
木曽川河畔からの 犬山城天守閣
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本丸内の本丸門から 犬山城天守閣
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犬山城は木曽川に望み、その南岸にある標高40mほどの丘陵の上に築かれている。尾張の北限を守り、対岸の美濃に向かう天守の姿は、小規模な建物であるが、川越しに見ると見事である。
関ヶ原合戦以前、犬山の城は現在の地の西南に位置し、同じく木曽川に望む三光寺山の頂にあった。
この三光寺山に城が築かれたのは戦国時代の天文6年(1537)のことで、築いたのは織田与次郎信康(織田信長の叔父)であった。
戦国時代なのでその後何代か城主がかわり、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の時の城主は石川備前守貞清で、貞清は、関ヶ原の合戦で石田三成に味方して西軍に与したため敗れ、合戦後除封され、犬山城は家康の治める所となった。
徳川家康により関ヶ原合戦の後、尾張国清洲城主となった松平忠吉は、領内北部を固めるため付家老の小笠原吉次を犬山城主とした。

杉の丸跡からの開門直後の 本丸門(鉄門)
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西北東の三方に武具棚のある 2階武具の間
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関ヶ原合戦後城主となった小笠原吉次は、三光寺山より条件の良い現在の地に築城したが、針鋼神社を白山平に遷座して、その跡に改めて城を築いたのである。
それまでこの地に鎮座していた針鋼神社は、平安時代中期に編集された『延喜式』にもその名が記されている由緒ある神社である。
この時築かれた建物で現存しているのは、現在の天守の一・二階部分である。
犬山城は、慶長4年(1599)木曽川上流にある美濃金山城が廃城になった際、その天守櫓と家臣長屋を時の犬山城主石川貞清(光吉)が貰い受け、木曽川を下って運び、犬山城に移築したので、金山城が天文6年(1537)の築城と伝えられているので、現存天守閣の最古のものと久しく言われてきた。
しかし、昭和36年から40年にかけて解体修理が行われた結果、金山城移築説は、ほぼ否定され、小笠原吉次によって造られた犬山城天守の姿は、次のように推測されている。

本丸内からの 本丸門(鉄門)
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70余年掛けて増築した 3階の唐破風
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まず、現存する一・二階部分の規模は変わらないが、棟が90cm程高かった。
現在漆喰で塗り込められている軒裏は、塗られることなく木部をあらわしていた。
屋根の上に望楼か何かを上げていたことが、当初二階の屋根に使われていたと判定された垂木に残っている貫穴から考えられる。
その後、平岩主計頭親吉のあと尾張藩付家老として元和3年(1617)に城主となった成瀬隼人正正成によって、現在の三・四階が増築された。
さらに、その子正虎によって三階の南北に唐破風が加えられ、このとき一・二階の大棟を下げ、破風の位置を変えて、四階の縁が四周をめぐるように改造された。
この時、ようやく現在見る犬山城天守の姿が完成したのである。
現存する天守の梁は木組みで、急傾斜の段梯子などは旧状をとどめている。
なお、現在一階内部に見られる座敷のつくりは、文化頃(十九世紀のはじ)の改造によるものと考えられている。

野面積高さ5mの 天守の石垣(内部)
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四方に回廊と高覧のある 4階高覧の間
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現在でもなお、国宝になっているのは、室町期の建築様式を残すことによっている。
江戸時代になり、尾張藩の付家老、成瀬勇人正正成が元和3年(1617)城主となってからは、成瀬家が代々うけついで、明治にいたった。
明治4年(1871)9代目成瀬正肥のとき廃藩置県で廃城になり、櫓や城門など天守閣を除くほとんど取り壊された。
明治24年(1891)の濃尾震災で、天守閣の東、南と西北の附櫓・城門がひどく壊れた。明治28年城を修理するという条件で再び成瀬家所有の城となった。
その後、伊勢湾台風でも被害を受けましたので、昭和36年4月から解体修理を始め、昭和40年3月20日竣工復元し、犬山市が復元竣工後、文化財保護委員会から管理団体として指定をうけた。

本丸北部の 七曲門(見晴門)跡の石垣
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天守最上階からの 本丸門(鉄門)と隅櫓
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昭和2年11月20日昭和天皇が登閣され、同10年(1935)5月13日国宝に指定された。さらに。昭和27年3月29日規則改正にともない改めて国宝に指定された。
全国唯一の個人所有でしたが、平成16年4月、財団法人「犬山城白帝文庫」が設立され、城の所有者は成瀬家から財団法人になった。
( 犬山城縄張り図へ(50kB+46kB) )
犬山城までは、名鉄犬山駅から城下町を散策しながら徒歩約25分、あるいは、名鉄犬山遊園駅から木曽川沿いの散策コース沿いに徒歩20分です。
または、橋を渡って、木曽川対岸をぐるっとまわり、農業用水取水のための堰堤橋を廻る40分コースもお勧めです。
最上部の展望台からみる眼下の木曽川の流れとはまた別の味わいです。
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