伊勢 神戸城跡

―― 金箔の瓦も用いた五重天守閣を築いた織豊系城郭の城 ――

本丸からの天守台の石垣(南東面)
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本丸からの天守台の石垣
(南東面)

 
天守台への上り石段(北東面)
天守台への上り石段
(北東面)

 
 伊勢平氏の子孫関氏の一族神戸氏は、南北朝時代(14世紀)飯野寺家町の地に沢城を築いて移った。

 神戸城は、五代神戸利盛が弘治年間(1555〜58)に築城したのに始まるといわれている。
 神戸氏七代目友盛は、北伊勢に威を振るったが、織田信長軍の侵攻により永禄11年(1568)信長の三男、信孝を養子に迎えて和睦した。

 信孝は、天正8年(1580)ここに金箔の瓦も用いた五重の天守閣を築いた。
 しかし、本能寺の変後、岐阜城に移り、翌年羽柴秀吉と対立して、兄の織田信雄に知多半島で自刃させられた。

 神戸城には信雄の家臣滝川雄利が入城した。
 文禄4年(1595)天守閣は、桑名城の隅櫓(神戸櫓)に移され、江戸時代を通して天守閣は造られず、石垣だけが残された。

天守台からの本丸跡(北東方面)
天守台からの本丸跡
(北東方面)

 
僅かに残る水堀と本丸土塁(南西面)
僅かに残る水堀と本丸土塁
(南西面)

 
 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで西軍に属した滝川雄利は改易され、代わって一柳直盛が五万石で入封した。
 その後、城主は、寛永13年(1636)に石川総長が二万石で入封し、二代を経て、享保17年(1732)本多忠統が一万五千石で入封し、城を改修する。
 本多氏の治世は、七代忠貫までの明治維新まで140年間続き、明治8年(1875)城は解体される。

 城は、本丸を中心に二之丸・三之丸・西曲輪・南曲輪を梯郭式に配置した縄張りであった。

 現在残っているのは本丸の天守台と石垣・堀、土塁の一部であり、本多神社と神戸城址の碑が建ち、神戸公園として整備されている。
 堀は埋められ、二之丸・三之丸、藩校など本丸以外の城のほとんどの部分が神戸高校の敷地となった。
本丸の土塁(東面)
本丸の土塁
(東面)

 
本丸土塁と水堀への道(南西面)
本丸土塁と水堀への道
(南西面)

 
 天守台や石垣に悲運の武将を偲ぶことができる。

 また、建物の遺構は、太鼓櫓と大手門が移築されて残っている。

( 伊勢神戸城 縄張り図へ (28kB) )

 現在本の丸部分が神戸公園となっており、内部には、野面積みの天守台が残っていて、丸みを帯びた川石が使用されているのが特徴的で、また本の丸を囲んでいた堀の一部が今でも残っています。

 準備不足で、神戸城から移築したという蓮華寺の太鼓櫓、四日市市顕正寺の大手門を見れず残念です。

  神戸城跡                                    平成18年8月11日時点  
◇交通機関 ■公共交通機関の場合
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 (駐車場)
   ・神戸公園の無料駐車場を利用
◇問い合せ ・鈴鹿市役所  三重県鈴鹿市神戸1丁目18−18
    TEL:059−382−1100(代表)
    ※ 鈴鹿市役所のホームページ

参考文献 ・現地の解説板
・歴史群像シリーズ・よみがえる日本の城16(学習研究社刊)

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