二俣城(別名・蜷原城)

―― 徳川家康と武田氏が攻防を展開した城 ――

天竜川を背に本丸・天守台
ダブルクリックで拡大図(61kB)へ お城の説明が自動で始まる城入り口  山あいを流れてきた天竜川が、遠州平野に出ようとして大きく蛇行するところに二俣の町がある。二俣城はいま、この町の西はずれ、天竜川にのぞむ丘陵に野面積みの石垣をのこして戦国の昔をしのばせている。
 二俣城の築城年代は明らかではないが、『遠江国風土記』によると、駿河の守護斯波氏の家臣である二俣昌長が室町時代末期の文亀年間(1501〜03)に築城したと記されている。

 標高90mの台地上に築かれた二俣城は、北側から北曲輪・本丸・二之曲輪・蔵屋敷・南曲輪がほぼ一直線に配置されている。天守台のある本丸の南・北にそれぞれ虎口を設け、北虎口は食い違い虎口である。本丸西側には小規模な天守台が残っており、石積みは野面積である。本丸の南側には二之曲輪があり、枡形門跡がある。二之曲輪と蔵屋敷の間、そして蔵屋敷と南曲輪の間にはそれぞれ堀切がある。

 永禄11年(1568)12月かっら天正3年(1575)12月まで7年間、二俣城は、徳川・武田両氏の攻防の舞台となった。二俣城は天竜川と二俣川の合流点に位置する天然の要害であり、しかも、二俣は遠江の平野郷と北遠の山間地方とを結ぶ交通路の結線点で、遠州平野の「扇の要」であったからである。

二ノ曲輪方面からの天守台 本丸一の門跡からの二之曲輪虎口方面
<元亀3年の攻防>
 元亀3年(1572)10月、武田信玄は大軍を率い、信濃を経て遠江に進入し二俣城を攻撃した。武田軍は力攻めの方法をとらず、城の水の手を断つ作戦を選んだ。徳川軍の城兵が崖に櫓を建て、釣瓶で天竜川から水を汲み上げているのを知り、上流から筏を流して井戸櫓の釣瓶を破壊した。こうして2ヶ月ほどで二俣城は陥落した。
<天正3年の攻防>
 天正3年(1575)5月、長篠の戦いで勝利を得た徳川軍は、武田勢を一掃すべく二俣城の攻撃に着手した。鳥羽山に本陣を置き、毘沙門堂・蜷原(になはら)・渡ヶ島に砦を築き二俣城を包囲した。武田軍は7ヶ月で兵糧が底をつき城を明け渡した。そして二俣城には大久保忠世が入城し、徳川氏が関八州へ移封する天正18年(1590)まで在城した。
 この間大規模な修築がなされ、天守台をはじめとする諸施設を構築したと考えられる。
二之曲輪と蔵屋敷の間の堀切跡 蔵屋敷跡からの天竜川
 天龍浜名湖線二俣本町下車、歩いて10分ほどで入り口に到着しますが、石階段は登らず、先の駐車場まで行ってから登城道を登りだしてください。
 すると驚き、センサーで感知し、自動的にお城の説明が始まります。その説明を聞きながら登城してください。

 本丸に野積みの天守台が残されていますが、その天守台から見える天竜川の流れは絶景です。


二俣城の縄張り図

  二俣城                               平成15年5月1日時点  
◇交通  ・天竜浜名湖鉄道二俣本町駅下車、徒歩10分
◇問い合わせ  ・天竜市商工観光課   TEL 053-926-1111

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