)松平定信(楽翁)没後百年祭記念のために公園として整備されました。 園内では4月に桜、5月につつじ、6月には花菖蒲まつりが行われます。 園内には戊辰の役の犠牲者森陳明をたたえる「精忠苦節」碑(明治23年=1890建)や水谷一楓の歌碑(昭和51年建)や土生暁帝の句碑(昭和59年建)、葛山たけしの句碑(昭和59年建)があります。 揖斐川の水を利用し、今でも、本丸・二の丸がいずれも堀幅が20mを超える水掘で囲まれています。 ただ、堀際の石垣は、四日市港整備のための石材として払い下げられて、現在ほとんど残っていないのが残念です。 |
| 桑名城跡 平成18年8月11日時点 | |
| ◇交通機関 |
■公共交通機関の場合 ・JR関西本線桑名駅、近鉄名古屋線近鉄桑名駅〜徒歩約15分 ■車の場合 ・名阪道東桑名IC ⇒ 国道258号線 ⇒ 国道1号線 ⇒ 市道 (駐車場) ・九華公園の無料駐車場を利用 |
| ◇問い合せ |
・桑名市役所文化課 桑名市中央町2−37 TEL:0594−24−1361 ※ 桑名市観光ガイド ( 桑名市役所のホームページ ) |
| 参考文献 | ・現地の解説板 ・桑名市役所のホームページから |