掛川城(別名・雲霧城)
―― 近世城郭へと変貌させた山内一豊 ――
その後、桶狭間の戦い(1560)で今川義元が織田信長によって倒されると、永禄11年(1586)義元の子氏真は武田氏に駿河を追われ、掛川城に立てこもりました。 翌年、徳川家康は、掛川城を攻め長期にわたる攻防の末、和睦により開城させました。 家康領有後、重臣石川家成が入城し、甲斐からの武田氏侵攻の防御の拠点となりました。 天正18年(1590)全国平定を達成した豊臣秀吉は、徳川家康を関東へ移すと、徳川旧領地には秀吉配下の大名を配置し、掛川城には近江長浜から山内一豊が入封した。
本丸・二の丸・三の丸等の諸曲輪を内堀・中堀の内側に配置し、城下の町割を行い、町全体を堀で囲む総構えを完成させた。 また慶長元年(1596)には本丸北側に天守を建築。縁と高欄が付いた白漆喰塗籠の天守であったらしく、貴族的な外観をもつ天守閣の美しさは、「東海の名城」と謳われました。 関ケ原の合戦(1600)後、一豊は土佐一国を与えられて高知に移るが、その際、高知城の天守を掛川城にならって築いたといわれる。 一豊移封後の掛川城には徳川譜代の大名数氏が城主を引き継ぎ、延享3年(1746)に江戸城を築いた太田道灌の子孫の太田氏が入城し、明治維新まで続いた。 この間、二度の大地震により被害を受けるなど損傷を被ったが、各城主は再建、修復に努めた。
天守閣は、平成5年(1993)8月に140年ぶりに掛川市民の熱意と努力が実を結び、木造により再建され、再び美しい姿を現しました。 掛川城天守閣は、外観三層、内部四階からなり、六間×五間(約12m×10m)の天守閣本体は、決して大きなものではありませんが、東西に張り出し部を設けたり、入口に付櫓を設けたりして外観を大きく複雑に見せています。 一階、二階に比べ四階の望楼部が極端に小さいのは、殿舎の上に物見のための望楼を載せた出現時の天守閣のなごりといえます。 白漆喰塗りごめの真っ白な外容は、京都聚楽第の建物を、黒塗りの廻縁・高欄は大坂城天守閣にならったと見られます。
掛川城御殿は、二の丸に建てられた江戸時代後期の建物で、現存する城郭御殿としては、京都二条城など全国でも数ヶ所しかない貴重な建物です。 書院造と呼ばれる建築様式で、畳を敷きつめた多くの室が連なり、各室は襖によって敷きられています。 当初は、本丸にも御殿がつくられましたが、老朽化したり災害にあって、二の丸に移りました。 現存する御殿は、嘉永7年(1854)大地震でそれまでの御殿が倒壊したため、時の城主太田資功(すけかつ)によって、安政2年(1855)から文久元年(1861)にかけて再建されました。 安政2年から明治2年(1869)までの14年間は掛川藩で使われましたが、廃城と同時に勤番所と徳川家兵学校に転用され、廃藩置県とともに掛川宿に無償下附され聚学校として使われました。
その後、江戸時代の藩の政治や大名の生活がしのばれる貴重な建物として、昭和47年(1972)から昭和50年まで保存修理が実施され、昭和55年(1980)1月26日、国の重要文化財に指定されました。 掛川城御殿は、7棟よりなる書院造で、部屋はそれぞれの用途に応じ約20部屋に分かれています 最も重要な対面儀式が行われる書院棟は、主室の御書院上の間と、謁見者の控える次の間・三の間から成ります。 藩主の公邸の小書院棟は、藩主の執務室である小書院と、藩主の居間として使われた長囲炉裏の間から成ります。 東側は藩政をつかさどる諸役所の建物で、目付・奉行などの役職の部屋、警護の詰所、帳簿付けの賄方、書類の倉庫である御文証などがあります。 小書院棟の北側には、勝手台所がありましたが、明治時代に撤去されてしましました。 江戸時代には、身分によって入口が異なっており、藩主や城代は車寄せ玄関に駕籠などを乗り付け、上級武士は玄関東側、、足軽は北側の土間から入りました。 平成5年8月に木造復元された真新しい天守閣と、対照的な重要文化財指定の現存の二の丸御殿は、必見。 |
| 掛川城 平成10年8月13日時点 | |
| ◇交通 | ・JR掛川駅から徒歩約10分 |
| ◇開城時間 |
・3月1日〜11月20日 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) ・11月21日〜2月28日(閏年の場合は29日) 午前9時〜午後4時30分(入館は午後4時まで) |
| ◇休場日 | ・年末年始(12月30日〜翌年1月1日) |
| ◇入場料 | ・大人:300円、小人:150円 (上記料金で天守閣、御殿のどちらも入館できます) |
| ◇お問合せ | ・掛川市商工観光課 TEL:(0537)21-1149 |
| 参考文献 |
・現地解説板、現地入手のパンフレット ・「復元イラストと古絵図で見る日本の名城」 全国城郭管理者協議会 監修 (碧水社 刊) |