
天守曲輪跡からの天守閣
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市役所屋上展望所からの天守閣
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浜松は大永年間(1521〜27)駿河守護、今川氏親が引馬城を築いた。
永禄3年(1560)今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、徳川家康が、引馬城を攻め落とした。
元亀元年(1570)徳川家康は、居城の岡崎城をその子信康に与えると、浜松に新しく城を造りここに移った。
家康はかっての引馬城を破却し、その西、三方原台地の東南の地に、浜松城を築城し、29歳から17年間を浜松城で過ごした。
この間に家康は、浜松城を本拠として、有名な姉川、長篠、小牧などの合戦を繰り返し、数々の試練を乗り越えて領土の拡大を図り、城の修復も数度行い、城下町の整備にも努めた。
城郭は、南北約500m、東西約450mで、三方が原台の斜面に沿い、西北にあたる最高所に天守曲輪、その東に本丸、二の丸を配し、さらに東南に三の丸とほぼ一線に並び、梯郭式の築城法に属している。

天守閣入口
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天守曲輪は広大なものではなかったが、不等辺四角形の巨大な天守台が置かれていた。

浜松城公園方面入口からの天守
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その他作左曲輪、出丸等もあり、古城と称する個所は、引馬城址といわれている。
また現存する石垣は、築城当時そのままのもので野戦城にふさわしく粗けずりの岩を使い、頑丈に構築してある。
天正14年(1586)、駿府城(静岡市)に居城を移した家康は、同18年には豊臣秀吉により関東へ移封となった。
その後、秀吉の家臣である堀尾吉晴が入封、江戸に徳川幕府が開かれてからは、代々譜代大名がこれを守った。
その石高は、おおむね五万石前後で、松平(大給、本庄、大河内)、水野、高力、太田、青山氏等が在城し、井上氏になって明治を迎えた。

天守曲輪への石階段
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浜松城主から老中などの幕閣の要職に就くものが多く、出世城とまで呼ばれて譜代大名の注目を浴びた。
これも浜松城に十七年在城し、豊臣政権下の一番の出世頭となった家康の姿が重なるからであろう。
明治維新以後、城郭は壊され、すっかり荒廃に帰し、苔むす石垣にわずかに当時の面影を偲ぶばかりだったが、昭和33年(1958)春、浜松市民の努力が結実し、旧天守閣跡に立派な新天守閣の再建を見るにいたった。
粗削りの岩で頑丈に構築された現存する野面積みの石垣には、往時の素朴さが感じられます。
天守閣の周りは桜の木などが鬱蒼として写真をとるなら、そばの市役所屋上の展望所からが良。但し、金網越しですが。
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